第一部 4 雪の相合傘
12月、缶当番の日はとても寒く、さすがの路山ファミリーもギブアップ気味だった。路山くんは深瀬くんと2人だけでやってきた。私は笑った。
「みんな、やっぱ寒いのは嫌みたいだね~。暑いときは来たのにね~」
「でも、7月と8月はなかったからなあ」
「ああ、そうだね」
「来月はもっと寒いかな、やだな~」
そんな私と路山くんのそばにただ立っている深瀬くんに、私は訊いた。
「大丈夫? 寒いよ?」
「でも、俺この前、今日行くって言ったから」
深瀬くんは答えた。
「えー! そんなの、『寒いからやめた』でいいのに。寒かったら、帰れば?」
「ま、もう来ちゃったから。今日は他に誰も来てないから、いつもよりかかるよきっと。俺を追い返さない方が、多分いいと思うよ」
「追い返すなんて…。歓迎だけど、ただ、やっぱ悪いから」
そんな話をしていると、1年生がいつもの軍手を調達してやってきた。早速、7人で缶拾いに出掛けた。
もう、私と路山くんは、当たり前のように2人で一緒に歩いていた。今日はどうするのだろうとか、近くに行きたいなとか、そんな迷いは何も必要がなかった。私が彼の背中を見ていると、彼は振り返って私を見る。その視線に引かれてそばに行くと、自然に作業が始まる。きっとこれは来月も、再来月もそうだろうと思った。そして胸が痛んだ。…さらに、その次の月は3月。3月の缶当番は、あるのだろうか…
確かに12月の空気はとても寒かったけれど、軍手のおかげでだいぶ救われた。それに、歩いていると少しずつ体が温まった。
しばらく路山くんと作業をしていると、後ろから、
「秋川さーん」
と呼ばれた。振り返ると、深瀬くんが、
「寒いと思って襟を止めてたら、やっぱり苦しいんだけど…、また外してもらっていい?」
と言った。
「なんか、なつかしーい」
私は笑顔になった。そして、春に同じことを言われたときとあまりに違う自分のことも可笑しくなった。「ちょっと待ってね」と缶のビニールを地面に置き、軍手を外し、深瀬くんの胸元まで割合簡単に歩いていける。でも、路山くんに接近されるのは慣れたような気がするけれど、深瀬くんが相手だと、まだ近くに立つのは緊張する。
「…あ」
そばに立ってみて驚いた。もう一歩近づかないと、首のホックが遠い。
「え、何?」
深瀬くんが訝る。
「深瀬くん、背が伸びちゃったから、もうちょっと近付くね」
やっぱり少し照れる。ものすごく遠くから必死で腕を伸ばして外すわけにもいかないし…。結構、緊張する距離に立つ。一瞬深瀬くんと目が合い、何だか恥ずかしくなってホックに目を落とす。
そうしていると、路山くんが引き返してきて、
「俺も背、同じぐらい伸びてるよ~。確かめて~」
と言う。私はちらっと冷たい視線を投げて、
「路山くんは、昔ホック外してあげてないからわかんない」
と突き放す。路山くんにもこんな風にしてみたいけれど、彼はいつも襟を開けている。ほどなくホックが外れ、やや前屈みになってくれていた深瀬くんの背中がまっすぐになる。
路山くんは身長のことが気になっているらしく、深瀬くんに訊く。
「深瀬くん、身長いくつ~?」
「俺? 170…とちょっとかな。171はないと思う」
「…そっか…うーん」
路山くんは深瀬くんの頭から足までを何往復も見る。私はズバリ、訊く。
「路山くんは?」
「…169・9センチだったんだよね、春の時点で」
「ああ、じゃあ、光ちゃんも今はもうちょっとあるんじゃない? 俺、春は168センチしかなかったし…今も光ちゃんの方が高いでしょ」
私は感心する。2年と3年の身体測定で、私の身長は3ミリしか伸びていなかった。男の子はまだまだ変わっていく。きっと、もっとステキな人になっていく…
軍手をはめ直そうと手に取ったら、深瀬くんが、
「秋川さん、手、冷えてるんじゃない?」
と言った。
「あっ、ゴメン、指触った? 冷たかった?」
「いや、触らなかったけど、全然体温感じなかったから…、冷えてるんじゃないかなと思って」
心配そうに見てくれる。細やかな気遣い。本当にいい人だ。
「でも、軍手してるから、そんなに冷えるとか実感ないよ。大丈夫」
私が深瀬くんに笑い返すと、路山くんが横から、
「深瀬くん、軍手あったまってたら、貸してあげれば?」
と言う。深瀬くんは一瞬、「えっ」という顔をして、それから苦笑を浮かべて、
「えー、俺のじゃ嫌でしょー」
と答えた。
「だったら、俺のならいい?」
路山くんはそう言って、自分の軍手を外して渡してくれた。その時私は、もしかして2人とも私の気持ちを知っているのではないかと思った。実は、深瀬くんの軍手でもちょっと嬉しいかもしれない。でも、やっぱり私は…。
「うわー、あったかーい!」
路山くんの軍手の中はとても温まっていた。私ははしゃぐように叫んで軍手を握りしめ、頬に当てた。路山くんのぬくもりが、本当の温度以上に私を温めてくれた。
「秋川、それ、ゴミの軍手」
「キャー、そうだった!!」
そして、3人分の笑い声が響く。それまで冬は嫌いだったけれど、この日から私はこの季節が好きになった。路山くんは私の軍手を着け、私たちが遊んでいる間に先に進んでしまった1、2年生を追いかける。そしてまた、いつもの作業。
作業を終えて学校に戻り、缶に水をかける。はねる水が氷のように冷たい。水をかけた缶を分別していると、軍手が濡れて冷えてくる。
「寒~い!」
「冷た~い!」
「最悪だ~!」
悲鳴を上げながら作業をしていたら、美化委員の担当の先生がやって来た。
「可哀想に。やっぱり冬はつらいわね」
「先生、寒いよ! かわって?」
「え、いやよ、先生歳だもん」
「先生スッゴイ若い! だから平気!」
路山くんが調子のいいことを言う。三十代中盤、微妙な年齢の女教師は苦笑する。
「今日は、頑張ったら帰りに桔梗庵でうどんおごってあげるよ」
桔梗庵は、正門を出て少し先にあるうどん屋だ。
「えー、マジで」
「高いの頼んでいい?」
「700円以内にして! 先生、自腹だから」
桔梗庵のうどんは、とても豪華な特別メニュー以外はたいがいが700円以内だ。何を選ぼうかと先走って考えながら、みんな未来のうどんの熱で体が温まった。最後に、悲劇的に冷たい水道で手を洗った。
「うどーん」
「うどーん」
中学生7人は、先生に連れられて桔梗庵へ向かった。店に入り、みんなが適当に席に着いた。私はとてもじゃないけれど路山くんの正面でうどんをすすることができそうになかったので、わざとのろのろして路山くんの隣に座った。私の正面が空いていて、ここに深瀬くんが来るのは困るなあ…と思ったら、先生が入ってきて、扉を閉めた。
「アレッ、深瀬くんは?」
路山くんが訊いた。先生は、
「委員じゃないからって、帰っちゃったわ。今日働いてくれた人みんなにおごるからいいんだって言ったのに」
と答え、私の正面に座った。
「むしろ、委員でもないのにいつも手伝ってくれてるから、お礼したいぐらいなのにねー」
私は路山くんに言った。
「そうだよねー」
路山くんも同意した。先生もわかっているようだった。
「確か、深瀬くんはずっと来てくれてるんだよね?」
「そうなんですよー」
私と路山くんは同時に言った。
そこで店の人がおしぼりを持ってきたので、会話は一時中断された。店の人が去ってから、私はしみじみと言った。
「深瀬くんって、いい人だよね」
路山くんは満面の笑みを浮かべ、嬉しそうにしみじみと言った。
「ウン、俺の友達、ホントにいい人ばっかなんだよね」
私は、彼の言葉に驚愕し、言葉を失った。
中学校はまだまだ大人びた子どもたちの集まりで、幼稚な仲間はずれがあったり、陰湿ないじめがあったり、くだらない噂が流れたり、無駄な意地を張り合ったりすることがよくあった。私にもあんまり好きじゃないけれど仕方なく仲良くしている友達がいたし、ケンカ別れに近い形で気まずくなった友達もいた。友達みんながいい人ばかりだなんて言えなかった。でも、路山くんは心の底からこの言葉を言ったのだろうと思えた。
「路山くんは、お友達が多いみたいね」
先生が微笑んだ。路山くんは笑顔で、
「すみません、委員会も、いつも勝手について来ちゃうんです」
と言った。
「路山先輩、人望でしょう」
後輩たちも横から声をかける。路山くんはすまなそうに言う。
「ゴメン、俺けっこう、遊んで作業サボってることとかあるんだケドね」
確かにそういう側面はあったかもしれない。でも、美化委員会三週目班、このグループの主役はいつだって路山光に違いなかった。
すっかり温まり、うどん屋を出ると、雪が降っていた。
「先生、ごちそうさまでした!」
みんな一斉にお礼を言い、解散した。その日…深瀬くんがいないから、途中から私と路山くんだけになった。二人になるのは初めてではない。募金の時、横断幕を作り始めた初日も、深瀬くんがいなかった。でも、あの時はまだ私も路山くんへの想いがここまで育ってはいなかったし、彼もせいぜい髪が触れるぐらいにしか近付いてこなかった。あれからほんの3か月で、私たちはとても親しくなったのだと思う。お互いの何を知ったわけでもないけれど、そばにいることがただ何となく、わけもなく、自然になっていた。
「初雪かなあ」
路山くんが空を見ながら言った。私はカバンを開け、折り畳み傘を出した。
「…傘、あるよ?」
「せっかくの雪だから、このまま帰らない?」
「うん、そうだね」
私は少しガッカリした。幻の憧れシチュエーション「好きな人と相合い傘」というものを、一度でいいからしてみたかった。でも、雪の降りしきる中を二人で歩くのもいいかなと思った。
しばらく他愛のない話をして、それから少し会話が途切れたとき、私は自分の想いをすべてこめてこう言った。
「…路山くん、ありがとう」
路山くんは何でもないことのように静かに聞いて、それから少しおいて、
「どーしたの、そんなこと」
ととぼけたような口調で言った。
路山くんは、何か気付いているんだろうとその時思った。私の、何の説明もない「ありがとう」…そのことを、決して疑問には思っていないようだった。
「ううん、いろいろ」
私が言えたのはそれだけだった。でも、すべてを伝えられたような気がした。どうしようもなく、彼が私に恋をしていないことはわかっていて…だから、好きだとか、そんな言葉は私たちの間には余計だったと思う。
「雪、積もるかな?」
「おっきい雪だから、積もるかもね」
だからって足を速めるでもなく、私たちは淡々と歩いた。あまりにも急いで沈んでしまった冬の太陽のせいで、夕方の6時はもうすっかり暗かった。外灯に照らされて、幾千の雪のかけらが花びらのように舞う。今年の春、路山くんに出会って、私はなんてたくさん変わったんだろう。男の子とまともな口さえきけなくて、近くに寄ることもできなくて、おかしな思い込みにたくさんとらわれていたこの春の私。今、心から好きだと思える人、出会えただけで幸福だと思える人と、ただ他愛のない話をしながら歩いている。自然に優しさを受け取ることができて、自然にありがとうと言える相手がいる。恋として想ってもらえなくても、そばにいるだけでこんなに満たされることができる。
「…傘、さしたほうがいいかもね」
路山くんが肩口の雪を払いながら言った。コートの表面にたくさんの水滴がついていた。まだ帰り道はもうしばらくある。コートが湿ったら、体が冷えるだろう。
「うん」
私は折りたたみの傘を出す。でも、三つ折りの傘はとても小さかった。傘を広げ、私が路山くんにさしかけると、
「俺の方が背高いから、持つよ」
と言ってくれた。渡そうとしたとき、指がわずかに触れた。路山くんは傘を受け取るのを中断して、
「冷たいなー! 秋川の手」
と叫んだ。
「うん、…もう軍手もないからね」
確かに冷えてはいたけれど、私はそれほど寒さを感じていなかった。女の子の手というのは、寒いとき、大概冷えているものなのだと思う。
「平気?」
路山くんは両手で私の手ごと傘を持った。彼の手も決して温かくはなかったけれど、私の冷えきった手よりは幾分温かく、そしてそれが路山くんの手だと思うと私の心はとても温まった。そして、ふと思った。4月に軍手同士で握手をして、9月に彼が私の軍手の手を握り、そして今私の手は軍手をはめていなくて、その手を彼が包んでいる。彼はこうして少しずつ私のヨロイをはいで、心を温めてくれた。顔を見て話そうよと言い、いつも呼び寄せてかまってくれた。どこか不思議な愛情のようなものを注いでくれた。どうしてだろう。彼は私の気持ちをわかっていて、そして、私も彼の気持ちをわかっているような気がした。彼にとって、それなりに私は特別な存在で…だけど、恋とか愛とか、つき合うとかつき合わないとか、そういう存在ではなくて…でも、やっぱり特別な存在で。
「あったまった?」
路山くんはそう言って私の顔を屈託なくのぞき込んだ。こんな雪の降りしきる夜に、ふたりっきりの道で女の子の手を握っておいて、一体どうやったらこんなに純な表情ができるのだろう。私の胸の中では、女の子の自分がたくさん恋を叫んでいる。告白しようとか、手を握られたんだからこれは恋だとか、積極的になったら恋人になれるかもしれないとか。だけど、私は知っている。こうして手を握っても恋の気配を感じさせない、それが彼からの答えだということを。
「うん、すごくあったまった」
もちろん、こんなシチュエーションにドキドキはしている。手を離してほしくないと、このまま恋になれたらいいと思ってはいる。でも、彼の純なまなざしが私にそれを許さない。それは恋としての存在の拒絶。でも、恋でなければ受け入れてくれる。
「ゴメン、俺が持たないと手がつるでしょ」
「うん、路山くん背があるから…」
傘を明け渡してしまう。勿体ないと思う。でも、思い出はもうしっかりともらった。この記憶は永遠に消えない。
狭い傘に二人で守られながら、幾分くっつきすぎのような、でも決して恋人の距離ではない間隔で私たちは歩いた。そして少し行った先の坂を下りると、いつもの分かれ道が現れる。傘は、私の方に来てしまう…。
「…ここから遠いの?」
「ん、大丈夫だよ」
その答え方は、家まで少し距離があるのだろうと思った。そして、このやりとりは同時に、この場所での解散を告げてもいた。
「じゃあ…」
私は立ち尽くしたまま路山くんを見上げた。彼はニコッと笑い、
「傘、ありがとー」
と言った。
「またね」
彼がそう言い、私に背中を向けて歩き出す。私は、まだ歩き出せない。
「じゃあね…」
幾分夢心地の私の声に、
「まったねー」
そんな明るすぎる返事が返る。その時、気がついた。彼が決して「バイバイ」「じゃあね」「サヨナラ」と言わないことを。今までのすべての別れの場面で、彼が必ず使った言葉は「またね」だった。
急に、私は「じゃあね」という言葉が怖くなる。「サヨナラ」という言葉が怖くなる。彼は別れが嫌いなのだろう。またねと言って安心したいのだろう。そう思うと、私もサヨナラが怖くなる。たとえ本当に別れになるのだとしても、「またね」と言って別れたい。
私は彼の背中をずっと見つめていた。彼は振り返らずに細い道の奥へと消えていった。