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美化委員  作者: 斎藤真樹
5/16

第一部 5 最後の場面

冬休み、そしてそれが明けて三学期。受験が近付くにつれ、3年生たちは落ち着きを失いはじめる。それはもちろん受験、だけど、それ以上に…卒業前の恋の清算。

けれど、それは私には関係のないことだった。路山くんは私の気持ちをきっと知っている。さらに言えば、それを悪い気もしていないのだろう。でも…彼自身は、私を同じようには思っていない。

 私はそれでかまわない。何も要らない。だって、今の私はすべて、彼の手によってこの世に生まれ落ちたものだから。殻にこもって、耳を塞いで、目を閉じていた私。自分の中に暗くて狭いループを作り、一人で回っていた私。その殻をひたすらつつき、声をかけ、殻を割ってくれた。今ここにいる私そのものが、彼と出会えたという事実そのものだ。

「キンコ、光ちゃんはどうするの?」

 文が訊いた。私は、

「ううん、いいよ」

 と答えた。


 ある日、文を迎えに行った教室で、席に座っている路山くんに背後からべったりと抱きついている佐藤さんを見た。胸が痛むより先に、仰天した。路山くんのキャラクターがあればこそ「あるいはアリかも」という気にもなるが、普通に考えればとんでもないラブシーンだ。佐藤さんは大声で路山くんに、

「今、光ちゃんにマフラー編んでるからねー」

 と言っていた。でも、

「あっそー」

 とお気楽に答える路山くんに安堵した。佐藤さんの思惑はわからないが、路山くんには恋愛感情はないのだろう。それを横目で見て呆れた顔で文が出てきた。

「佐藤さんって、しょっちゅう、クラスであんなんだから。でも光ちゃんは全然その気じゃなさそうだから、気にすんなよ」

 文はそう言った。言われるまでもなく、私はそう思っていた。3年間部活で一緒の文よりも、今は私の方が路山くんに近いところにいた。彼のことは何もわからないが、私は彼の中の何かを感じ取ることができた。それは、私に恋をしていないという実感まで含めてのことだけれど…

 卒業前の不穏な動き。耳を澄ませば、何組の誰が誰に告白したとか、ふられたとか、つきあい始めたらしいとか、いろんな噂が聞こえてくる。私はできるだけ耳を塞いでいた。いつか、どこかから、「路山光が誰かとつき合うことになった」と聞こえてきてしまうような気がして。


 1月の缶当番、私が行くと、2年生の2人が先に来てしゃべっていた。2人は私を見ると、妙に近付いてきて囁いた。

「秋川先輩って、路山先輩とつきあってるんですよね?」

 私は驚き、そして、喜んだ。正直、路山くんと共感している波長のようなものを感じつつ、それが自分の思い込みであることを危惧していた。いつも一緒にいることを不思議だと思っていたけれど、それが単なる私の錯覚かもしれないという気は時々していた。でも、こんな質問をされることで、はたから見ても私と路山くんが不自然なほどいつも一緒にいるのだと、やっと確信することができた。

「全然? そんな風に見える?」

 私は答えた。でも、この言い方は誘導尋問だった。言われたかった。そんな風に見えるって、はっきりと誰かの口から。

「見えます」

「えー、だって、いつも一緒じゃないですか、帰りとかも。くっついたりしてるし…」

 2年生は私の期待どおりの返事をくれた。私は心底、楽しかった。

「路山くんは、あーいう人だから」

 私は笑顔になる。余裕だ。本当に、変わったと思う。以前だったら好きな人と噂になるなんて、転校を考えなければいけないような大騒動だと思っていたのに…。

「やっぱ違ったんじゃん」

「えー、だって、絶対そうだと思うじゃん」

「なんでそんなこと訊こうと思ったの?」

「いや、絶対謎だから、卒業前にはきいておかなきゃと思って…」

 謎…か、と私は思った。私にとっても彼は謎だ。いろんなことを感じ取れるような気がするのに、彼の心は少しもわからない。

「秋川~、靴が可哀想だよ~」

 背後から路山くんの声がする。「可哀想」というのは、私が集合に遅れないように大急ぎで靴のかかとを踏んで出てきて、そのままだったからだ。…みんな集合時刻にしっかり遅れていたけれど。

 たった今まで「つき合ってるんですか?」なんて訊かれていた当のお相手と、何のてらいもなくすぐに談笑する。私は、なんて変わったんだろう。男の子と顔を上げて話ができるだけで、まるで奇跡のような変化なのに…。

 1月の路山ファミリーは5人。深瀬くん、村垣くん、青木さん、春日井さん、佐藤さん。寒さが増したのに増えたのは、やはり、彼らがつるんでいるどこかに恋愛的な引力が働いているせいかもしれない。もうすぐ缶当番も終わりを告げる。だから、こういう場もできるだけ活用して、恋を進めたいのかもしれない。だから、今日にだってこの中の誰かと路山くんが恋を始めてしまうのかもしれない。

けれどそれは仕方がない。相手は私ではないのだと、はっきり感じるから。

「秋川~、袋~」

 ほら、路山くんが私を呼んでいる。私がいるとき、路山くんの最優先は私になる。それだけでいい。…あと2か月、一緒にいられればそれで。


 ある日の放課後、ガランとした校内を歩いていると、文の教室の中に路山くんの背中が見えた。私はさりげなく戻ってもう一度同じルートを通り、同じ場面をもっとしっかりと見た。背中は、路山くんと、もう一人知らない男子。そして、向かい合わせに青木さんと春日井さん。「あっ」と思った。今のは多分、特別な場面。見てはいけなかった場面。

 教室の中には4人しかいなかった。そして、笑い声も何も聞こえなかった。独特の緊迫感…それは、一体、誰が理由だろう?

 青木さんが見知らぬ男子を…あるいは、知らない彼が青木さんか春日井さんを…そんな風に一生懸命考えた。でも、心のどこかで「多分違う」と思った。多分、少なくとも路山くんはどちらかの当事者。告白される側か、する側か…

 私は考えないように努めた。彼の相手になれるのが私じゃないことはとっくに知っていた。だから、このことについても自分でも驚くくらいに、そこそこ平気でいられた。ずっと気にかかったままではあったけれど…。

 たくさん飛び交う卒業前のうわさにも耳を塞いで、私は日々を極力平穏に過ごした。2月、文を迎えに行く先で時々路山くんにチョッカイをかけたり、かけられたり…それだけが私の幸福だった。

そして、美化委員の先生から「3週班の3年生は、2月の第3水曜日が都立高校の受験日だから、缶当番はなしです」という連絡をもらった。さらに、どこの部活も3年生は来なくなった。私も華道部に行かなくなったし、文も路山くんも剣道部に行かなくなった。2月は受験一色になった。缶当番も、剣道部もなくなってしまった。バレンタインデーだって、とてもじゃないが何もできない。路山くんが私の気持ちに気付いているとしても、その証拠があってはいけなかった。証拠があったら、彼は、私の恋にしらばっくれていられない。

「キンコ、バレンタインもいいの?」

「うん、いいの」

 文と帰る道もあとひと月。しみじみしていた、その時だった。

「…噂は、聞いた?」

 文の、秘密を囁くような声。私はただなんとなく、

「何の?」

 と聞き返した。

「言わないのがいいのか、言った方がいいのか、すごい悩んだんだけど…」

 文はもったいぶっていた。路山くんの背中が浮かんだ。あの日の、4人の姿。

「…路山くんのこと?」

 私は平静を装って言った。本当は平静じゃなかったけれど、でもただ一つ、知っても私には何の関係もないということは確かで、だから聞いてもいいだろうと思った。

「…うん、知ってるの?」

「ううん、多分知らない」

「聞く?」

「言えば?」

 私は静かに屠殺されるのを待った。

「光ちゃん、春日井に告白したらしいよ」

 鋭くて重い刃物が、ドン、と頭に落ちてきた気がした。

「青木さんじゃないんだ」

「…春日井だって。…なんで、男ってみんなひっかかるんだろうね、ああいうのに」

 私はまるでなんでもないような顔をしていたと思う。そしてその時、黙ってクッキーのシーンを思い出していた。

『これより春日井の方がおいしいかも?』

 そうか、それでわかった…と思った。深瀬くんは「バランスをとろうとした」と言った。でも、それは違ったんだ…と私は思った。

(そっか、春日井さんのことが好きだったんなら、春日井さんのクッキーの方がおいしいし…春日井さんのためにもそう言ってあげるよね…)

 なんてバカだったんだろう。クッキーを持っていくなんて。それも、春日井さんに対抗するみたいにして。もうとっくに、勝負なんてついていたのに。もちろん私は勝ち負けのつもりなんかなかったけど…、でも、彼にとって、私のクッキーは本当に何の意味もないものだったのだ。

「文、それで、春日井さんはどう答えたんだって?」

 別の、いろんなことを考えながら私は訊いた。文は答えた。

「村垣と別れる気はないって」

 だったら…と、私は思った。だったら、春日井さんはどうして美化委員会に入り浸っていたのだろう。まるで、路山くんを追いかけるみたいにして。

「…そういうの、誰がどこから情報入手するの?」

 私は、全然別のことを考えながら、淡々と文と会話を進める。平静に見えるのは、本当は会話に対してはうわのそらだから。私の心は私の中でいろんなことを検証している。

「春日井ニュースは、本人発だよ、どうせ」

「なんで?」

「今まで何人に告白されたとか、さりげなく言いふらすからな。多分、学年中の女子がみんな春日井のそういうの知ってるよ。あんた以外はね」

「何人に…かあ。ホントにもてるんだね」

「おまえも、光ちゃん見ててわからなかった? どうせ、春日井が光ちゃんに思わせぶりにして、ひっかけたんだろ?」

「…私には、あんまりわかんなかった」

 だって、路山くんは私とばかり一緒にいたから。…あるいは、春日井さんにそういう残酷な思わせぶりをされたくなくて、私を使って逃れていたのかもしれないけれど…。

「美化委員にマメマメ行ってるだけで、十分おかしいよ」

 文は言い放つ。でも、「十分おかしい」人がたくさんいたから。

 いろんなことを考えながら、私は文としゃべり続けた。私にとっての路山くんという存在が、幾分か「天使」ではなくなったような気がした。


 文をクラスに迎えに行くことだけは変わらず、そしてそこには路山くんがいた。でも、春日井さんのことを聞いてから、私には路山くんが単なる「男の子」としか感じられなくなってしまい、どこか崇拝するような気持ちだけは冷静になった。そして、「私は失恋したんだ」と思って(実感は全然なかったが)、やっぱり路山くんと今後は少し距離をおこうとも思っていた。

 手すりに両手をかけて外を見ながら、背後から文の「キンコ」という呼び声がするのを待つ。…でも、心のどこかで、路山くんの「秋川~」という声を待っている。

 多分、彼は私の恋愛感情が気持ちよくてかまってくれただけ。私は、あまりの免疫のなさから、彼が気軽に触れてくれることに酔ってしまっただけ。彼には他に好きな人がいるし、私は…多分、卒業すれば今までどおり、あっさり彼のことを忘れるだろう。

 だから、なんとなく卒業だけできればいい。彼によって生まれ変わった私はここにいる。私が殻を捨てて今の私になるために、人生最初にして最大の触媒として、路山光は存在したのだろう。その感謝はきっと生涯消えないし、それを恋とか愛とか言うんだったら、彼は私にとって生涯大切な人だろう。

 冬の空の頼りない青さを見上げながら、流れていく時間をただ感じる。センチメンタルにもなれない。彼と私の恋愛は、どうしてこんなに無関係なのだろう。

 そんな考え事をする私の視界に、突然手が現れる。片方は私の右に、片方は私の左に。私を挟んで、その手はギュッと手すりを握りしめた。

「何か面白いものでも見える?」

 髪に息がかかるほど近い距離から、路山くんの声。わかっているのに、嬉しい。そばにいられることが。

「ううん、全然」

 彼に囲まれたまま私は答える。振り返れない、あまりに近すぎて。そして…春日井さんに想いを伝える背中を見てしまったはずなのに、はち切れそうなほど胸が高鳴る。このまま抱きしめられてしまいそうでクラクラする。

「光ちゃん、キンコを捕獲するなよ」

 文の声。邪魔をしないで、今、彼の腕の中にいられるのが嬉しいから…

「行田、邪魔するなよ~」

 路山くんの声にドッキリする。思っていたのと同じ単語を使われるのがこんなに嬉しい。

「つかまえて、どうするんだよー」

 文は冗談っぽく言っているが、多分本音だろう。私にいつもこんな風になれなれしく触れて、一体どうするつもりなのだと…。でも、私はもうそんなことはどうでもいいと思う。いられる限り側にいたい。残りのひと月を、せめて。

「俺はちゃんと用事があって声かけてるのー」

「あっそー、早くしてね、私帰るんだから」

 私は少しだけ振り返って文を見ようとしたが、路山くんの肩に隠れて何も見えなかった。こんな状況は、どうしても心地よくて…身動きができない。

「秋川さー」

 路山くんは文から向き直って、私の頭の位置から話しかけてきた。

「何?」

「缶当番、行かない?」

 近くて、路山くんの方に顔を向けられない。私は、ガラスに映ったような、映らないような路山くんの影に向かって聞き返した。

「え? …2月の?」

 その日は受験だ。学校には来ない。

「そー」

 でも確かに、受験の後にまっすぐ来れば、缶当番の時間に間に合うだろう。

「…路山くん、来る気なの?」

「一応」

「マジメだね」

「行かない?」

 本当に不思議だと思った。路山くんの声には何のくぐもりもなく、絶望的に純粋だ。例えばもっと、女の子に「一緒にいよう」と言う時の微妙な気配ぐらい、漂わせてくれればいいのに。

「…じゃあ、行く」

 他に返事の仕様なんかない。彼の言葉は、絶対的なもの。

「オッケー」

 私を囲む檻が外れる。残念だけど、まあ、一応「解放」。

「じゃあね」

 私が文に向かって歩き出しながら彼へと手を振ると、路山くんはやっぱり、

「またね」

 と言った。もちろん、私も、

「またね」

 と言い返した。

 そして文の所にたどり着き、「お待たせ」と満面の笑顔で言う。文は渋い顔をしている。

「どういうつもりなんだろうね」

 私は困った笑いを浮かべて、

「さあね」

 と答える。…さあね。失恋したはずの私も淡々と暮らし、失恋したはずの彼も私に普段の顔を見せる。そして、受験の帰りに学校へ来て、缶当番をやろうと言う。酔狂なことだと思う。だけど、それで1回、一緒にいられる機会が増える。

「キンコも、変わったよね。光ちゃんのせいで」

「…うん、アレルギーは治った」

「そういう意味では、光ちゃんは、あんたにとって有意義な存在だったよね」

 文の言葉がすでに過去形だったので、私は急に淋しくなった。


 2月の第3水曜日、受験は滞りなく終わった。私は内申点が高かったため「試験で多少失敗しても、落ちることはないと思うよ」と先生に言われていた。実際に試験問題も簡単だった。私は筆記用具を乱暴にまとめて、ダッシュで試験会場を出た。

(そういえば路山くん、いつもの友達にも今日お誘いをかけたのかな?)

 でも、入試の日の缶当番に、友達を呼ぶなんてことをするだろうか。

 受験した都立高校は、中学校からだいぶ遠い。電車を乗り継いでいつもの街に帰り着き、私は急いで中学校へ向かった。正門を入ろうとすると、ちょうど美化委員3週目班の登場だった。その中に、しっかり路山光はいた。

 そして、その輪の中には青木さんも春日井さんも、村垣くんも…そして、深瀬くんも、いなかった。

「路山くーん」

 私は声をかけ、小走りに近付いていった。路山くんはおもむろに自分の軍手を外し、

「はい」

 と渡してくれる。そして、空いた手に、小脇に抱えていた新しい軍手をはめる。路山くんの軍手は温かい。

「あったかい…。ありがとう」

「どーいたしまして」

 私は受験の帰りなので、学生カバンをぶら下げている。どうしようかと思っていると、ビニールが手渡される。

「おまえが袋係、俺拾う係」

「うん」

 カバンと一緒に袋を持つ。もう片方の、空いた手は路山くんのところへ伸ばして、缶を受け取る。

「…今日は、深瀬くんとか来なかったんだ」

 …そして春日井さんも。心でそうつけ加えて、私は答えを待つ。

「ん、悪いからね」

 さりげなく当然のように言うけれど、今まで「悪い」というようなそぶりを見せたことなんかなかったのに。

(…今日は、私だけのため?)

 図々しいのかもしれないけれど、そう思った。

 すべてにおいてよくわからない。私のことをどんな風に思ってくれているんだろう。好きな人がいて…告白して…失恋して…だけど、私を呼ぶのはなぜだろう。

 聞いてみたくて、でも聞いてしまったら終わってしまうだろうから…ただ一緒に作業をする。缶を拾って、前後に並んで、あるいは横に並んで、一緒に歩く。不思議な、2人だけの時間。思い返せば、まだ路山くんを知らなかった5月から、この時間は今日までずっと続いてきた。

「かわろー、秋川」

 路山くんが声をかける。私は戸惑う。カバンをどうしよう。

「それごと俺が持つよー」

 路山くんの手が伸びる。私はカバンと缶の袋を渡す。交替して、作業。私のカバンを路山くんが持っている、それだけで嬉しい。

(初恋、かなあ?)

 私はそんなことを思った。今まで好きになった男の子は、ほとんど話をしたことがない人ばかりだ。今回はちゃんと相手の人となりがわかって恋をした。実に真っ当な片想いだ。

(…でも、多分また、卒業すればあっさり忘れちゃうから…)

 こんな幸福さえもみんな忘れてしまう。今まで「好き」になった男の子はみんなそうだった。今までに何度も「今度こそ本物の片想いだ」と思って、それが何度もあっさりと冷めて空しくなった経験がある。だから自分自身の感情には期待しない。

 缶の作業を終え、解散して、帰途につく。また路山くんと二人になる。他愛のない話をして歩く。いつもの帰り道…だけど多分、3月の缶当番はもうないだろう。これが最後の帰り道。容赦なく前へと進んでいく足、そして時間。そばにいられる時間が消えていく。

「秋川、今日、どこ受けてきたの?」

「え?」

 すっかり、今日が受験だったことなんて忘れていた。

「今日、受験」

「あ、…ああ、そうだっけ」

「どこ受けたの?」

 私は勝手に気まずくなった。都立の名門校を、余裕の太鼓判を押されて受けてきたのだ。塾で、私はAクラス、彼はCクラス…自慢するような真似は避けたい。

「うん…」

 余計なことを悩む私に、路山くんはあっさりと言った。

「城南? あそこがこのへんで、一番いい学校でしょ?」

 当たりだった。私は歯切れ悪く肯定した。

 でも私の方から彼に受験した高校を訊くことはできなかった。必ず私よりもいわゆるランクの低い高校を受けているに決まっているから。実際にはそんなの、気にすることじゃなかったのに…。

「ふーん」と言っただけで、路山くんはその後しばらく黙っていた。私はその時、前方に駄菓子屋が見えてきたので、受験の話を早く終えたくて話を逸らした。

「ちょっと待ってて!」

 私は駄菓子屋に飛び込み、麩菓子を買った。十本入りを一袋。そしてそれを路山くんに差し出した。

「…これ、いろんなことのお礼。好きだったよね、麩菓子」

「あ、うん。アリガト」

 彼はためらいなく受け取った。一体何のお礼だろうねと、私は自分に苦笑する。マトモに相手をしてくれてありがとう、しゃべってくれてありがとう、いつも二人でいてくれてありがとう。どれもおかしな話。単に美化委員会で同じクジを引いて、一緒の班になっただけなのに。

「はい」

 路山くんがごく自然に差し出した1本の麩菓子を、私も自然に受け取る。受け取ってから「しまった、嫌いだった」と思ったが、「返す」というのもしづらい。我慢して食べてみた。子どもの頃に食べた時ほどにはまずくなかった。

「せんせー、秋川さんが買い食いしてます」

 路山くんがおどける。私はあわてて言い返す。

「自分だってずっと前、やってたじゃない!」

「えー、でも今は俺、買ってないもん。だから買い食いじゃないよ」

「だったら、私ももらって食べてるんだからもらい食いだもん」

「言い訳してる」

「路山くんだってへ理屈だよ」

 楽しい時間が過ぎていく。側にいられるわずかな時間。私は、彼に告白することはないだろう。そんなことは無意味、結果は知っている。むやみに気持ちを伝えて気まずくなるよりも、卒業後にばったり会ったときにも今のこんな関係でいたい。

「ね、割とおいしいでしょ?」

 路山くんのお茶目な瞳が私をのぞき込む。覚えていたのだ、私が麩菓子を好きではないことを。

「…うん、ソコソコおいしい」

「そーでしょ、そーでしょ」

 何でもないやりとりを交わしながら歩き、とても簡単に分かれ道にたどり着く。残念…だけどどうしようもない。

「3月の当番は、やっぱ、ないのかな?」

 私が言うと、路山くんは、

「…多分、学期末の大掃除とかぶるんじゃないかなあ」

 と言った。そういえば、そうかもしれない。ならば缶当番の班単位で別行動をすることはないだろう。

「じゃあ、今日が最後だ。…多分」

 切なさを隠して私。あどけない表情で彼が続く。

「そーだね」

 まだ顔を合わせる機会はあるだろうけれど…でも、これで「委員会の同じ班」という縁は切れる。学校公認で私たちを“2人組”にしてくれていた「運命の糸」が切れる。

 淋しさに口を開けない私、ただ立っているだけの路山くん。あんまり黙っていたらおかしいのに、動けない。

「…まあ、また行田でも迎えにおいでよ」

 彼の笑顔が胸を刺す。その笑顔は、私に対して執着がない表情。淋しい。

「…うん、そうだね。…またね」

 私は笑顔を作り、路山くんに手を振った。彼も振り返し、

「またねー」

 と言った。そして、麩菓子の残りを抱えたまま、いつもの路地の奥へと消えていった。


 多分、これが私にとって中学時代最後の「思い出の場面」なのだろう。その後、路山くんとは廊下で会って「帰るの?」程度の会話をしただけで、特に記憶に残るようなことはなかった。

 だって最後の最後の卒業式、担任の先生と握手をした途端みっともなく大泣きした私は、とても路山くんと最後の挨拶をできる顔ではなくなってしまった。文と合流して、その先に路山くんと深瀬くんがいるのを見つけたが、顔を隠してダッシュで彼らの前を素通りした。一瞬「あ」という声が聞こえたが、それが路山くんの声か、深瀬くんの声かもわからなかった。

「キンコ、最後までそれでいいのか?」

 文は、南のルートを私と一緒に帰りながら、心配そうに言った。

「…でも、同じ町内に住んでて、同じ駅を使ってたら、きっとバッタリ出会うと思う。だから、いい」

 今日、この瞬間を最後にサヨウナラとか、そんな風にする自信がなかった。恋でもないのにむやみに仲が良かっただけのあやふやな関係なら、そのままあやふやでいたかった。私は多分、「終わり」が怖かったのだと思う。私と路山くんの物語――そんなものがあるとすればだけれど――は、どこまでもあやふやで微妙な関係のまま、漠然と終わらずにいるのがいいのだと思っていた。多分、それも幼い勘違いにすぎなかったのだろうけれど。

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