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美化委員  作者: 斎藤真樹
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第二部 4 未熟な交際

 冬休みが終わり、3学期を迎えた教室は、久しぶりに顔を合わせたクラスメイトがにぎやかに語り合う。私と和子は、相変わらず2人でつるんで、ぼやっとしていた。私は路山くんのことを考えていた。

『ホントに好きな人のことは、ちゃんとカタをつけたほうがいいよ』

 和子の声が耳に残る。私は、どうしたいんだろう。でも、彼にとって私なんて、大した存在ではない。それなら、いっそ忘れて…。

『妥協』

 その言葉も耳に残る。迷いがいつもぐるぐると頭の中をめぐっていた。

 放課後、背後から、

「おー、行った行った」

 という声が聞こえた。その直後、増田くんが私の前に立った。学校では特にお互いなにかあるそぶりを見せずに過ごしていたから、驚いた。

「秋川さん、…一緒に帰ろうよ」

 私は背後の気配を感じ取った。さっきの「行った行った」は、例の、華やかな男の子たちの一団だ。教室にいる人の何割かは、今の私と増田くんの状況をうすうすわかったのではないだろうか…?

 私は、急に恥ずかしくなって、何も言えなくなってしまった。

 誰かが近付く気配…、それは当然、一緒に帰る予定の和子だった。

「どうするの、琴子?」

 まるで当てつけるかのように私の脇に立つ和子、私の正面に立つ増田くん。私は、一体いつからこんな状況に身を置くことになってしまったのだろう? 決断は、私がしなければならないのだろうか…。

「横井さん、たまには、俺にも秋川さんを貸してくれない?」

 増田くんの声が真剣なのが、さらに気まずさを加速する。クラスの何人が、今、私たちを見ているんだろう。いたたまれない…。

「琴子が、困ってるように見えたから」

 和子の、この声の棘はなんなんだろう。不安がよぎる。どうして、そんな風に厳しい声を出すんだろう。いろいろなことをかんぐってしまう。

 私は、ここで置き去りにして帰る相手に恥をかかせてしまうとわかっている。そして、和子のほうに恥をかかせることだけはどうしてもできそうにない。

「増田くん、ごめん、……和子と、今日は、寄り道の約束してたから…」

 うなだれたまま言うと、増田くんは、

「じゃあ、明日」

 とぶっきらぼうに言った。私が黙っていると、

「明日は、俺と帰ってよ」

 とくり返した。

「…あ、うん…」

「じゃあね、秋川さん。横井さんも」

 増田くんはそのままふいっと教室を出ていった。

「帰ろう、和子」

 私も急いで和子を促して教室を出た。

「よかったの? …遠慮したほうがよかった?」

 和子がすまなそうな声を出す。

「ううん、…明日は、…増田くんと帰るから…」


 当然、翌日は、増田くんと帰ることになった。

「ずっと、避けてたでしょ」

 並んで歩く帰り道、頭の上から声が降ってくる。

「そんなことはないけど…、クラスでとか、あんまりなにかあった風にするのも、悪いと思ってたし…」

 そう答えるのがせいいっぱいだ。

「生殺しにするくらいならハッキリ断ってくれていいんだよ。…気を遣われたりするのって、お互いのためにならないし…」

 そんなに次々と答えを迫らないでほしい。私の胸には路山光が生きている。だけど路山くんの中にいたのは私じゃない…。

「…悩んでるの…」

 それしか答えられない。路山くんが好きでも、今の私にとってなんになるだろう。増田くんの気持ちは嬉しいし、それに…有難い。こんな私を想ってくれるなんて…。

 そしてふと、思い出す。好きという言葉を言われていないことを。私は、その言葉がほしくなる。好きだと言われたら、過去の呪縛を抜け出せるような気がして。

「増田くんの気持ちが、…なんとなく、…現実感っていうか、…ホントなのかなっていうのがどうしてもあって…」

 ずるい、と自分で思う。好きだと言ってほしくて、そんな言い方をするなんて。

 案の定、増田くんは少し怒った。

「じゃあ俺が嘘ついてるとでも言うの? クラスで堂々と秋川さん誘って、しっかりふられたりしてるのに」

「え、ふったとか、そういうんじゃなくて…」

「ふったよ、横井さんを言い訳にして」

 しっかりバレている。

 やっぱり、住む世界が違うような気がしてくる。彼は華やかな世界の人。住むところを間違えてしまったら、居心地が悪くなるんじゃないか…。

 どうしたいのと、増田くんは私に答えを要求する。私は「好き」という言葉を待つ。平行線だ。結局、その日も漠然とした問答をしただけで、なんの進展も後退もないまま駅で増田くんと別れ、帰ってきた。


 増田くんが私にアプローチをかけているということは、クラスで早くも周知のことになったらしい。私は居心地が悪くて仕方ない。彼に恥をかかせるわけにはいかないという強迫観念が育ってくる。私みたいな女の子に、クラスの男子の華である増田くんが失恋するなんて…とんでもないことだ。

 さらに不幸なことに、バレンタインデーが近付いてきてしまった。2月14日という日付を素通りしたら、「NO」の意思表示にしか思われないだろう。

 私の答えは、たぶん、NOではない。ならばYESなのだろう。例えば、つき合ってみてから、合うとか合わないとか見極めてもいいのかもしれない。とにかく、バレンタインデーは一種の脅迫に違いなかった。断る勇気のない私は、増田くんにYESの返事をすることを余儀なくされていた。

 私がそんな風に追いつめられていることに気付いたのだろうか。

「無理しないでいいよ。バレンタインなんて、単なる2月14日だと思ってくれれば。なんか、秋川さんってきっと、気を遣っちゃうほうだろうなと思って…。気遣いとか、そういうので決められちゃうのは、俺としても釈然としないから」

 増田くんからそんな電話がきた。そして、優しい、と思った。その優しさに、甘えてしまいたいと思った…。

 なんだかストンと足場が抜けたみたいに気が楽になり、私は彼に誘いの言葉を返した。

「あの、…でも、バレンタインの日、放課後ってあいてる?」

「え、あ…いや、あいてるよ」

 一瞬「やばい」と言わんばかりにつっかえた増田くんの様子に、私ははっとした。

「…あ、…そっか、部活だよね」

 そう言って、気付いた。先日、一緒に学校から帰った日も、彼は部活だったはずだ。

「いいよ、バレンタインの日は、みんなサボりだよ」

 嬉しそうな声。私は幸福を感じた。バスケ部は厳しい部活だ。それを、無理にサボってくれる。好きだとは言ってくれないけれど、私は、それを信じてもいいような気がした。

「じゃあ、…バレンタインの日、会ってもらってもいい?」

「…喜んで」

 そんな会話をして電話を切り、私は深呼吸をした。

 新しい自分がはじまる。路山光を忘れたと言ったら嘘になるけれど、でも、もう忘れなければ。もう昔のことだし、想われていたわけじゃない。

 バレンタインデーは、いったい、なにをあげよう…。

 そう思った瞬間、路山くんのために一生懸命作ったクッキーのことを思い出し、また、胸が痛んだ。


 バレンタインデー、私と増田くんは正門で待ち合わせた。こんな日に、クラスから並んでお出かけしていく度胸なんかなかった。私は正門のそばで物陰に隠れるようにして彼を待った。無理にカバンの中に押し込んできた手作りトリュフの包みがおかしな形になっていないか、それを気にしていたら増田くんの姿が見えた。女の子が一人、彼を呼び止めた。そして問答をはじめた。

 私は凍りついた。真剣な表情の彼女は、カバンから、包装紙にくるまれた小さな箱を出した。増田くんの背中を見ているのが恐くなり、私はその方向に背中を向けた。

 そうだ、どうして考えなかったんだろう。目立って華やかな増田くん、優しくて頼りになる増田くん、…彼に想いを寄せる子が何人もいたっておかしくない。世界はもっと広い。私の知らないところに、私の知らない人が、私の知らないことを考えて過ごしている…。

 急に胸が痛み、私は驚いた。ゆっくりと心の痛みをぬぐうと、そこにも路山くんがいた。私の知らないところで、私の知らないことを考えて日々を過ごしている路山くん。もう、今、私と路山くんは、こんなにも離れてしまった。

「ゴメン、お待たせ」

 増田くんの声に慌てて振り返る。路山くんのことを考えている場合じゃない。私は今日、この人に、交際をOKするのだから。

 でも、今の女の子は?

 訊けるはずがなかった。増田くんも涼しい顔をしていた。私は少し不安になった。「なんでも話してほしい」なんて、子供っぽいことを思った。

「だいぶ待った?」

 さっきの女の子のことを見たかと訊かれたような気がして、私はあいまいに答えた。

「え、ぼうっとしてたから…どのくらい待ってたかな?」

「どこ行く? 秋川さんに任せるけど…」

「私、…あんまりわかんない…、ゴメン」

「じゃあ、城南庭園に行こうよ。多分今日は、どうせどこに行っても混んでるし。ああいう渋いところが穴場だよ」

 城南庭園は、城南高校から歩いて30分ほどのところにある日本庭園で、有料の公園になっている。松に芝生に池、砂利道に橋に木造の休憩所…という景色が延々と続く。桜のシーズンと紅葉のシーズンにはちょっとした景観が楽しめるが、2月半ばにはなにも見るところがない。

 いいのかなと…、私はこの期に及んで、とても迷っていた。トリュフを作りながら、路山くんのことを思い出していた。春日井さんのクッキー、深瀬くんのフォローとなぐさめ。中学時代、私はほんとうに幼稚で、視野が狭かった。でも、その私を囲んで、楽しく過ごしてくれた美化委員の仲間、そして「路山組」の人たちが懐かしかった。

 そして、電車で再会した深瀬くんと、中学校を見に行った短い時間…。

『もし今も、光ちゃんのこと好きなら…』何を知っていた方がいいと言うんだろう。私は今さら、その先を訊かずに逃げてしまったことを後悔した。

 私はこんなにもまだ路山くんの思い出の中にいる。そして増田くんにも、他に想ってくれる女の子がいる。そんな私たちが恋をはじめるなんて…。

 しばらく庭園の中を歩き、少し冷えたので広い休憩所に入った。靴を脱いで座敷に上がり、お茶と和菓子を味わえる喫茶店になっていた。真ん中には旧式の円筒形のストーブが燃えていた。テーブルに向かい合って座り、コートを脱いだ。

「やっぱり、2月は寒いね」

「うん、…さすがにね」

「大丈夫?」

「大丈夫、ありがとう」

 庭園を並んで歩いているうちに、私の、マイナスに傾いていた気持ちは再び前向きに変わっていた。増田くんのささやかな気遣いが、思いやりが、私の心に次々と染みてくる。路山くんも優しかったけれど、そういう漠然とした雰囲気だけの優しさではなく、増田くんのは明確に私に向けて発せられる優しさ。

 私の幸せは過去にはない。未来に生きよう。――そう思った瞬間、向かい合った私の手を増田くんが握った。私は驚き、息が止まった。

『冷たいなー! 秋川の手』

 雪の中、路山くんが私の手を握る。降りしきる雪、小さな傘、そして…。

 そして、この人は、路山くんではない…。思わず目を伏せていた。幸い、増田くんは、私が急に手を握られて戸惑ったのだと思ったようだった。

「秋川さん」

 真剣な声。今、ここで、結論を求められるのだろう。答えは決めてきた。でも、どうして最後の最後まで、路山くんのことを思い出してしまうのだろう…。

「…今日は、答え、訊いてもいいのかな」

 増田くんの声を聞きながら、恋じゃなくちゃいけないのだろうか、と思った。路山くんと過ごした不思議な安らぎ…、それは恋じゃなかったけれど、だからこそとても幸福だった。恋だとか、恋じゃないとか、そういうことじゃなくて。ただ、そばにいて嬉しいよねって。『秋川~』『秋川~』くり返される呼び声。いつも私を呼んでくれた声。…他に好きな人がいて、だけど…それでも、いつも私といてくれた。

 増田くんとは、ハッキリと向かい合っていかなければならないのだろう。

「あのね、…あの、カバンから、もの、出したいから…」

「あ、ゴメン」

 増田くんの手が離れる。戸惑いを胸の奥深くにしまい込んで、私は答えをカバンから取り出す。

「お菓子作りとか、あんまり得意じゃないの…。ゴメンね。…まずかったら、捨てて」

 恐る恐る包みを出す。幸い、包装は破損を免れたらしい。

「作ってくれたの?」

 嬉しそうな増田くんの声。私は、よりいっそう、恐縮する。

「うん…」

「ねえ秋川さん、顔上げてよ。今日、全然俺の顔見てない」

 私は慌てて顔を上げる。その時、また、思い出す。

『話すとき、顔見なよー。その方がいいよ』

 大丈夫なのだろうか、私は…。不安がよぎったが、それを顔に出すわけにはいかなかった。私は戸惑ったふりで一瞬目をそらし、その短い時間で気を取り直してもう一度顔を上げた。

「答え訊いてもいい?」

 言われて胸に痛みが走った。それも、私は戸惑いのふりをしてごまかした。

「…ホントに私でいいの?」

 恥ずかしくて顔を見ながらは言えなかった。路山くんもきっと、こういう話の時は、うつむいて話すことを許してくれるだろう。

「俺ははじめっから、秋川さんにしか言ってない」

「うん、…ゴメン」

 きっと私は彼を好きになれる、そう信じて、私は答えた。

「あの、…私でよければ、…よろしくお願いします…」

 自分でも可笑しいくらい、消え入りそうな声。増田くんの手が私の手を包む。

「ありがとう。…断られるかと思って、結構不安だった」

 私は、がんばって増田くんの顔を見上げた。爽やかで眩しい笑顔があった。

 私にはあまりにも勿体ない、華やかな笑顔だった。


 城南庭園の帰り際、駅までの道は手をつないで歩いた。私は、そんな風にすぐに手を握ったりするような感覚を持ち合わせていなかったので戸惑ったが、よく考えたらそういう仲でもないのに路山くんは私にベタベタと図々しく触っていたものだった。だから、こうして彼氏・彼女の関係になったのであれば、それは「自然に」と言ってもいいのだろうと思った。

 和子も、彼とつき合うことにしたと言ったらあっさりと「よかったね」と言ってくれた。それまでの反発があったから、あっさりすぎて不自然に感じた。

 私は、和子と増田くんたちの冷戦がずっと気になっていた。特に、増田くんが私の彼氏という存在になった以上、親友と彼氏が反目し合っている状態は避けたかった。だから正直に増田くんに和子のことを聞いてみた。そうしたら、意外なことがわかった。

「ホントはね…横井さんに、秋川さんのこと本気なのかって、からかってるんだったら許さないとかって、すっごい責められたんだよね」

 私はあっけにとられた。和子はそんなこと、おくびにも出さなかった。

「まじめに考えてるよって、一生懸命言ったんだけど納得してくれたのかどうかはわかんない。絶対秋川さんに言うなって言われたから今までずっと黙ってたんだけど…、いい友達だよなって思った。いいことだから、いいよね、言っても?」

 つまりは、そうして言い合ったりなんかしたのがなんとなく気まずくて、余計に和子と増田くんは冷戦状態になっていたのか。どうりでどこか、何か、和子が隠しているようなそこはかとない違和感が生じていたわけだ。

 私はこんなにも幸せなのだとしみじみ思った。そして…私というどうしようもない暗い女の子を、こんな風に普通の女の子に作りかえてくれた路山光に、心から感謝した。


 春休み、ちょっとした事件が起こった。多分、私がうかつだということなんだと思う。

 増田くんに、遊びにおいでと誘われた。自宅にホームシアターがあるらしく、映画のDVDをレンタルして、見ようという話だった。彼の家のある駅で待ち合わせ、駅前でレンタルビデオ店に入り、作品を選んだ。

 彼の家には誰もいなかった。私は家の人に挨拶するのかと戦々恐々としていたので、誰もいなかったことに安堵した。

 一本、映画を見終わった。

「すごいね、ホームシアター」

「うーん、でも、音響がまだまだだと思ってるんだよね。でも、俺と父さんで最新のスピーカーを買いたいって主張してるんだけど、母さんと姉貴が反対してて。ホームシアターだって無駄遣いなのに、だって」

「うーん、お母さんたちの主張もわかるけど、ここまでお金かけちゃったら、納得いくまでやったほうがいいんじゃないの?」

「あ、秋川さんは話がわかるね! 俺もそう思うよ。不満のあるホームシアターじゃ、勿体ないよね、かえって」

 そんな話をしながら増田くんは紅茶を入れ替えてくれた。そして、二本めの映画に入った。私と彼は、並んで、3連のソファに座っていた。

「…秋川さん」

 映画がはじまって間もなく、とても低い声がした。不思議なことに、全くなんの恋愛経験もない私でも、危険信号は察知した。ためらいがあったのか、手首を強くつかまれてから、間があった。私はその間で冷静になれたので慌てて立ち上がった。手首はつかまれたままだったから中腰のような格好になった。追って、増田くんが立ち上がって私を引き寄せた。そのまま抱きしめられた。

 私は、ドキドキとか、そんな余裕もなくただ真っ白だった。頭の中では危険信号が鳴っていて、それから「路山くん」と唱えていた。映画を見るために電気を消した部屋、そこに映画の光だけが明滅している。強く抱きしめる彼の腕に、私はなすすべもなかった。

「お願い、なにもしないから」

 増田くんの声がとても切ない。でも、「なにもしない」というセリフの向こうにある「なにか」がとても恐いと思った。身動きができない。ただひたすら、どうしたらいいかわからない。それから、平衡感覚が失われるようなふらふらっという感覚。いや、それは、増田くんが私に力をかけて、足がふらついたせいだった。

 抱きしめられたまま、ソファに倒れ込んだ。「どうしよう」という五文字がひたすらくり返されて、その合間に「路山くん」という自分の声が混じる。

「絶対、なにもしないから。ホントに…」

 これはもう「なにかした」という状態じゃないのかと思いながら、私はソファに押し倒されたまま抱きしめられていた。強く抱きしめる動作がくり返されて、そのたびに背中で動く彼の腕が恐かった。切なく響く息づかいも恐かった。

 ゆっくり、ゆっくり、時間が経過していく。映画が勝手に進んでいく。そして、しばらくやんでいた増田くんの声が、再び暗い部屋に響いた。

「…でも、少しだけなら、…ダメ…?」

 私は必死で返事をした。

「…無理…」

 それは自分の声とは思えないほどか細い声で、まるで、非力さを訴えているようだった。そして、意思表示をしたら、やっとまっとうに脳が活動をはじめたのか、体が震えはじめた。怖い、怖い、怖い…と頭の中がくり返していた。

 大きなため息を無理やり吐きだして、増田くんが私の上からどいた。私は、慌てて起き上がり、座った。どういうリアクションをしたらいいかわからなかった。ただ凍ったように座っているのがせいいっぱいで、緊張で体中が硬直していた。

 増田くんは乱暴に映画を止め、カーテンを開け放した。部屋が明るくなり、私はホッと安心した。

「ゴメン」

 深い呼吸をしながら、顔を隠すようにして彼は言った。私はやっぱり、どういうリアクションをしていいかわからなかった。

「ゴメン、好きなんだよ…」

 漏れた言葉に、私はドキッとした。はじめて好きという言葉を使ってくれた。好きだから先走ってしまったというなら、許してあげられる気がした。

「ゴメン、今日は、帰る…」

「やっぱり怒った?」

「…ううん、…でも、今日は…帰る」

「駅まで送るよ」

「…うん」

 駅までの道のりも気まずかったけれど、明るい、人通りのある道で一緒にいることで、私の中からはだいぶ増田くんに対する違和感、恐怖感のようなものが消えていった。そして、思った。多分…、私が遅れているのだろうと。新聞でも、インターネットでも、高校生の何割かはいわゆるそういう行為を済ませているという統計が出ている。私は間違いなく最後の最後まで経験しないまま残るほうに属する人種だと思う。でも、…多分増田くんは、最初に経験する3割に属する人種なんじゃないだろうか。

 文化が違う。でも、その文化の壁を越えてつき合おうと言ってきたのは増田くんだ。私は彼に合わせることはできない。速いほうが遅いほうに合わせてくれなければ、一緒には歩けない。…でも、暴走は、あり得るのかもしれない。多分…、ああいう状況でふたりっきりになった私が甘かった。

 でも、その日はなによりも、「好き」と言われたことが嬉しかった。だから、思いがけず身の危険にさらされたとか、そんなところはだいぶ大目に見ることにした。

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