嚆矢濫觴 こうしらんしょう
目を覚ますとそこはいつもの床ではない。田畑に揺れる彩る稲を、鍬を背負いて牛をひく老婆の姿が目にはいる。
「はて ここは」
寝そべる床であった場所は緑豊かな芝となり、掛かる蒲団は藁になった。夢の続きかと頬を捻るも目が覚めず、じんじんと捻る痛みが増すばかり。赤く痛む頬をはなし、どうもこれはと右手を頭に、前に横にと体を回すも揺れる景色に目を回した。
困ったものだとふと空に目を移すと、大きな翼の酉がいる。
「ん、、あやつは さきの」
寝むりにつく時刻前、紙の風船を飛ばし見たあの酉がいる。
酉は此方を見ては頭上高く旋回し、「こっちへいくぞ」と言わんばかりに羽を広げる。
「お前のせいか」
両の手を芝につけては浮かぶ酉にやきもきし、ここのわからぬ思いに八つ当たりをする。酉はそれでも「こっちへいくぞ」と、羽を揺らして飛んでいる。
こっちへいくぞと言われても、行く都合も持ってはいない。持っているのは解せぬ判らぬ類いのつまびらかなものばかり。それでも来いというのなら、そなたが此方に来るがよい。それが出来ぬなら、そちに従うことなどない。
酉に聞かぬとそっぽを向いて、背中を見せては手を振りかざす。酉はその仕草に声をあげ、一目散に目の前に現れた。
「なんと お前は、、しても行かぬぞ」
降り立つ酉は爪を見せ、羽を広げて威嚇する。振り払うように腕をあげ、顔を被うように手をふせる。酉は体の周りをバサバサと、重たい尻を叩くように羽をならして今一度頭上高く舞い上がった。
抜ける羽がちらほらと体の回りに落ちてはなびき、頭上に揺れては声をあげる。
「ならば どこへ連れていくというのか」
言葉の持たぬ酉に人の言葉が通じることはない。けれど意思は通じるもの。匂いや空気。感情的な音をも拾う。
酉は私の声に反応するかのように一度コクンと頭を下げては頷いて、今の一度に羽を広げた。
他人に何かを決められるとは、些か反発したくなるものである。けれど何かにつけて反旗を起こせば全てを無くし迷い落ちるというものでもある。しかしそれでも迷い落ちても構わぬとなれば、それはそれで旗を持てば良いだけでもある。けれど私は迷い落ちる程雄弁な足取りを身に付けてもいなければ、講釈垂れる勇気もない。あるとすれば、自分で穴を掘ることぐらい。
時として他人に全てを委ねることも必要であり、我が道を共に歩かせることも出来るということである。
橋を作るには地主から
全てを一つと目を向けるなら、幾つかの作業が見てとれる。全てに膝を合わせ話さなければ何も作れないということであり、それさえも出来なければ橋を建てる以前に、一人溜め息をたてることになる。
たてるたてない 世の始め
笑い話に 一人相撲
事の始まりから何をとれとて何一つ無駄なものなどない。と断言するも、無駄なものは多々ありもする。それを踏まえて繰り返す己の矛盾に頭をたらし、悩む心にムチをうつのである。
行って後悔 行かずに後悔。
行く行かぬも己の次第。決して誰ぞ誰ぞに言われたからと、他人定義に測るものでもない。ましてや順の進みを度外視するほど、人の情など単純ではない。何かにつけてあーだこーだと、皮肉めいた言葉を発する。人は何かのせいにしたがる。けれど私は己の答えと意図作る。それは人のせいにしたがるがゆえの遊び心でもある。要はムチを打つのは自分であり、打たれるのも自分だということ。痛みなど本の当の部分は他人にはわからぬこと。言うては、他人の痛みも気持ち程度しかわからぬということにもなる。
味わいなければ 知るよしもない
どちらに行くのも己の次第というのなら、行くか行かないか考えるよりも今を調べると捉えればよい。それは先を見て今を知ることになる。今を知ることで先は今となり、今は過去となる。矛盾めいた謎など見るよしもなくなる。
振り返る猜疑心よりも、振り向く好奇心に揺られた方が心踊るというもの。謎を解き明かそうと躍起になったところで、他人に明かされてはどうにもならぬ。ならば、謎を解きに他人任せに動いてもそれはそれでどうにもならぬが面白い。それは己が進むからである。紆余曲折しながら得るものは、他人よりも大きいこと。話を聞くなら話をする方が心地よいのてある。謎を得てして歩き回れば、最の最後に今が出る。それでも今がわからなくても、それ以上のものを得ることになる。それは、行かずしては手に入らない代物なのであり、今よりもわかるものである。
「よし ならば どこへ連れてく」
羽ばたく酉に腕を上げては指を差し、声を伝え後を追う。右へ左へ足を向け酉の姿に体を倒す。
確認するかのごとく歩に力を入れるも歩き歩けば景色が変わる。今の情など振り去るものとなり、いつの間にか鼻唄混じりに荒む心が晴れ晴れとする。
「お前は何を見せるのか」
さきの今まで、ここはどこだと謎めいたものは、興味の思惑に移り変わる。知ってか知らずか懐かしい匂いと景色に童心が沸き上がりもする。
初めて見る全ての毎に手を叩いては目を輝かす。けれど、二度三度と見て得ればそれは普遍的なものに成り下がり、良くも悪くも当たり前になってしまうのである。
ならば好奇なものをいつまでも得るにはどうするべきか
見様見方に見向きを比べ、風を呼んでは身を委ねる。それは二度三度と味わったものであっても、思う事なき旅の始まりであり、童心に見るお初になるのである。しかし年という枷が足にまとわりつけば、あれもこれもと行くことができない。されど、行く手を阻む障害をもお初と見れば、さも勇敢な語りものと化すことができる。そのためには培った知識を袋にしまうことである。
酉は前を飛び、山の麓まで来ては雲の隙間に消えていった。




