第一部 3 クッキー事件
私はあえて黙っていたのだが、文にはほどなく路山くんへの気持ちがバレてしまった。それはもう仕方ない。剣道部に迎えに行くときも、クラスに迎えに行くときも、機会があれば私は路山くんと何かしらしゃべったりしていた。それまでの男子アレルギーを見ている文にしてみれば、路山くんに対する私の態度は断然おかしかった。
いつもの帰り道で、文は驚くほどあっさりと私にこう訊いた。
「キンコ(琴子)、路山光のこと、好きなの?」
なお、この中学時代のあだ名について少し解説しておくと、文が私を呼ぶ「キンコ」は「琴子」の重箱読みで、この当時下の名前を音読みするのがうちの学校の定番だった。行田文枝の「ぶん」も、深瀬くんが路山くんを呼ぶ「コウちゃん」もそうだ。1年の国語の教科書で菊池寛をやったとき、「本名は『きくちひろし』ですが、音読みで『かん』です」という話があり、それがきっかけで下の名前を音読みするのが流行した。そのまま3年生になった今も音読みのまま呼ばれる人が残っているわけだ。私と文は1年生の時のクラスメイトだから、「ぶん」「きんこ」は当時の名残である。
さて、しっかり恋心を見抜かれてしまった私は、それなりに隠蔽しようかと考えてみたりもした。だって、文は1年の時から私の「好きな人」とやらがちょろちょろと変わり、その「好き」に大した理由がないことを知っていたから。ここでまた相手が変わったなんて、ちょっとばかし決まり悪い。
「うーん」
私はうなった。態度を決めかねた。文は男言葉で言った。
「ごまかしたってしょーがねーだろ、見てりゃわかるよ」
「うーん、まあね」
私は歯切れ悪く答えた。文は極力淡々と、私に忠告してくれた。
「言っとくけど…コウちゃんは、誰に対してもあんなだよ」
あれっ、と私は思った。文も、路山くんのことを「コウちゃん」と言うのか?
「あんなって?」
一応、会話の方に対処した。
「女には限らず、誰にでも無邪気にチョッカイかける奴だよ。もしもアンタが変な期待とかもってるんだったら、やめとけと思って」
そうか、文は1年の時から剣道部で路山くんを知っているのか。ならば校内の流行に則って、呼び名は「コウちゃん」になるだろう。文にとっては部活の仲間で、今はクラスメイトでもある。
「期待は、全然もってないよ」
私はまずその点をきちんと理解している旨伝えた。なぜだろう。彼は私にべたべた触りたがるような気もしたし、委員会ではいつも「秋川~」と呼ばれてペアになっている。でも…どうしても、彼の恋愛感情を期待することができなかった。もっと勘違いしても良かったはずが、私は身の程を正しくわきまえていた。
文は私が「勘違いしていない」ということを信じていないようだった。
「そーか? 妙に仲いいからさ…」
仲がいいと言われるのは嬉しかったし、少しはそんなふうにも思えた。でも、恋愛とは違うと「知っていた」。自分に言い聞かせていたのではなく、ただ、「知っていた」。
「いいっていうなら、路山くんは、美化委員会についてくる人たちとも仲いいから」
「あー、あいつらはね…。好きとか嫌いとか、結構色気づいてつるんでるから」
文の軽蔑した言い方に、私は疑問を感じた。
「でも、村垣くんと春日井さんって、1年の時からのカップルなんでしょ?」
「春日井はあっちこっちで男に色目使ってるけどな。村垣が心配して、くっついて回ってるんだろ」
私は混乱した。彼らは色恋沙汰ではないのだと感じたばかりだったのに…
「春日井は別に美人じゃないけど、あれ結構もてるから。男は単純だから、春日井が好意もってるみたいな態度すると、すぐ勘違いするんだよ」
どうやら、文は2年生の時に春日井孝子と同じクラスだったようで、その頃に彼女の様子を見て噂を聞いたりもしていた。
「じゃあ、あとの人は?」
「さあ、どういう思惑があるのかは私にはちっともわからん」
「文、いろいろ人間関係に詳しいね…」
「このくらいの噂、普通に女子の間で流れてるよ。アンタは、そーいうの全然関わろうとしないから」
文はちゃんと社交性のある普通の子で、みんなと噂を共有したりして、十代の女の子らしい暮らしをしていたのだろう。私は学校の成績以外で周囲の女の子に関心を持ったことはなかったし(男にはもっと関心がなかったが)、文の、私との関わり以外の普段の生活を知らなかった。
この中学校があり、文と私がいて、クラスにもそこそこの友達がいる…それが私の中学2年までのすべての世界だった。中学3年という時期、路山光というたった一人の人を通して、私の世界は突然開けていった気がする。
「じゃあやっぱり、路山くんとその取り巻きって、修羅場なの?」
「あいつらはわからんね~。そこはかとなく色気づいてて、その雰囲気が楽しくて集まってるんじゃないの?」
私にはちっともわからなかった。
「みんな、光ちゃんは好きなんだと思う。放課後にみんなで集まろうじゃなくて、今日は光ちゃんここにいるから、ついてこうか…みたいな」
路山光…。もうあれから何年もたった今でも、私は彼のことがよくわからない。彼には何か、人を惹きつけるような力があった。でもその力が何かということもわからない。彼のそばは居心地が良かったし、そこにいたいと思わせる何かがあった。私はそれを恋だと思っていたけれど…そして今も思っているけれど、もしかしたら、深瀬くんをはじめとする男の子たちもまったく同じ慕情を感じていたのかもしれない。
私は結局何もわからないまま、文に言った。
「私、路山くんと両想いになりたいとかは…まあ、なれたら嬉しいだろうけど、そういうのじゃなくてもいいなって思うんだ。なんか好きってだけ。…多分、普通にしゃべってくれたのが路山くんぐらいだから、いつもの病気みたいなものだよ。委員会がある限り顔合わせるから、その間は多分好きだろうけど…、どうせ卒業までだよ」
「ふーん」
それで、その話は終わりになるところだった。でも一つ、積み残しのように気になったことがあったから、訊いた。
「深瀬くんも、そういうよくわかんない色気で来てるの?」
一人残って募金の勘定をしてくれた深瀬くんまでが、「おかしな色気でつるんでる」という範疇に入るとは思えなかった。
「深瀬はよくわかんない。でも、アイツは、誰かが好きでって言うんだったら、周りの女じゃなくて、光ちゃんが好きでつるんでるんじゃないのかなあ」
路山くん周辺の人々に対してやや侮蔑的だった文の口調が、深瀬くんの時だけ慎重だった。私は、本当に短絡的で恥ずかしいのだが、その時文を「深瀬くんのこと、好きなのかな?」と思った。
10月の缶当番の日、その日に来た路山ファミリーは、深瀬くん、青木さん、春日井さんとあとはあまり目立たない佐藤さんという女子1人で、私は文に聞いた色恋沙汰の雰囲気を探りたいような、知りたくないような、複雑な気分でいた。色気づいているというなら、路山くんはいったい誰のことが好きなのだろう。でも、路山くんが今何らかの恋愛に身を置いていたとして、それは私にいっさい関係ないという認識があった。
一通り作業が終了して解散になったあと、路山くんを囲むファミリーの輪ができた。私ももはやその「ファミリー」の一員でしかなかった。
「ねー、クッキー焼いてきたの、食べる?」
春日井さんが小さな箱を取り出した。私にとって画期的な出来事だった。手作りのお菓子を学校で振る舞う! 素晴らしい「女の子らしさプレゼンテーション」だ。多分、一般的にはどこでもこの程度のことは行われているのだと思うが、私には新奇なことだった。
「村垣がさ~、マズイって言ったんだよね~、これ」
春日井さんは言った。周囲に対して目が開いてきて知ったのだが、村垣くんと春日井さんは学年でも知れ渡ったオープンなカップルだったので、彼らに対して勝手にいろんな憶測をしていた私がマヌケだっただけのようだ。
「えっ、まずいの?」
みんな、こわごわとその「クッキー」を見た。確かに、全身が小麦粉のように白いそのクッキーは、我々が想像するものとはちょっと違う様相を呈していた。
ひょいと、指が伸びた。路山くんだった。一つをつまんで、ためらいなく口に放り込んだ。一同が路山くんの感想を待った。彼は、しばらく噛んで、口にまだ残った状態で、
「チョット粉っぽいね」
と言った。そして、飲み込んでから指で「OK」のマークを出した。だが、ちょっと粉が残っているのか、口の中をモゴモゴしていた。
それでみんな手を出したのだが、微妙な味わいだった。小麦粉を水で固めたような味がした。みんなの微妙な表情を見て、春日井さんは頭をかいた。
「…やっぱだめか、適当に混ぜて焼いてみただけなんだけど」
「えー!」
「本も何も見ないで?」
「そう」
どうやら、彼氏のために焼いたクッキー(?)が不評で残ってしまったため、この場に持ってきたようだった。でも、私はそんな彼女に感謝していた。彼女は私に、素敵なアイディアを授けてくれた。
(そうかあ、こうすれば、私も路山くんに手作りクッキーを食べてもらうことができるんだ…)
これまた短絡的なことに、11月の缶当番の時、私は本当に手作りクッキーを持参した。本を見ながら練習を重ね、完璧に仕上がった自信作だった。しかし、先月失敗作を振る舞った女の子がいて、今月別の女の子が出来のいいクッキーを持ってきたら、先月の子はいったいどういう気持ちになるだろうか? 当時の私にはそういうことを想像する能力がまったく欠落していた。けれど、言い訳になるが、私に悪気はまったくなかった。愚かなまでに素直に「私もやりたい」と思っただけだった。
いつもと同じようにすべての作業が終わったあと、私はおそるおそるクッキーを取り出した。その日の路山ファミリーは深瀬くん、春日井さん、村垣くん、佐藤さんだった。そう、春日井さんは、しっかりその中にいた。でも、私は路山くんのことしか考えていなかった。
「私も、クッキー作ってみたんだけど…」
そう、私は確かに「私も」と言った。先月の春日井さんに対して言っていることは明らかで、その言葉がいやがうえにもその場の人々にクッキーの比較をさせることになる。もはや今ここで言い訳をしても何の足しにもならないが、ただただ私はその頃、周囲の人の状況や気持ちを考えて行動できるほど人として成長できていなかった。
「へー、おいしそうだね」
言ったのは村垣くんだった。もはやこの時点で、先月村垣くんに「まずい」と言われた春日井さんがどういう気持ちだったか考えると胸が痛む。先月、誰もが彼女のクッキーを「こわごわ」見て、なかなか手を出そうとしなかった。でも、私のこの時のマニュアル通りに焼き上がったきつね色のクッキーは確かにおいしそうで、誰もが躊躇せずに手を出した。しかし、元々彼女が持ってきたのは「失敗作」とわかっていたものだ。私と春日井さんのクッキーの比較は、まったくもってフェアではなかった。
みんなが同時に口を動かし、そして、路山くんは言った。
「実は、春日井の方がおいしいかも?」
今なら、私はこの路山くんの言葉を私への天誅だと思うことができる。でも、その時の私にとって、こんなに残酷な言葉はなかった。路山くんのために一生懸命本を見て練習して、満を持して持参したクッキーを、「なんか混ぜて焼いてみただけ」の失敗作よりおいしくないと言われたのだから。
私は雷に打たれたように衝撃を受けて立ち尽くした。けれど、そこでさりげなく、何気ない調子で響いた深瀬くんの声が場を救った。
「俺はこの方が好きだけどね」
春日井さんが笑いながら続いた。
「比べたら失礼だよ、秋川さんの方が全然おいしいじゃん」
勉強のランク付けでも、お菓子づくりの腕でもなく、人の価値はこういうところに出る。独りよがりでクッキーを焼いてきた私の失態を、比べられた春日井さん自身が鷹揚にも救ってくれた。深瀬くんのフォローと春日井さんの修復によって、私の硬直には誰も気づくことなく和やかな時間が過ぎた。
私は、クッキーを持っていった箱を空っぽの状態で捨てることができた。でも、当時はそれがどんなに有難いことであるかをまったく認識していなかった。それどころか、すっかりどん底に落ち込んでいた。
『実は、春日井の方がおいしいかも?』
私の頭の中では、路山くんの声が果てしなく繰り返されていた。他の全員がまずいと言っても、路山くんさえおいしいと言ってくれればそれでよかったのに…。私は一生懸命、深瀬くんの『俺はこの方が好きだけどね』を反芻することで平気な顔を装った。
それからみんなで校門に向かって歩いていると、校門にさしかかろうというときに、深瀬くんが声をかけてきた。
「秋川さん、華道部だよね。この花、何ていうの?」
そこにはリンドウの花が植えられていた。
「ん、リンドウだよ」
私は心を押し殺して普段通りの声で答えた。校門そばの花壇で足止めになり、私と深瀬くんが少し遅れた。
「それと、…」
深瀬くんはとてもさりげなく言った。
「クッキー、おいしかったよ。ホントに」
私はリンドウを見ながら凍りついた。こんな風に蒸し返して、傷をえぐられたくなかった。
「光ちゃんが言ったのは、あれ、春日井に気を遣っただけだから」
また、ぐさりと胸に大きなとげが刺さった。本人からでないフォローなんて、ただの空しい哀れみにすぎない。
「…光ちゃんは、みんなが秋川さんの方がおいしいって言うのがわかって、バランスをとろうとしたんだと思うよ。光ちゃんは、そういう人だからさ。ちょっと先走って変になっちゃったけど、その分はごめんね」
深瀬くんはそう言ってまた歩きだした。私も、ひとりはぐれたくなくて後を追った。
その日、やっぱり途中からは帰り道が私と路山くんと深瀬くんの3人になって、その日は妙に深瀬くんが饒舌だった。私は落ち込みすぎて路山くんの顔を見られない状態だったし、路山くんはそれに気付いているのか、私に声をかけなかった。私は、いつになく快活にしゃべっている深瀬くんの背中に「ありがとう」と思った。私は路山光でなく、深瀬真吾を好きになるべきだった…と再度思った。
この時、私はちゃんと「春日井さんに申し訳なかった」と気付くべきだった。でも、ずっと路山くんの言葉を思い出して傷ついていた。深瀬くんが私をなぐさめようとしたことはわかったが、リンドウの名を訊くことでわざとみんなと少しはぐれ、フォローの言葉が春日井さんに聞こえないようにしたのだということにも気付かなかった。そして、せっかく路山くんの優しさを聞かされても、私は、
(春日井さんに気を遣うためなら、私を傷つけてもかまわないんだ…)
と思ってますます落ち込んでいた。
このクッキー事件はしばらく尾を引いて、私は文の迎えに剣道部に行っても体育館の入口から遠い段差に座って校庭を見ていたり、クラスに行っても廊下の隅で窓の外を見ていたりした。余計なことをするんじゃなかったと深く落ち込み、もう路山くんと関わるのをやめようとまで思っていた。委員会に出ないわけにはいかないが、もうペアになる必要はない。剣道部でも文のクラスでも声をかけられたくない。元々の卑屈さが再び身をもたげ、「不細工な私が、手作りクッキーなんて、世間一般並みの女の子の真似をすべきじゃなかった」と思った。
でも、やっぱり華道部の方が剣道部より早く終わったし、教室が上の階の私が下の階の文を迎えに行って帰る方が自然だった。
そんな華道部も剣道部もない火曜日、私はうかない気分で窓の外を見ながら廊下で文を待っていた。その時、突如背後から私の首に誰かの片腕が回り、容赦なく引っ張り上げられた。何事が起こったかは、ガラスに映った路山くんの姿ですぐわかった。
「暗いぞ、秋川~」
容赦がないとはまさにこのことだ。それは、首を絞めたの絞めないのという話ではない。その姿勢は、私を背後から抱きしめたに等しい。私は、物理的にではなく、精神的に、息が詰まった。
「光ちゃん、キンコを殺すなよ」
文の声がした。路山くんは、私を片腕で抱えたまま文の声の方を向いた。
「なんだ、行田。はい、返すね」
彼は硬直する私をあっさり解放し、私の首根っこのあたりに掌を載せて、文に向かって軽く突き出した。その時きっと、私は目が点になりすぎて、ものすごく面白い顔をしていただろう。
「行くよ、キンコ」
私は「ああ、うん」と答え、正気に戻ったふりをしたが、今回のこれはまた衝撃が大きかった。私は、男の子と「恋人同士」になったら、まず手をつないで、次に腕を組んで、それから肩を抱かれて、抱きしめられて…というような形で、男性との触れ合いをずっと未来のものとして10段階くらいに想定していた。しかも、それはきっと17歳ぐらいで私の身の上に起こりはじめる設定になっていた。なのに、当時14歳の私は、路山くんによって、恋でも何でもなく「手を握られ」「肩を抱かれ」「背中を抱かれ」てしまったことになる。予定外の接近と密着に精神がついていかなかった。でも、それはとても嬉しくて、天にも昇る心地でもあった。
「今度の大会、どーする? 見に行く?」
文が、なりゆき上一緒に帰ることになった路山くんに話しかけながら歩く。私は動転した気持ちのままその後ろを歩く。気付くと隣に深瀬くんがいた。
「ここんとこ、急に寒くなったね」
深瀬くんは言った。頃は12月半ば、来週はまた缶当番だ。私は訊いた。
「深瀬くん、来週も缶当番、手伝いに来るの?」
11月、青木さんは来なかった。これで、4月からずっと来ているファミリーは深瀬くんだけになった。
「ん、行くと思うよ。邪魔?」
「ううん、なんでずっと、手伝ってくれるのかなって思って」
ふと、深瀬くんの背が伸びたなと思った。ずっと以前、首のホックを外してあげた時よりも、顔の位置が高いような気がした。そんなことを思っていると、深瀬くんの顔が私の方を向き、ささやかに微笑んだ。
「俺ね、光ちゃんのこと好きなんだよ。変な意味じゃなくて」
私も、と私は心でつぶやいた。「変な意味」を恋愛感情と訳すなら、私は「変な意味」なのだけれども。
多分、と私は思った。多分、…今、冗談で首を絞めるような真似をしたのも、彼なりの優しさなのだろう。私が例のクッキーのことで落ち込んでいると気付いたわけではないだろうけれど、とにかく私が沈んでいることには気付いて…そして彼にできるのは、ほかの何でもなく、おどけてみせることだった。
「…優しいよね、路山くんって」
私は、少し前を文と並んで歩く路山くんの背中を見ながら言った。おかしな呪縛にとらわれて男の子と話もろくにできなかった私を、何の分け隔てもなく、いや、むしろ積極的に相手にしてくれた。不美人なうえに、男子との会話にまったく慣れていない変人の私を熱心に相手にするのは、何一つ得にならないのに。
「そうだね。…優しいって言葉が合うかどうかわからないけど、光ちゃんはホントに純真だと思う」
深瀬くんは路山くんの背中を見ていた。私はその深瀬くんの表情を一瞬だけ見て、いい男の顔だと思った。どうして、こんなに頼りがいのある深瀬くんでなく、とらえどころのない路山くんを好きになったのだろう。
路山くんの精神世界が私にはちっとも見えなかった。まるで天使のように、と私は思った。路山光…その図々しいほどの天真爛漫さと屈託のない笑顔。私の呪いをといてくれた人。出会えたことを幸福だと思う。例えばこの恋がどんな形で終わっても、ただ出会えたことを幸福だと思う。ずっと嫌いだった自分の顔も、名前も、性格も、今はそれでいいんだと思えるようになっていた。彼の心が私を見ていなくてもいい、自分の人生の中に彼が存在したことそのものが、私にとって溢れるほどの幸福だと思えた。
そのまま4人で校門まで歩き、私は路山くんと深瀬くんに向かって、
「じゃあね」
と言った。もちろん、文と帰るために、南のルートへ向かうからだ。
「えっ、ダメだよ」
路山くんは私の腕をつかみ、強引に引き寄せた。私はよろけて路山くんのそばに寄った。肩に手が掛かる。
「秋川サンはこっち、ね」
困った、と私は思った。心情としては、ものすごく北に行きたい。でも断固として「恋愛より友情」だ。男のために親友をないがしろにするなんてプライドが許さなかい。…でも、肩に掛かった手を振り払いたくはなかった。
「ダメだよ、私、文と帰るんだから~」
なんとか言ってみたが、その力ない声には彼に連れて行かれたい本音がありありと浮かんでいた。それが私の精一杯だった。
「わかったわかった、キンコは光ちゃんにやるよ」
文はそう言って、私に「しっしっ」という仕草をした。
「文~、見捨てないで」
そうは言うものの、おそらく文には私の気持ちが聞こえているだろうと思った。そして、今客観的にその頃を思い出すと、その場にいた路山くんも深瀬くんも、文と同じようにすべてをわかっていたに違いない。
「はい、行くよ~。またね、行田」
「ちょっと待って…」
「秋川さん、もう光ちゃんに売られたんだから、あきらめようよ」
「いーよ、たまにはそっちから帰んなよ、じゃーねキンコ」
ひとしきり騒ぎをやったあと、私は路山くんに強引に向きを変えられ、連れ去られた。
(…文にはあとで電話して言い訳をしておこう…)
私は心底気まずかった。断固「恋愛より友情」が私の信念だったのに、いざこうなるとどうにもできない自分が情けなかった。
とはいえ、こんな風にされるのは本当に嬉しくて、心の隅っこでほんの少しだけ、
(でも路山くん、私のこと嫌いだったらこういうこと、しないよね?)
と思っていた。そう、「嫌いではない」…それが精一杯だった。こういうドキドキするようなことがあればあるほど、路山くんは私に恋をしていないという自覚が強くなっていった。言うなれば、彼は図々しすぎた。恋をしていればきっと、もっと、緊張するはずだと感じた。嫌われたらどうしようとか、変に思われたくないとか…。私が路山くんに対してそう思っていたように。
彼は、クラスや剣道部ではまた別の顔を見せているのだろう。でも、私と一緒にいるときは不思議と「私の路山くん」だった。いつもくっついていた、と言ってもきっと間違いではないと思う。だから彼にとっての私は、恋ではなくてもどこかで「特別」だったのだと思っている。
その日、帰ってから文に電話をすると、
「光ちゃん、おまえのことすっごい好きなのな」
と言われた。私はとても嬉しかった。
「そうなのかな~。だったら嬉しいな~。でも、…恋愛感情じゃないんだよね…」
私は、彼の気持ちが恋ではないということこそ自分の錯覚であってほしかった。
でも、文はあっさりと言った。
「…ああいう奴だからな。わかってるんだったら心配しないよ」
やはり彼はただ罪深いだけの天使にすぎなくて、誰にでも優しくて、気まぐれで、そして…私はそれだけで満足だった。他には何も要らなかった。もしも他に好きな人がいても、彼女がいても、私はきっとこのままずっと路山くんのことが好きだろうと思えた。