第三部 4 成人の日
その他にちょっと恋愛沙汰になりそうなことはあったのだけれど、結局私は増田くんのあとにとくに彼氏と呼べる人ができないまま高校を卒業した。大学でも似たような状態で、決して恋に縁がないわけではないけれど、はっきりした恋人ができることのないまま時間が過ぎた。
路山くんからの連絡はなかった。でも、私はそれを割り切った。私たちは恋を語ったわけではない。ただその場の雰囲気で抱き合い、それぞれの生活に帰っていった。それだけの話。
私は、正直しばらく迷っていた。本当は路山くんと恋をしたかったのかもしれないと、あるいは彼も私が望めば拒まないのかもしれないと考えた。たとえば深瀬くんとまた電車で会うことができたら、こっちから路山くんの仙台の電話番号を聞いてみようかとも思った。でもいざとなったら気後れが先に立った。そして、鏡の向こうに、同じようにしている路山くんの姿が見えるような気がした。
『誰かに訊こうかな、秋川の連絡先…。でも、なんでって訊かれたら、どう答えたらいいんだろう?』
だって、きっと私たちは恋をはじめない。「じゃあね」というだけの挨拶も無責任な気がして、路山くんは「連絡するよ」と言った。でも、連絡する内容はとくにない。…なにを連絡するわけでもない。私があの行為自体には傷ついていないことを、きっと、わかっていただろう。路山くんは知っていた。私が彼を好きだったことを。あるいは私のつぶやきも聞こえていたかもしれない…。
だから、このまま私の人生に路山光が登場しないとしても、私はそれでいいことにした。むしろ、今ある私自身を作り上げてくれた特別なひとに、女としての仕上げをしてもらったと考えれば、それはそれでこの上なく幸福なことだと思った。
高校卒業で和子とも大学が分かれ、私は新しい世界で新しい友達に囲まれて過ごした。鏡の中の私は明らかに綺麗になっていた。やっぱり女の子は年頃になれば綺麗になるもので、私の場合は、そこにさらに路山光の手による魔法がかかっているように思えた。
私は常に路山くんに心の中で感謝を唱えながら生きた。唱えるそのたびに幸福を感じた。そして、たった一度の経験だったけれど、女としての幸福を知ったことが私を徹底的に満たしたように思う。ふと思い出す掌の感触にまぶたを伏せる、その瞬間、私の中から女としての自覚が匂い立つ。悩みを乗り越え、あの出来事を自分の中に取り込むことができて以来、体の隅々にやわらかい潤滑油がいきわたり、ささやかな仕草にも女としての柔らかさのようなものが加わったように思う。
なんとなく過ぎていく日々の中、決して恋愛に縁がないわけではなかった。
ただ、…私はまだ、こだわっていたのかもしれない。
路山光という、心の中の永遠の恋人に。
成人の日を前にして、文から「成人の日のつどい」に一緒に行こうと電話があった。町単位で行われる成人式は中学の同窓会状態で、やっぱりどうしても中学の仲良しグループでつるんで行くことになる。和子とは高校だけでなく中学も一緒は一緒だったが、和子も中学のとき仲のよかった面々で集まるだろう。私は文と行くことにした。
地元の公民館に、手書きの「成人の日のつどい」の文字。もっと大々的に執り行われるところもあるというのに、小規模なものだ。でも、だからこそ懐かしい人たちに確実に会える。私はずっと、この地元の成人式に出るのを楽しみにしていた。
「久しぶり」の声が飛び交う。文に剣道部の友達が声をかける。華道部の友達を見つけて一緒に写真を撮る。そこに、拡声器を使って係の人が呼びかける。
「新成人の人は、会場にお入りください」
多く見えても今日の参加者は200人に満たないのだろう。小規模だ。全員の顔をチェックできそうな気がする。
私はまわりを見回す。…いるわけなんか、ないけれど。
路山くん。…あのまま、仙台にいるんだろうか…。
あきらめて会場に入ると、ずっと前方に深瀬くんを見つけた。甘苦しい切なさがこみあげる。私を、仙台の路山くんのもとへ導いてくれた人。…中学の頃から、路山くんを想う私の味方でいてくれた人。
地味に始まる成人式。延々と続く式辞で、晴れ着の帯が苦しくなる。座っているとけっこうつらい。同じく帯を引っ張ったりしている文と顔を見合わせ、苦笑を交わしながらなんとか乗り切った。
「これから懇親会としますが、会場の模様替えをするので、新成人の方は一度会場から出てください…」
狭い公民館だから会食用の会場を別に用意できず、式用の座席のレイアウトをとっぱらって、そこに立食用のテーブルを据え付けるらしい。
「貧乏くさいよね」
「まあ、おしゃれな町でもなんでもないしね」
立ち上がると、とにかくうっ血しそうな下半身に血がめぐるのが嬉しい。心なしか草履の履き心地も悪くなってきた。鼻緒が足の指に当たって少し痛む。
我々は順序よく追い出された。群衆は拡声器の誘導で背後のドアに向かう。私と文ものろのろと歩く。晴れ着の女の子たちは揃ってスローモーだ。
かすかに、遠くで声が聞こえた。聞き違いかと思った。
私よりも、文の反応の方が速かった。
聞こえた声は多分、春日井さんだと思う。そして、その声は…、
「光ちゃん」
…そう言った。新成人が一つの出口から追い出される、その向かう先に、遅れてきたのかやや所在なさげな路山くんが立っていた。
やっぱり私よりも先に春日井さんになるんだなと、懐かしくささやかな敗北感を感じた。声の方を振り向いてみたが、同じような身長の晴れ着の群れの中に、春日井さんを見つけることはできなかった。それより先に、文が実に器用に人をよけて成人たちの群れを抜け出した。
「文」
私は慌てて後を追おうとしたが、文のようにうまく歩けない。とうとう鼻緒で足の指がすりむけたらしい。華道部だけど、着物なんか着ないしなあ…と、呑気なことを考えていた。前方に路山くんがいるという現実感もなくて…。
文が路山くんの目の前に到達するのが見えた。やっぱり、私もあそこにいかなければならないよなあと、ぼんやりそう思った。
「文」
私が文の背後にたどり着くと、文は路山くんのスーツの胸元を軽くつかんでいた。胸ぐらをつかみたかったが、人目をはばかって遠慮したという風情だった。
「…秋川」
路山くんが私を見て、つぶやくように言った。私は自然に笑顔になった。その顔を見て、彼がホッとするのがわかった。ああ、許してあげよう…。そう思い、実は自分の中にわだかまりが全くなかったわけではないと気付いた。
「キンコ、おまえなあ」
一触即発気味の文に対して、呑気にしている私。私はむしろ、路山くんを春日井さんに取られてしまうことを恐れていた。彼女は背後のどこにいるだろう。
「光ちゃん、来たの?」
次に聞こえた声は、春日井さんではなく、深瀬くんだった。私は振り向いた。深瀬くんは私に気付き(晴れ着で、髪を結っていたので、後ろ姿ではわからなかったようだ)、笑顔になった。
「秋川さん、久しぶり」
のどかな私、のどかな深瀬くん。そして、路山くんの胸ぐらをつかんでいる文。
「てめえ、ちょっと来い」
晴れ着の女の子に似つかわしくないドスをきかせて言い、文が路山くんを放した。
「キンコ、おまえも来い」
公民館の門を出て文は歩いていく。路山くんが連行される。当然、私も後を追わないわけにはいかない。でも、深瀬くんは…?
「秋川さん、どうかしたの?」
「…ううん、…深瀬くんには関係ないよ」
「でも、光ちゃん…」
「とりあえず、ついていく?」
私は深瀬くんと並んであとを追う。深瀬くんを巻き込んではいけないけれど、私は…、なんだか深瀬くんをあの場に残したら、春日井さんに押さえられてしまうような気がして嫌だった。会場に戻ったら深瀬くんと春日井さんが待っていて、そこへ路山くんを明け渡す…なんていうのは絶対に嫌だった。
角を曲がるとちょうどいい具合に空き地があり、二人はそこへ入っていった。私と深瀬くんもついていった。文が振り返り、深瀬くんを見て困った顔をした。
「…キンコ、なんで深瀬連れてくるんだよ…」
そう言って文は路山くんのところを離れ、私と深瀬くんのそばへ来た。
「キンコ、話してこい。…深瀬は、私と一緒に、ちょっと外してもらっていいか?」
私は修羅場を演じるつもりなんてないのに。文が直接対決の場を設けてしまったのだからしかたがない。私は、できるだけ「なんでもないよ」という気持ちを乗せて、本当は指の痛い足で、軽やかに路山くんに近付いていった。「いいから」という文の声が遠く背後で聞こえた。深瀬くんを連れて遠ざかったのだろう。
「…久しぶり」
私は路山くんに笑顔を見せた。できるだけ、彼を追いつめないように。
「うん、…久しぶり」
思ったよりずっと落ち着いて、路山くんが答えた。次の言葉を私はもたなかった。どうして連絡をくれなかったとか、あれからどうしていたのかとか、訊いてもしかたがない。かといって、世間話をする雰囲気ではない。
「…怒ってない?」
路山くんが先に訊いてきた。私は嬉しくなった。気にしてくれていたならば、放っておいたのとは違う。
「どうして?」
「連絡、…しなかったから」
「うん、悩んだけどね」
そのくらいは言ってもいいかなと思い、素直に答える。
「…座ろうか?」
隅に古そうな鉄のベンチが放置されていた。路山くんがハンカチを探る。
「汚れるから…」
「あ、いいよ、私もあるから。自分も、スーツ汚れるよ」
「うん」
二人でそれぞれ自分のハンカチを敷いて、一緒に座った。なんだかホッとした。
「美化委員の連絡網、とってあったような気がしてたんだけど…、引っ越しでどっかいったみたいでさ」
「…いいよ。私も、そういえば卒業したら捨てるよなって、あとで気がついた」
「捨てた覚えはないんだけどな…」
「気にしてないよ」
「…なんで?」
なんでだろう。連絡先がわからない、なんてこともあるとわかったから…。それより私たちはどうして、ああいうことに、そういう関係に、なったのだろう?
「それを言うなら、そっちこそ、あのとき…なんで、私にそうしようと思ったの?」
「怒るよ、多分」
「怒らないと思う、多分」
しばらくの沈黙は路山くんに答えを促す。彼はとうとう、私に対して礼儀正しい、適切な言葉を見つけられないまま答えた。
「多分、一番正しい表現は、『なんとなく』」
…知ってる。
路山くんは少し考えて、らしくない淡々とした声で続ける。あの頃の彼とは違うなと思う。少し大人になったのだろう。でも、居心地のよさは変わらない。
「でも、それからちょっと考えて、それとも違うかなとも思った。…応えてあげたいなって思った。…多分怒るだろうけど…」
「応える、って…何に?」
「…聞こえてたから」
私は彼の心理を理解する。路山くんは、本当に私と仙台の街を歩くつもりで部屋に上着とカバンを取りに入った。そこに私の声がする。誰もいない部屋でつぶやくセリフに秘められた長く深い私の想いを、彼は汲み取った。
「そんなこと、してほしそうだったかな…」
「…そこは、ゴメン。…女の子も、そういうの求めてると思ってた。当時は」
「そうなんだ」
いつの間にか、私の想いは告白したことになってしまった。
「怒った?」
「多分怒らないって言ったじゃない。予想当たり」
「うん…、でも、秋川、もしかして平気なフリしてるのかなって思ってるんだけど…」
「してないよ」
「なんで?」
「ホントだよ」
静かな…、不思議なくらいに静かな会話。なんだか、このまま暮れていって夜を迎えてしまうような気配。私は思った。多分、路山くんとの世界はここが終着点なんだろうと。
「傷つけたかなって…、一応思ってたんだよ」
「一応なの?」
「連絡しなかったのに、偉そうに言うのもなって思って」
「ううん。…私も、なんとなく…でいいかなって思ってる」
「行田はすごい剣幕だったよ?」
「迷ってたときに、つい話しちゃった。それから文ともずっと会ってなかったから」
「やっぱ傷ついてたんじゃない」
「そうじゃないよ。不安になったから文に話した。そしたら中学の頃のことを思い出して安心した。ああ、そうだったよなって。中学の頃から、路山くんの、なんとなく、っていうのすごく居心地よかった。それだけ」
「うん」
なぜ路山くんは「うん」という相づちを打つんだろう。なぜ私はその相づちが一番的確だと思うのだろう。
「ねえ路山くん、変なこと聞いてもいい?」
私は訊いた。多分、路山くんは今日、私と話すためにここへ来たんだと思った。もちろん、懐かしいいろんな人に会うためというのもあるだろう。でも、もしも私とのことがあのままになっていなかったら、果たして今日ここへ来たかわからない。だって、路山くんは今日、仙台から来ているのだ。深瀬くんは驚いた声で「来たの?」と言っていた。だからきっと、今も東京に住んでいないのだろう。
少し大人になって、少し他人じゃなくなって、いろんなことが話せる二人のバランスは多分今日だけだと思う。そして多分、これが路山くんと過ごす最後の時間だと思った。仙台に帰ったあと、路山くんはもう上京しない…なんだかそんな気がする。だからたくさん話しておきたい。
「え、なに?」
平静を装っているけど、路山くんは何を訊かれるのかと緊張している。可笑しい。
「春日井さんの、どこが好きだったの?」
「ゲ、そんなコト知ってるの?」
「…そっちも知ってるんだから、いいじゃない」
なんて言いながら、私は照れる。路山くんは、その部分には見て見ぬフリをして、困ったような声で話をしてくれる。
「春日井っていろいろ誤解されやすいけど、…ホントは、いい奴なんだよ」
かもしれない、と思った記憶はちゃんと残っているけれど、路山くんがそんな風に言うのはやっぱり悔しい。
「彼女、村垣くんとつきあってるのに、路山くんはそこに横入りしようとしたわけでしょ、…路山くんのキャラには合わないな」
「ううん、…俺は、助けてあげたかったんだよ、春日井のこと」
「…助けて?」
「言っていいのかわかんないけど、…春日井は、村垣とつきあってることにはなってたけど、好きな人って別にいたから…」
あっ、と思う。深瀬くんだ。『春日井に告白されてたんだよね』と彼が言っていたのを思い出す。私がそんなことを知っているとは思わなかったのだろう、名前を伏せたまま路山くんは先を語る。
「春日井は『他に好きな人がいる』って言って、村垣は『それでもいい』って言って、じゃあ友達からって。小学校の時の話らしいけど…ススンでるよね。あの二人は、そういう関係だったんだって。そして、中学でもずっと村垣は春日井が好きで、春日井は他の男が好きで、そんな状態がひたすら続いてて…」
美化委員に来ていた深瀬くん、春日井さん、村垣くん。文が言っていた。村垣くんは春日井さんが心配なのだと。…それは、春日井さんがずっと深瀬くんを好きだったから…?
「だから俺、全部やめちゃえばいいのにって思ってたんだよね。好きな奴も忘れて、村垣もやめて、やり直せばいいじゃんって…そう言ったの。まあそれで、よかったら俺でどうって…そういう話」
「ふーん…」
「昔の話だけど」
路山くんは、知っていたんだ。春日井さんが深瀬くんを好きだったこと。そのうえで村垣くんと『つきあって』いたこと。…深瀬くんはそれを知らないし、春日井さんのことを良く思っていない。春日井さんが、とても悲しい。そして中学の頃の私が見える。私のことしか見えていない、とても自分勝手な私が。
『そうかな、俺はこの方が好きだけど』
深瀬くんが私のクッキーをフォローしたあと、笑顔で「比べたら失礼だよ」と言っていた春日井さんは、私の何倍も傷ついていたかもしれない。そして、春日井さんのための発言が深瀬くんのそんな言葉を誘発してしまった路山くんは、春日井さんにすまない思いを抱いていただろう。
みんな、人のことを考えていた。私だけが自分のことを考えていた。
でも、路山くんはそんな私にいつも優しかった。やっぱり、私の神様で…いいんだと思う。私の世界を開いていく人。いつでも私を、昔よりもいい私にしてくれる人。
話しておきたいことをすべて話さなきゃ。私は一生懸命、路山くんとの思い出に忘れ物がないか確かめていた。
「あと、すごく高飛車な話、してもいい?」
「え、いーよ?」
「私、深瀬くんに、光ちゃんは私が告白するの待ってたんだよ~って言われた」
幾分唐突に深瀬くんの名前が出た。路山くんの視線が一瞬不自然な気配を乗せて私に向けられる。路山くんの話の「春日井さんの好きな人」が本当は誰なのか、実は私が知っていたと気付いたのだろう。
「春日井さんのこと好きだったのに、私の告白を待ってたってどういうことだろう…って思って。それって、深瀬くんの妄想?」
「え、いや?」
即答が返る。嬉しい…。
「早く春日井のことケリつけて、フリーになっておこう…なんてことは考えたなー」
「え? …なんで?」
「もし秋川が恋愛になりたいんだったら、考えてみようかなって思ってた。…でも、結局おまえって、走り去っちゃったじゃない? …正直、落ち込んだ。俺って勝手にカンチガイしてたのかなって思った」
霧が晴れるように、あの頃の世界が見えてくる。
村垣くんは、春日井さんとつき合っていることにはなっていたけど、片想いで。春日井さんは深瀬くんが好きで。路山くんは春日井さんの事情を知っていて、それが恋になって。私は路山くんが好きで、路山くん自身もそれを知っていて。路山くんは、私のことを嫌いじゃなくて、そして、もしも私が一生懸命恋をぶつけていたら、検討してみる気はあったのだ。
本当はたくさんの恋を抱えていたあの美化委員会の時間。文が「色気づいてつるんでいる」と言っていたのは正しかった。…でも思う。それだけじゃなくて、恋でも、恋じゃなくても、なんだか路山光のもとに集うのが、みんなで楽しかった。
「だって、春日井さんに告白したって聞いてたし…」
私は言い訳っぽくごにょごにょと言う。自分の行為が路山くんをガッカリさせていたことがとても悲しい。
「ウン、…また怒らせちゃうけどね、…」
「まだ一回も怒ってないよ」
「おまえのことは、来たら考えよー、って思ってた」
「来なかったら?」
「…来なかったじゃん」
黙って去る、か。仙台へ…。
「なんかね、おまえのことは、なんとなく…っていう、それだけでもいいような気がして。なんか楽しかったなーって。つきあうとか、そーいう、難しいこと考えたくなくて」
あるいは両想いだったと、はじめてこの時気がついた。
お互いに「なんとなく」で満足だった。なんとなくそばにいて、なんとなく楽しくて、ただそれが幸せで。難しい男女関係、恋愛関係を超越してそばにいることが気持ちいい、そんな関係…。
恋になってみたらどうだったろう。でも、男女交際という関係は、果たして私たちを幸せにしただろうか?
可能性はあったのだと…、そう思うことが私を満たしていく。可能性が現実になって悲しい終わりを迎えなかったことも愛おしい。
「だったら私のこと、仙台に行っても思い出した?」
「おまえが期待してるほど多くないよ」
「そんなに期待してないよ」
「…秋川も、俺がもう東京にいないことを知る日がくるのかなあ…っていう風には思った。それと、ホントは俺のこと、何とも思ってなかったのかなって時々考えたりもしたよ」
私と路山くんはきっと、恋になれない縁なのだろう。路山くんは路山くんで、仙台の地で一人、私のことをあきらめていた。そしてある日、その相手が仙台に現れる。…彼にとってもきっと私の出現は幸せな出来事だったのだろうと…そんな図々しいことを考える。
きっとこれからもこのまま、いつどんな状況で再会しても、こうしていられるね。
それで満足したい。永遠に好きでいたいから。
私と路山くんは、立ち上がり、ゆっくり歩いて空き地を出た。黙って壁にもたれていた文と深瀬くんが体を起こす。なんだか妙にしっとりしてしまった私たちに、気まずそうな二人が視線を送る。
「話はついたのか?」
文の不審げな視線に和子を思い出す。ふと、私の友人はみんな似たタイプなのではないかという気になる。ボケッとしている私を守ってくれる、正義の味方。…私の恋の相手まで倒そうとするのが難点の、優しき正義の味方。
私は返答に困る。話なんて…。片をつけるような話にはなりようがない。
「あ、うん、もういいんだ…」
私が答え、路山くんが少しきまり悪そうにする。文は路山くんをじろっとにらみ、
「じゃあ、戻ろう、キンコ」
と私を連れて歩きはじめた。
「光ちゃん、なにがあったの?」
背後で深瀬くんの声がする。路山くんは話すのだろうか。私のことを…そしてあるいは、春日井さんの、深瀬くんへの気持ちを…。
会場に戻る。サンドイッチなどの軽食が置いてあり、新成人がランダムに群れを作って食べている。私と文は、その片隅に陣取る。
「…で?」
「どうもしないよ」
「いいのか?」
「うん…、満足した、っていうか」
「? …わかんねーな、アンタらは」
多分、わからないだろう。
私はもう一目くらい路山くんの顔が見たくて、会場を見回しながら文としゃべっていた。でも、路山くんと深瀬くんがこの会場に入ってくる気配はなかった。
路山くんとの幸福は、きっと永遠に私の中で続いていく。
きっと、もう会うことはないだろう。あるいは会ってもその日その場で「またね」と笑顔を交わして終わってしまうだろう。成人の日、会話をちっともしめくくらなかった。会話が途切れて、なんとなく二人で立ち上がって、ハンカチを仕舞って、文と深瀬くんのところに戻って…そのまま。それが私と路山くんの最後の場面。
でも、終わらないから――。
私の一生がこれから花を咲かせるのだとしたら、そのためのエネルギーはすべてもう私の中にある。不思議な力が体をめぐっているような気がする。私を創り、育て、支えてきた人にすべてを与えることができた奇跡。私は愛する幸せを知っている。そして、愛がかなう幸せを知っている。
私の生涯は、将来もきっと、路山光とともにある。たとえもう会えなくても、私のすべてが彼によって成長したのだから…。