皮相浅薄
瞑想迷走 蛙よ走れ の続きの章になります。
前作からの続きモノとして読まれることもできますが、この章はこの章として読んで頂ければ幸いです。
手にとって読まれる方々へ、よろしければお付き合いくださいませ
日も緩み縁側にて空を眺める。曇の隙間を優雅に流れる酉を目にし、古紙を片手に紙の風船を折る。してそれを徐に空高く放り投げた。
風の流れに身を任せ、西へ東へ飛びいけば、それはそれはと面白いのであろう。あれをそれをと腹を抱え見て触り、出会い頭に花が咲く。気分上々舞い降る門出と心踊る時となる。しかしそんな時など見たこともない。離れようと立ちすくむ数は数知れず、一度や二度は荷物をまとめたことはある。けれど、誰ぞ誰ぞに振られたからとたいして理由にならぬものばかり、出ていく前に雷が落ちる。されどその雷を前に足をかけ、いざ行けども僅かばかりの一里もいかずに背に返る。
「しても あやつは鷲か鷹か」
酉に目を向け似て非なる類いに何が異なるモノなのかと目を凝らすも見て取れぬ。しばし顔をひしゃげて動きに見るも、ぼやけた眼では見分けることもできぬ。ならば声かと耳に手をかけ澄まして聞くも、一つも鳴く気配もない。
自己の知識で一見すれば知り得る類いに納得し、他人にこうだと自信に拍車をかけてはふんぞり返る。されど、いやいやあれはと横やりつつかれ射ぬかれたなら、頭を抱えて尻を見せつけることにもなる。
見ては学びて 伝えは教えに
見て取れぬモノにも学びはあり、それを伝えに問うことも出来る。されど教えを鵜呑みに贔屓をすれば、学びに足を取られることもある。
ならば何を教えに問えば良いものか。何を学びに捉えれば良いものか。
目を通して見るものが学びとなり、耳を傾けては教えとなる。されど、それなることを隠すという育ても存在する。言い得て妙なことなれど、それは実に存在する。
信欲するものに目を向けては信に辿り着かぬというもの。けれど信の先に目を向ければ信に辿り着くのかと聞かれるならば、それはそれとて見えなくされる。
何処から見れば辿り着くのか
信を一つと捉えることが信を隠すことにもなるのなら、仮定を得てして仮定を作ることもまた一つの信になる。
策に溺れて策に生きる
要は一つと決めつけてモノを見ることが、全てを隠すモノとなるわけであり、これはこれと決めつけることが見えなくさせるのである。
空高く飛ぶ酉は、紙の風船に近づく素振りをしては何喰わぬ顔で旋回し、尻を叩くように羽を揺らしている。風に浮かぶ酉の動きにいつの間にやら目が落ちていく。
「あら いやですよこんなところで 風邪ひきますよぉ」
娘は篭を手に縁側で横になる体を目にしては、声をかけるも起きぬ体に溜め息をもらし、布団を持っては掛けていく。外に流れる風の音に耳を澄まし、羽を休める酉に目を向けた。
「鳶さんね」
娘は酉に笑みを見せては置いた篭を手に部屋の奥へと入っていった。
酉は横になる体を見るように羽を開いて飛び立った。抜ける羽と紙の切れ端が風になびいて落ちてくる。
さわさわと当たる風に吐息がかすみ、夢の縁へと流れていき、私は見い得る信に幻を見て、深く寝息の巣に埋もれていった。




