第三部 5 新しい魔法
それから数ヶ月がたち、季節は春。
「秋川さん」
呼び止められて、私は振り返る。
「…深瀬くん」
真剣な面もちの深瀬真吾が立っている。私はニッコリと、笑顔になる。
「秋川さん、…ずっと、会えないかなって、探してたんだよ…。駅でも、電車でも」
真剣な面もちが、沈痛な面もちになる。…どうして? ああ、きっと、あのことだ…。
私はただニコニコしていた。深瀬くんは、
「時間ある?」
と言った。
「うん、あるよ。…深瀬くんと、中学校、見に行きたいな」
珍しく自分からそんなことを要求した。…そういえば、私はあまり人に要求をしないで生きてきたな、と思う。心の中ではたくさんたくさん、ほしいものがあったのに。
二人で並んで歩き、思い出の中学校へ向かった。
「成人式以来だね。あのあと、深瀬くんも路山くんも、会場に戻ってこなかったでしょ? 探してた人とか、いたよ? …せっかくの成人式だったのに」
深瀬くんはなんとなく沈んでいた。でも私はその理由がわかっていたから、ただ気を遣って明るくしていた。
「秋川さん、…光ちゃんに聞いたよ」
「何を?」
「仙台でのこと…」
「どこまで?」
「それは、…光ちゃんが、秋川さんに何をしたかを…」
「やだなあ、恥ずかしいなあ…」
かまわない。路山くんが話したいのなら話せばいい。それがたとえ下品な自慢話としてでもかまわない。実際にそんなことをする人ではないけれど、もしも彼がそうしたいのなら、それでいい。
「ゴメン秋川さん、俺、住所教えたのはそんなつもりじゃなかったし…、光ちゃんがそんなことするなんて思わなくて…」
どうして、この人は謝っているんだろう。あの記憶は多分、私の人生最高の幸福だというのに。
一生懸命彼を見上げた。目が合うと、深瀬くんの方が恥ずかしそうに目をそらした。
「どうして? 私、深瀬くんには感謝してる…、すっごく」
「なんで? …だって、光ちゃんのしたことは、女の子にとって…」
「そうかな? 合意だけどな?」
「光ちゃん、秋川さんは一言もいいって言ってない、って言ってたよ。…言わなかったんでしょ?」
「言わなくても、…まあ、わかるっていうことはきっとあるよ」
「そのあと、連絡するって言って、連絡もしなかったんでしょ? そんなのって…」
「うん、それはちょっと悩んだけど…、連絡先、なくしちゃってたっていうから」
「ダメだよ、行田に訊いたり、それか今度は逆に東京に出てきて探すぐらいのこと、しなきゃ…、男としてそんなの中途半端にするのは…」
中学校に着いてしまった。私たちは中学校に沿って歩きだした。
「深瀬くんは、真面目だね」
「秋川さん、…秋川さんは俺より真面目だったじゃない。…傷ついて、自分の心をごまかしてるんじゃないの? 平気なフリをして、…ホントは…」
「深瀬くん、仙台に行ったのは私だし、あとは私と路山くんの話だから。…私、深瀬くんには感謝しかしてないよ」
「じゃあ光ちゃんには?」
「深瀬くんは、私が路山くんを恨んでるとか、そう思ってるんだ」
「思ってる。傷ついてるだろうって、ずっと心配してた。すごく心苦しかった。俺は、光ちゃんのしたことを許せない」
ふと、…深瀬くんに疑問がわいた。彼ももう二十歳のはず。でも、これはまるで…少年の純粋さ。
「深瀬くん、今まで、彼女っていたの?」
「いないよ、なんで突然?」
「…好きになった人は?」
「いない」
どうして即答できるんだろう。でも、予想どおりだと思った。
感覚が、あまりに子どもで。体のことを迫るのは必ず男の方だと思っている。真面目な女の子は男の子に迫られてもオッケーなんかしないんだと思っている。責任は全部男にあるんだと思っている。女の子は傷ついたに決まっていると思っている。あまりにもその思考回路が子どもっぽくて、だから恋をしたことがないんじゃないかと思った。
「深瀬くん…、女の子、嫌いなの?」
深瀬くんは一生懸命考えていた。そして答えた。
「…別に自分が変な風に女の子のことを嫌いだと感じたことはないけど…。普通に、女の子は好きだよ?」
そうだろうか。そう思っていると、深瀬くんが訊き返す。
「なんでそんな話になるの?」
子どもだと正直に言ったら、きっと傷つける。だから私は言葉を選んだ。
「深瀬くんって、すごく杓子定規だなって思って。恋愛で難しい状況になったことないだろうなって。…でも、深瀬くん、もてるんじゃないの?」
角を曲がると、部活のランニングをしているらしい中学生の群れが向かってくる。私たちは道を渡った。そしてまた並んで歩き、会話を再開する。
「俺は女の子に縁がないから」
「でも、春日井さんには好かれたでしょ?」
「あれは小学校の話だよ」
わかってないな、と思う。そして…ふと、フォローしていたのは、どっちだったのかと思った。すべてを知っていた路山くん。何も知らなかった深瀬くん。表面的には深瀬くんが路山くんのフォローに回っていた。でも本当は…、もっと気を遣っていたのは路山くんの方だったのかもしれない。
深瀬くんの姿が、ふと弱いものに見えた。損な役回り。ひたすら真面目で、まるで路山くんの影のように彼を支えて…けれど、自分自身のことはちっともわかっていない。
「ふった女の子は何人?」
「なんでそんな話になるの? 秋川さん、はぐらかそうとしすぎだよ」
大真面目な顔をしている深瀬くん。でも、揺れる視線の分だけ、やっぱり何人かいるらしい。私は唇を押さえ、笑う。
「…傷ついてないの?」
私の笑顔を見て、深瀬くんが訊いた。私はゆっくりうなずいた。
「どうして?」
「路山くんが好きだから」
「だって、その相手に突然、そんなことされたら…」
「嬉しいよ。いろんな想いのかない方って、あるんだと思った。だから、今も嬉しい」
どうしても深瀬くんは私の笑顔がわからないようだった。次第に、私は新しい私に出会っていく。私は路山光になれるだろうか。この人を相手に。
私は前へ数歩出て、深瀬くんを振り返る。
「深瀬くん、路山くんとの幸せを、くれてありがとう」
深瀬くんは立ち尽くす。私はどんどん嬉しくなる。
不思議な運命の糸が見えてくる。私は路山くんとの恋を望まなかった。心から好きだったけれど、明白に恋になってしまうことは「違う」気がした。路山くんにもらったたくさんのエネルギーを、私はどう使って生きるべきなのか。根拠はない、だけど私は、今目の前にいるこの人に使えたら…と思う。
「どうしてそんな風に思えるの? …ずっと不思議だったんだ。秋川さんは、どうして光ちゃんとそんなに自然に一緒にいられるのかって。光ちゃんは別に好きな人がいて、なのにどうして秋川さんとはいつもくっついてるんだろうって。…秋川さんにはなにがあるんだろうって、ずっと不思議だったんだよ。…こんなことがあってもそんな風に笑える、秋川さんは不思議な人だよね…」
ちっとも不思議じゃないのに。不思議なのは路山光の方だ。でも、あの頃のことを不思議だと思っている深瀬くんに、私はもしかして、新しい魔法をかけてあげられるんじゃないだろうか。
少しは自分に自信がついた。今まですべてに消極的すぎた。そして私は今、思っている。深瀬くんとまた会いたいと。もっと話していたいと。
「深瀬くん、…もし私に申し訳ないとか思ってるんだったら、それに便乗して一つお願い聞いてもらっていい?」
「いいよ」
「便乗だよ、ただの」
「いいよ」
真剣な眼差しの、静かな人。素敵な人だということはずっとずっと知っていた。
「連絡先教えて。深瀬くんのこと駅とか電車とかで探すしかないの、すごく不便だから」
本当に一瞬だけ、深瀬くんは驚いた顔をした。でもすぐに静かな落ち着きを取り戻す。
「…いいけど、…」
「迷惑だった?」
ううん、私は知っている。路山くんが私の想いを知っていたように。
深瀬くんはかつて、路山くんのことを好きな私が好きだと言った。何度も、私を駅で呼び止めては話をしてくれた。路山くんのことを伝えたいと、再三お節介を焼いてくれた。
深瀬くんが、私のことを嫌いなはずはない。
「迷惑じゃないよ。俺も、今日は秋川さんにそれを訊ければって思ってたから…」
私と深瀬くんには、今まで直接の接点なんてどこにもなかった。だからいつも偶然会うのを待つしかなくて、なのに何度でも用事はあった。お互いに、用事にしなくてもいいようなことを訊きたくて…。
中学校の裏の狭い道でガードレールにもたれて、私と深瀬くんは携帯電話の番号とメールアドレスを交換した。
駅に向かって歩きながら、深瀬くんは真剣な声で言った。
「俺は、光ちゃんのかわりになれるかな…?」
どういう意味だろう。深読みしてもいいのかな。それとも、責任を感じている気持ちの延長線上なのかな。でも、どっちでもいい。
「無理だと思う」
「…あっさり言わないでよ…」
「私は、深瀬くんでいいと思うから…」
私の言葉も、どういう意味だろう。でも、深瀬くんは路山くんにはなれないし、私にとっての路山くんの地位は占められないと思う。
そうじゃなくて、そばにいられないかな。恋として。決して路山くんとは進めなかった、恋の道へと進めないかな。「なんとなく」じゃなくて、ハッキリとこの現実の中で、私は深瀬くんと歩いていきたい。
いつもの分かれ道についてしまった。でも私たちは、もうお互いの連絡先を知っている。今日、早速帰ってから電話をすることだってできる。
いつになく積極的になって私の声が弾む。
「電話、かけてもいい?」
「かけなきゃ番号、意味ないじゃない」
返事をする深瀬くんの表情に気持ちが見えた気がした。きっとこれは、かつて路山光が私の中に見ていたもの。どこまで近づいてもいいのかを教えてくれる。
まっすぐ向かい合う私と深瀬くん。どうしてだろう。連絡先を教え合ったのに、今日はとても名残惜しくて――。
「…それじゃあ、また…」
歯切れの悪い挨拶を残して、私たちは離れていく。私たちの間に路山光はもういない。彼は仙台で新しい道を、そして私たちはこの生まれ育った町で懐かしい道を生きていく。
いつもの駅、いつもの電車、そしていつもの帰り道。たくさんの思い出が息づく町。
思い出の中にはずっと、脇役として彼がいた。深瀬真吾、…路山光の影のように、ひっそりと、けれどとても優しく…。
でもきっとこれから、私にとって、彼が主役になるのだろう。
私は彼の背中を振り返り、ありがとう、そしてよろしくと、そっとつぶやいた。