第一部 2 自己崩壊
以後、路山には剣道部でも時折声をかけられ、文を教室に迎えに行ったときも何度か声をかけられた。そして私は、文と路山が同じクラスだということを今さら知った。最初に「クラスに行田を迎えに来てたよね」と言われたとき、当然悟るべきだったのに。
6月の美化委員の当番の際にはまた5人の取り巻きがやってきた。今度は、男子2人に女子3人。深瀬と青木さんはもはやレギュラーだった。
(…今月は女の方が多いんだけど、一体どういうことなんだろう?)
私の中では、「路山の取り巻きの女子」=「路山に恋をしている女子」に違いなかった。だから、それが3人も集ってくるとなると、もはや修羅場としか思えなかった。そんな恐怖の世界に巻き込まれたくなかったので、私は彼女たちをはじめ「路山組」には近寄らずに缶を集めた。だが、私が一人で黙々と作業をしていると、必ず路山が寄ってくるのだった。
「秋川~」
実は単なる被害妄想なのだが、私はそうして路山の声が聞こえた瞬間、3人の女子の憎しみの視線を浴びたような気になった。
(来るなよ、取り巻き女の相手してればいいじゃん…)
私の心情としては、かなり路山に退いていた。女をゾロゾロ連れて委員会に来るなんて、いい根性だ。
「せっかく友達来てるんだから、一緒にやりなよ」
私はできるだけ親切な声色を装った。「私はあんたに興味がないから、せいぜい彼女たちを構ってやりなさいよ」という気持ちを精一杯こめて言ったつもりだった。だが、路山にはそういう皮肉のようなものは通じなかった。
「あいつら勝手に来てるんだから、別にいーんだよ」
勝手に来ている! 私は、路山が、寄ってくる女どもをつかまえては「一緒に行こう」と誘っているような印象を抱いていたのだが、違うらしい。青木さんも、もう一人来ている女子の「春日井」さんも学級委員で、自分の委員の仕事をやったうえに美化委員の仕事まで手伝うなんて酔狂にもほどがある。「男目当て」以外、動機が考えられない。不潔である、と私は結論した。
男子の方、深瀬ともう一人…のちに「村垣」という名字だとわかった男子、彼らは何を目当てに来ているのだろう。不可解な行動である以上、おそらくは恋愛感情なのだろうと私は解釈していた。深瀬は5月の実績から言って青木さんを目当てとしているのだろう。そして村垣は、4月と6月に来た以上、同じ4月と6月に来た春日井さんが目当てに違いない。
女が全員路山を好いていて、男にそれぞれお目当ての女がいるとすると、こんなに恐ろしい修羅場はない。私は震え上がった。なんと面倒な委員会に入ってしまったのだろう。
路山は缶の袋を一ついっぱいにしてそれを台車に投げ、手ぶらになると今度は私のところに戻ってきた。
(なんで、また私のところに来るんだ?)
そんなときのお決まりの妄想に「もしかして、この人私のこと…?」というものがあるが、私も多分に漏れず、一瞬だけそれを考えた。でも、本当に謙遜でなく私は不美人だった。目は細く鼻は丸く、顔は丸々と肥えて、髪は多すぎて顔に分厚くかかって暗さを倍増し、スカートのすそから覗く脚は見苦しく太かった。体重は標準をちょっと超えた程度で決して「肥満」ではないのだが、全体にもっさりと肉のついた野暮ったい外見は、自覚できるぐらいには絶望的だった。性格は…さほど人気者ではないことから、自ら推して知るべし。しかも「男は1:9の比率で女の性格よりルックスが大事だろう」と思っていたので、この外見の分のマイナスを逆転満塁ホームランできるほど自分が素晴らしい性格だとは思えなかった。だから、「もしかしてこの人…?」は100%の確率で却下された。この点に関しては、私は実に理性的だったと思う。
路山は勝手に私の少し先に立ち、それが当然の段取りであるかのように缶を拾っては私に渡した。何だコイツ、と思ったが私はその行動に抗議したり問いかけたりするような対処は思い浮かびもせず、唯々諾々とそれを受け取った。背後では取り巻き連中がしゃべり散らし、ハシャいでいた。まあ、いいだろう、彼らに真面目にやる義務はないのだ。
袋を手に路山の後ろを歩きながら、背後から落ち着いた響きで声をかけられたとき、声の主…深瀬の袋がいっぱいになっているのを見て驚いた。深瀬も大真面目に働いていたらしい。
「秋川さん」
深瀬は私に対し、さん付けだった。でも、それは大人びて感じる深瀬にとても合っていた。私は努力の甲斐あって、深瀬の顔を見上げながら振り向いた。
「ちょっと、ガクランの首、ゆるめてくれない? 下向いて苦しいんだけどさ、缶の水で手が汚れちゃったから、自分でやるの、やなんだ」
またしてもショックが私を襲う。深瀬は私に、俺の首に手を伸ばせと言っている。つまり手が届く距離に立たなければならない。しかも顔のそばにある首という部位に、女子で他人の私が手を伸ばすなんて!
それでも、異性として意識して緊張しているような印象を与えたくなかったので、私は全身の力を振り絞って答えた。
「あ、うん」
袋を地面に置き、軍手を外してその上に載せ、私は戦々恐々とする心境を全力で隠して深瀬のそばに立ち、首のホックを外してあげた。割合外しにくく、5秒もかかったろうか。それだけで実に疲弊した。
さらに、そこに追い打ちがかかる。
「夫婦みた~い」
路山の取り巻きが我々の様子をそう評した。幸いその瞬間ホックが外れたので、私は慌てて距離をとり、軍手をはめなおした。そうした類の冷やかしの言葉を楽しく受け流す能力など、私にはなかった。
(なんで、こんなに親しくもない女に頼むんだ。どいつもこいつも)
私はポーカーフェイスを装いつつも、そんな苦行を課した深瀬を呪った。
「秋川~、ゴミ~」
今度は路山が私を呼ぶ。私は袋をぶら下げ、小走りに路山のところへ到達した。
「はい、これ」
路山は、当たり前のように缶を寄越す。私は、これは間違っていると思った。だって他の委員の面々はそれぞれ自分の袋を持ち、一人で缶を拾っては自分の袋に入れている。路山が私と一緒に作業をする必要がどこにあるのか。
とにかく、私は路山の異様な馴れ馴れしさに目を白黒させるばかりだった。アレルギーの治療に、ショック療法と称してアレルゲンを大量注入されているようなこの事態。私は現実に適応するのが精一杯だった。
7月の第3週はもう夏休みなので当番がない…と喜んでいたら、学期末の大清掃大会は美化委員にとって最も忙しい行事だった。委員以外の者にとってはただの大掃除にすぎないのだが、委員は目標を決めたり、分担表を作ったり、当日「清掃大賞」を決めるための採点表を作ったりするらしい。清掃大賞なる馬鹿げた賞が授与されているのは知っていたが、あんなものは先生が勝手に政治的な観点から決めるのだと思っていた。誰が清掃大賞の賞状がほしくて掃除を頑張るものか。これらの作業は、全部の美化委員によって行われるため、班構成は缶当番ではなく、クラス単位だった。
クラス単位で座る美化委員会の会議。この時初めて、私は自分の中で起こっている変化に気付いた。
じっとしていると、ふと、周りを見回したい衝動に駆られる。けれど会議に集中しないのは優等生の名に反する。自分が何をしたいのか、しばらくわからなかったがやがて気付いた。路山が来ているかどうかを知りたいのだ。
その時の恐怖をどう語ったらいいのだろう。だって、相手は押し掛け女房状態の取り巻き女子を3人も抱えている。自分がその渦中に飛び込めるとは思わないし、飛び込んでも勝てるはずがない。私のようなブスが男を追い回すことほど醜悪なものはない。
私は、一言も会話したことのない、それどころか顔を視界の隅でしか見たことがないクラスの男子に勝手に憧れて「恋」と思ったりするような人間だ。私にとっての「恋愛」「恋」は、そういう虚構の出来事にすぎない。
(…ああ、また、私の病気が始まったな…。路山とは、今までの男子の何倍もしゃべったからな…。早速、錯覚しちゃったかあ…)
私はその日、自らを納得させ、路山に一瞥も送ることなく委員会をあとにすることができた。
とはいえ、夏休みまでの数日の間に、剣道部と文のクラスへの訪問があるのは変わりない。すると、「意識しないように」という意識が働いてむしろ不自然になってしまう。路山とすれ違うのがわかっているのに「気にしない」と言い聞かせて無視してしまい、すれ違うなり背後から肩をたたかれて、
「大丈夫? 目の焦点合ってないよ」
と笑われた。私は反省したが、「自然体」とはどうすれば実現できるのだろう。
不思議だったのは深瀬の存在だった。どこかから私を呼ぶ声に「さん」づけがしてあると妙にホッとした。だから、私が人生最初に「うちとけた」男は、もしかして深瀬だったのかもしれない。
「秋川さん、今日も行田さん待ちだね」
「あ、うん」
「さっき先生に呼び止められてたから、行田さん、出て来るのちょっと遅いかもよ」
「そうなんだ、ありがとう」
「じゃあね」
深瀬は紳士だった。穏やかで優しく落ち着いていた。中学3年生…14、5歳でこんなにも安心感を振りまけるものだろうかと思った。
それに対して、路山はどこか浮世離れしていて、そして幼い子どものように傲慢だった。剣道部の練習後、深瀬と入れ替わりに背後から、
「秋川~」
と呼ぶ声に振り向くと、路山が私の頭めがけて竹刀を振り下ろしてきた。私は目をつぶったが、路山はそのずっと上の方で竹刀を止めていた。
「秋川、華道やるんだったら和風じゃん。剣道もやれば?」
「びっくりした…、危ないでしょ。私、運動はやらないよ、体育全然ダメだもん」
「あんまり、体育関係ないよ。でも、小手は臭いよ」
路山は目の前で小手を外し、私の方に中を向けて突き出してくる。
「ちょっとー!」
私が退くと、満足して笑い、去っていく路山。気付くと自分の胸が不必要に強く打っている。冗談じゃない。どうせドキドキするなら、深瀬相手の方がずっと真っ当というものだ。
幸い彼らの顔を見られるようになってきたこの頃、深瀬の知的な面差しは魅力的かもしれないと思っていた。一方、路山は…あるいは整うとかそういう言葉で言うなら深瀬より無難にまとまってはいたかもしれない。でも、子どものように純な目と温厚そうな厚めの唇、そして屈託のない表情がどこまでも不思議な雰囲気を醸し出していた。あるいは「カワイイ」という言葉が似合うのかもしれない。
路山も深瀬も見かけが「そこそこ」であるから、精神的に余裕があり、世の不細工な女子一同にも博愛の精神をもって接することができるのか。だから私にも慈愛の心で声をかけるのか。ならば路山であれ深瀬であれ、博愛主義者の施しに対して特別な感情を抱くなど、もってのほかだと私は結論した。
幸いにして学期末の掃除大会は無事終了し、夏休みがやってきた。週に一度華道部はあるのだが、私は夏休みの部活を欠席することにした。丁度、夏期講習と時期が重複していた。地元に高校受験専門の信頼できる塾があったため、私はその夏期講習に申し込み、クラス分けテストを受けた。
夏期講習初日、少し早く塾に着いたのでとりあえず入口を入り、廊下に貼り出された夏期講習のクラス分け表で同じ中学から誰が来ているかをチェックしていた。するとそこに「路山光」の文字があった。
(うわ!)
ものすごく焦ったが、同時にこっそり彼のクラス分けの結果を確かめることができた。「C」の文字…これは、「中の上」のレベル。この塾は、偏差値50以上の人しか入れてくれない。ということは、A、B、C、Dとクラスがある以上、単純計算でDが50~55、Cが55~60、Bが60~65、Aがそれ以上だ。私のクラス分けは、しっかり「A」だった。
恋をする相手なら、学力は自分並み…あるいはそれ以上でなければならない。私はそんなことを勝手に決めていた。本当に困ったことだと思うが、自分が顔でランク付けをされたら傷つくくせに、私にはどうしても人を学力で分類するようなところがあった。
「アレッ? 秋川!」
路山光の名前の真っ正面に立ち尽くして思案にふける私に、当の路山自身が声をかけてきた。私は飛び上がらんばかりに驚いた。私は飛びすさるようにクラス分けの紙の前をどき、今どこを見ていたのかを路山に悟られやしないかと額からガマの油を流した。
「同じ塾だったんだ~。おまえ、クラスは?」
私は再度仰天した。「おまえ」! …そういえば、我が中学は、男女はお互いに名字で呼び捨てにして、二人称は男子が女子を言うのは「おまえ」、女子が男子を言うのは「あんた」を使うのが一般的だ。だから、路山が私をおまえと言ったのは至極当然で、全く動揺する場面ではない。でも私は男子に「おまえ」呼ばわりされたのが初めてだった。2年以上中学校に通っていて、ただの一度も男子に二人称で呼ばれたことがなかったということだ。
そして、「クラスは?」の問いも猛烈に気まずかった。私は、彼より2クラスも上だ。言葉に詰まっていると、路山があっさり「秋川琴子」の名前を見つけた。最初の文字が「あ」なのだから、五十音順と明記してある以上、最初を見ればいいだけの話だった。
「ふーん、Aなんだ。頭いいんだねー」
勝手に気まずくなっている私を尻目に、路山はあっさり笑顔でそう言って、
「じゃー、またね」
と階段を上っていってしまった。
私は拍子抜けした。今振り返って考えれば、学力なんて人間を評価するものさしの何百何千とあるうちの1つなのだから、そこで2つ差がついていたって何も自慢にならないし、気にすることでもない。でも、当時の私にはそのものさしがカースト制のように絶対的なものだった。もはや当時の思い込みにいちいち注釈をつけるのも面倒な気がするが…自分の方が学力ランクが高かったことにショックを受けている時点で、私の感情はすでに恋だった。
それから、夏期講習の時に何度か路山を見かけることがあった。でも、美化委員会の用があるわけでもなく、特別声をかけるきっかけはなかった。
2学期、美化委員会に緊急招集がかかった。
『河をきれいにしよう募金』
委員会の担当の先生が黒板に大きく書いた。
「区の今年の取り組みで、各河川の流域の小中学校を中心に、ボランティアの清掃と、整備のための募金を行います。内容は、水質調査、川岸の清掃、募金です」
先生はそう言い、黒板に、
『水質調査(清掃前、清掃後) 川岸の清掃 募金』
と書いた。そして、
「この、川岸の清掃は、各校20人の参加となっています。生徒会役員も出席しますので、美化委員会からは12人の参加になります」
と説明した。「エー」という不満の声が上がった。
「美化委員は4つの班に分かれているので、水質調査、清掃1、清掃2、募金、とちょうど役割分担ができます。これから各班で話し合って、第一希望、第二希望を決めてください」
全員があわてふためいて席を立ち、班ごとに群れた。ひそひそ声が教室中を埋めた。
「絶対、募金だよね」
路山が言った。2年生の男子も、
「川まで行きたくない」
と言った。全員が同じ意見だった。募金希望の班が多くて決定は難航したが、ジャンケン3回戦勝負の結果、私たちは見事、学校から出なくていい募金担当をせしめた。
しかし募金担当には、啓蒙ポスターと、屋上に掲げる横断幕を手作りする作業まであった。募金期間が丁度9月の3週目に当たっていたため、我々の班は、9月の2週目はポスターや横断幕を作り、3週目は募金をしつついつもの缶当番をやらなければならないハメになった。
空き教室の一つが『河をきれいにしよう募金』本部となり、美化委員3週目班はポスターと横断幕づくりをはじめた。ポスターは2年生の男子がいとも簡単にパソコンで作ってきたのだが、横断幕はそうはいかなかった。一文字1メートル四方で、「河をきれいにしましょう」の11文字と最後に小さく中学校の名前を書くらしい。さすがにこの大きさで、しかも布が相手では、手作りするしかなかった。
本部にて、古新聞、染料と筆類、レジャーシートを用意して作業開始。私が染料をこねていると、またも、
「秋川~」
の声。やっぱり路山が呼んだのは私だった。私は「路山組の女子も、こうしてチョッカイをかけられて路山に騙され、痴情のもつれに引きずり込まれたのではないか」と警戒した。だが、そう思って拒否しよう拒絶しようと思っても、それができなかった。
「ここ、押さえて」
「えー、何か重しは?」
「さっき、セロテープの台置いたけど、動いちゃってダメ。押さえて」
一枚の布に字を書くのに二人がかりなんて、そんなペースで全部仕上がるのか。だが私は言われた通り布の端を押さえていた。隅と隅を両手で、真ん中を膝で。床に画びょうを刺すなどはできないので、確かに人が押さえるのが一番重いが、効率的かどうかというと非常に怪しい。
私はただ布を押さえているだけ。路山は鼻歌交じりに赤い染料を広げて文字にしていく。困ったことに、私も路山も前屈みに手をつく姿勢になっているので、時折前髪同士が触れる。私はそのたびに内心であわてふためき、極力距離をとろうとした。…だが、私が右に避けようが、左に避けようが、後ろに下がろうが、1秒後にはまた前髪が触れ合う位置に来る。それに気付いてさらに心の中で七転八倒しながら、さりげなく何度も避けていたが、もう絶対に路山がわざとそうしているんだと思ってあきらめた。
路山光…おかしな男だ。だいたい、どう見ても私に恋愛沙汰を仕掛けているようには見えない。断固私が勝手にドキドキしているだけで、路山自身は非常にプレーンな、なんにもない状態なのを感じる。
手で押さえていると、布が少しふやけて、指の跡がついてしまった。私は文鎮役を中断し、おなじみの軍手をはめてきた。そしてまた、前髪が触れる距離を路山が維持しながら作業は続いた。
一枚終わり、路山はできた布を干してきた。それから私に向かって「ハイ」と言って両手を軽く前に差し出して見せた。私は意味がわからなかったので「何?」と言いながら同じようにした。途端、路山の手が私の手を握った。路山は素手、私は軍手。向かい合わせで、右手で左手を、左手で右手を、ギュッと。私の時間が止まった。だがすぐに我に返り、慌てて引っ込める振りをした。でも、路山は手を離してくれなかった。
「ハイ、軍手取り替えてね~」
言われてわかった。彼は素手についた赤い染料を私の軍手で拭いてしまった。
「ちょっとー!」
私は慌てて軍手を外した。でも、ドキドキは収まらなかった。
気を取り直し、次こそ自分で一枚手掛けようと思ったが、また後ろから声がする。
「秋川~、文鎮~」
何てこと!
「えー、なんでー!」
「文鎮がないと書けない。文鎮~」
この時まで、私は路山のことを一言も呼んだことがなかった。そして、呼ぶとすればその呼び方は学校の文化に則れば当然「路山」であったろうし、同様に校内標準の二人称を使うなら「あんた」になるところだった。けれどその日、私は路山をこう呼んだ。
「路山“くん”、ちょっとタイム」
「何?」
「トイレ行ってくる」
「あ、そう」
もはや私にとって、彼は、「路山」なんてあっさり呼び捨てられる存在ではなかった。トイレに行きたいなんて嘘で、自分の中で何かが沸騰して、冷まさなければいられなかった。私は一人になり、じっと額に手を当てた。彼の温もりと髪の感触を思い出していた。路山光が悪い男でも、自分が騙されているのだとしても、どうでもよかった。ただ、美人でも可愛くもない自分自身への客観的な自覚だけが強く脳裏をめぐっていた。
翌日も横断幕づくりは続けられたのだが、さすがは路山くん(心境の変化により、もはや本文でも呼び捨てにできない)、二日目からはしっかり取り巻きを従えてやってくるようになった。おかげで、私が心配していた制作期日は何の問題もなくクリアされた。
結局、その後3日続いた横断幕づくりの間中、路山くんは毎日「秋川~、文鎮」を続けた。私は当然喜んでお言葉に従ったわけだが、路山くん目当てでやってきていると私が判断していた取り巻きの女の子たちは、誰一人それを羨むそぶりを見せなかった。この時やっと私は、路山組を「恋愛集団」と考える自分のイメージに違和感を覚えた。やがて、横断幕作りを通して少し路山組ともうち解けた私は、その中の村垣と春日井の二人がカップルだと知った。
「あの二人、1年の時からつきあってるから」
そのことは私に新たなる混乱を招いた。では、彼らは一体、どうして美化委員を手伝いにやってきているのだろう? 交際相手と一緒にいたいのなら何も、こんな面倒な染め物作業につきあって、しかも別々の布を担当したりして過ごすこともないだろう。彼らが何をしに来ているのか――それを考えると、やっぱりその中心には路山光がいた。
「勝手に来てるんだからいいんだ」と彼は言った。では、彼らを勝手に来させている動機は何なんだろう。
そして、もうすでに、私自身もその渦中にいた。あんなに「男子」という存在を特殊に感じて身構えていたのに、私はもはや彼の取り巻きの男子に対してもそれほど緊張を感じなくなっていた。同じ美化委員の班の2年、1年の男子にも自分から声をかけられるようになった。変わっていく私と、その快さを、自分自身で自覚せずにただ恋として路山光を意識していた。
翌週から募金活動が始まった。放課後、美化委員会3週目班は1階にある空き教室に集合だ。毎日、3週目班の6人全員がいる必要などないので、5日間の募金期間で月:路山、火:2年男子、水:1年生2人、木:2年生女子、金:秋川、と担当を決め、担当者以外は自由参加とした。私はしっかり5日間とも出るつもりだった。月曜だけ行ったら不自然だから、火、水、木曜も行けば「全部出ているだけ」。あと、路山くんが火、水、木も来たらラッキーだ。全部出ておいて損はない。
そして、案の定、募金本部は一週間丸々、路山組のるつぼと化した。毎日少しずつメンバーをかえて、3~5人の路山ファミリーがやってきた。
水曜日だけは、空き缶当番があるので班の6人全員が来て、1年生2人を残して缶掃除に出ることにしていた。普通に行けば缶掃除が4人になってしまうが、路山くんの取り巻きが3人も来たので問題なかった。
「誰か、もう一人ぐらい残ってもらえませんか」
1年生は勝手がわからず不安なのか、缶掃除に出ていく人が7人もいるのを見てそう言った。誰が残るかをみんなが一瞬で考えたが、まず、路山くんがあり得なかった。路山くんが残ったら、ファミリーの連中がここに残りたがるだろう。私は考えた。ここに残る役割を担って1年生に頼られるべきは、3年生のもう一人である私しかない…
正直なところは路山くんと掃除に出たかった。でも、私は心を鬼にして、
「じゃあ、私が残るよ」
と言った。あっそう、と他の全員が外に出ようとしかけた。
「ダメ、秋川さんは、コッチです」
路山くんのおどけた声が背後からして、突如私の両肩に手が掛かった。私はそのまま尻餅をつきそうになった。路山くんは、私の背中に触れるほどの至近距離に立ち、ごく自然に両肩に手を載せていた。
もはや、私は混乱のただ中にあり、何の判断力も持ち合わせなくなった。免疫のないハートに、弱点の銀の弾丸を打ち込まれるような衝撃。なぜ、彼はこんなにも当然のように女の子に触れるのだろう。いや、彼が他の女の子にこんなふうに触るのを見たことはないから、今この場は“そういうノリ”だと思ったのだろう。そのくらい、軽くてごく自然だった。
2年生二人が「じゃあ、我々のどっちかが残る?」という目配せを交わした。まずい、と思った。私が痴情に呑まれてはいけない。だって、私は正規の委員だし、一番学年が上だから。
私が口を開きかけた瞬間、落ち着いた穏やかな声が我々の間を流れた。
「いいよ、俺残るよ」
先頭を切って教室を出ていた深瀬真吾が、そう言って教室へと戻ってきた。私は慌てて遮った。
「え、そういうわけにはいかないよ、深瀬くんは委員じゃないし…」
私は彼のこともこの日まで名前を呼んだことがなかった。そして、路山光をくん付けしておいて、もっと他人である深瀬くんを「深瀬」と呼ぶのはいかにも不自然だったから、この日から深瀬も「深瀬くん」になった。
「だいじょーぶだよ、深瀬くんはしっかりしてるから」
路山くんは呑気そのものだ。でも、お金が絡むことだから、私は気にした。
「でも…」
「秋川は一緒に行こうよ」
私はもう何がどうでもいいから路山くんと一緒に外に出たかった。でも、それまでに培った鉄壁のヨロイが私のプライドを守ってくれた。私はこの期に及んで、真っ白になった頭でなお、
「でも、委員がちゃんとやらないと」
とだけは言うことができた。深瀬真吾は私の声を聞き、路山くんの顔をちらりと見て、1年生に聞いた。
「俺、月曜から見てたからみんなわかるし…それに、みんな作業が終わったらここに戻ってくるから、俺でいいよね?」
1年生は笑顔で「ハイ」と言った。4月からレギュラーで美化委員の手伝いに来ている深瀬くんのことを、1年生はすっかり覚えて、頼りに思っているようだった。
「じゃあ、決まり」
路山くんはそう言い、私の背中をもう一度押して肩を持つ手に力を込め、
「じゃ、行こー、秋川」
と言った。そして、深瀬くんに向かって、
「深瀬くん、よろしくねー」
と手を振った。
「ハーイ、行くよ」
路山くんは、そうして私の肩に片手をかけたまま、手をかけた肩と反対側に立って私をキープした。その体勢は一般的には「肩を抱く」という構造で、私のキャパシティを軽く超え、対処不能になった。
私は下駄箱が見えたところで解放された。恋愛感情もないくせにと、なんだか非常に腹が立った。路山光が最悪にタチの悪いプレイボーイに見えた。
いつからそれが定着したのか、私と路山くんはまたもペアで缶を拾う。路山くんが堂々と「秋川~」と呼ぶから成立するペア。いいのだろうか…と思いながらも、もはや、私は自分が人からどう見えようが構わなかった。ただひたすら、路山くんと一緒にいられればそれでよくなっていた。回想すると完全に篭絡されているとしか言いようがないが、路山くんに恋愛的意図がかけらも見当たらず、私はただ混乱していた。
作業を終えて教室に戻ると、深瀬くんは1年生2人と協力してお金を数えていた。
「待って、今済ませちゃうから」
散らかっていた少しの小銭を10枚ずつまとめて積み上げ、端数をきれいに横に並べてから、深瀬くんは私と路山くんに言った。
「確認ってことで、一応数えて。俺がやって間違ったってわけにいかないから」
私はつくづく「相手を間違えた」と思った。私が惚れるべきは路山光ではなく、深瀬真吾だった。知的な面差し、真面目で誠実な性格、そして責任感があって機転がきく。私が漠然と「自分の理想の男性」として思い描いていたのはまさに深瀬くんそのものだった。
私と路山くんは3人が並べたお金を数え、所定の用紙に書かれた合計金額に間違いがないことを確認して「現金袋」に入れた。そしてそれを手に皆で教室を出て鍵をかけた。この鍵と現金を職員室に持っていき、金庫に預ければその日の募金の活動は終わりだ。
帰り道は途中まで4人だった。そして1人が逸れていき、また路山くんと深瀬くんと私になった。
「深瀬くん、今日はありがとう」
私は心からの感謝と敬意をこめてお礼を言った。私は、この頃にはもうこんなに男子に対してまともな口が利けるようになっていた。
「ああ、いいよ、だって俺は手伝いに行ってるんだし」
ささやかな微笑でサッパリと答える深瀬くんは本当に素敵で、私は断固、この人がいいと思った。しかし実際には全身全霊が、深瀬くんの半歩前を歩く路山くんに引っ張られている事実はどうしても曲げられなかった。
「秋川さー」
雷のように、と私は思う。路山くんの声が私の脳天から体を突き抜けて地面に落ちていく。反射的に身動きを奪われる。こんなに、深瀬くんを素晴らしいと心で褒めちぎっているさなかにも。
「明るくなったよねー」
ニコッ、と笑う路山光。この笑顔には勝てない。どうしても。
「…そうかな…。『すごく暗い』から『普通に暗い』にはなったと思うけど」
私はそう言いつつ「それは路山くんのせいだよ」と心の中で言い返していた。
「明るくっていうか、打ち解けてくれたよね。初対面の時よりホント、笑顔が増えたし」
深瀬くんは路山くんよりまともな言葉で褒めてくれて、私はものすごく照れた。そして、自分を「幸福だ」と思った。学校の成績で人を見下すことで得ていたおかしな「幸せ」以外で、これが多分、私が人生最初に感じた「幸福」だったと思う。その幸福の湧いてくる源は、間違いなく路山光の存在だった。
そして、いつもの分かれ道で2人と別れ、私は足取りも軽く家に向かった。心の中で、何度も、路山くんと出会えたことを神様に感謝しながら。