第三部 3 とてもいい人
この後、すぐさま嫌がらせは止んでしまった。二日と空いたことはなかったのに、それからはなにもない日々が続いた。増田くんが犯人を突き止め、その子を責めたのだろうか。おそらく彼周辺の女の子に鍵があったのだろうから。
私は、1週間嫌がらせがなかったのを確かめて、増田くんに電話をかけた。そして会う約束をした。
その日を迎え、お昼前から待ち合わせて出掛ける。春たけなわの美しい日和が、なんだかいっそう悲しい気分にさせる。大きな池のある公園を歩き、ボートに乗る。増田くんの口数が少ない。
「増田くん、1週間、嫌がらせがないんだ…。もう、ないのかなと思うんだけど…?」
「よかったじゃん」
増田くんは、なにか知っているのだろうか…。でもきっと、どこの誰が嫌がらせをしたなんて、私に告げ口をする人ではないと思う。だから、訊かない。
「それでね、変な事件があってややこしくなっちゃったんだけど、…前に、別れたいって言ったよね。あれ、…ホントにそう思ってるの…」
つらい。心の中で何度も「路山くん」と唱える。仙台で私を抱きしめてくれた腕を思い出す。でも同時に、泣いている私を抱きしめてくれた増田くんの腕も思い出す。
「…なんで?」
「私、つき合い始める前に言ったよね、好きな人がいるって」
増田くんの返事はなかった。私はゆっくりと先を進める。
「もう会えないと思ってたんだけど、…その人の居場所がわかったの。私、もうその人とは生涯縁がないんじゃないかと思って、忘れようと思ってたの。…でも、もしかしたら会えるかもしれない、っていう状況になったらね、…私、やっぱりその人のこと忘れられないんだなって…」
黙って増田くんがボートをこぐ。水の音が響き渡る。やっぱり怒るよね、と思った。今さら、昔好きだった人…なんて。
「どういう人?」
ぽつりと一言だけ、質問がくる。
「増田くん、私のこと、綺麗になったって言ってくれたでしょ…。私、高校1年のときよりもっとずっと、中学時代は暗くて怪しい、変な子だったのね。自分のこと優等生だと思ってて、すっごいプライド高くて、男の子が苦手で、目つきが悪くて、カンチガイで、自分勝手な子だったの。でも、中学3年のときに入った委員会で、…私のこと、すっごく変えてくれた人がいたの。誰にでも分け隔てなく優しくて、私にくだらないチョッカイかけて笑わせてくれて、人の顔見て話した方がいいよなんて言ってくれて、…私、その人がいなかったら、もっともっと暗くてどうしようもない女の子だったと思う」
増田くんの言葉はない。私は、間を嫌って、続ける。
「でも、その人には他に好きな人がいたし…。私もすごく不細工で暗い子で、絶対可能性がないと思ってたし…。だから、何も言わずに卒業したの。…それだけなんだけど、でも、…私の存在そのものを支える人なんだ。特別な人なの」
「俺もその人には感謝するよ。今の琴子を作ってくれたんだったら。でも、それは昔の話じゃない」
言えない事実が胸を刺す。ゴメン増田くん、私ね…。
「私が嫌なの。増田くんがとてもいい人で、私のことすごく大切にしてくれて、本当に勿体ない相手だから…。他に好きな人がいるのにつき合ってるなんて、私は嫌なの。…私、これでも真面目なんだよ。増田くんのことも真剣に考えてるし、だから中途半端なことは嫌だし、自分の気持ちを偽ってたらいつか結局はダメになっちゃうと思うし…」
水音が静寂の中に響く。私には、これ以上説明が浮かばない。…わかってほしい。
「いい人って、実際言われるのすごく嫌な言葉だね」
「え?」
増田くんは伏し目がちに笑った。
「琴子が俺のこと好きって言ってくれるの、ずっと待ってたんだ」
…わかる。私も増田くんの言葉を待ったから。そして、増田くんは言ってくれたが、私は言えなかった。好きな人はどうしても路山くんだったから…。
「でも、琴子にとって、『とてもいい人』…だったんだね、俺。好きな人じゃなくて」
胸が苦しくなる。…ゴメン。多分、そうなんだと思う。
うつむいていたら、増田くんの明るい声が響いた。
「…今日一日は、一緒にいてもらっていいかな?」
その言葉に、私は大泣きした。ボートの中で果てしなく泣いた。増田くんは私が泣きやむのをただ黙って待ってくれた。そしてボートを乗り場につけ、公園をゆっくり歩いた。
夕方、「最後に…」と言って、増田くんは私を抱きしめた。
「…琴子のファーストキスだけ、くれないかな?」
胸が痛んだ。ゴメン、…それも、仙台で…。
私は答えられなかったけれど、増田くんが上手にリードしてくれた。嫌ではなかった。
「ありがとう、楽しかった」
唇が離れ、そう言われた瞬間、私はまた大泣きしてしまった。増田くんは私の肩を抱いて、また泣き止むのを待ってくれた。
「…性格悪いかもしれないけど、…琴子が泣いてくれたのは、嬉しい」
増田くんは優しすぎる微笑みを見せる。私はなんとか、かなりひどい状態になったハンカチを仕舞うことができた。そして並んで歩き、駅へ向かう。増田くんはとても普通にたくさんしゃべってくれた。本当に優しい人だと思った。
別れ際、増田くんは優しくポンポンと私の肩をたたき、笑顔で言った。
「…じゃあね、秋川さん」
そうして彼は駅のホームに下りていった。
嫌がらせは確かにもうなかったけれど…。
数日後、私は、知らない女の子に呼び出された。私を従えて歩いていた彼女は、中庭で突如振り向くと、ものすごく棘のある声で、
「増田くんと別れたんだよね」
と言った。私は縮み上がった。
「増田くん、あんたのこと、ホントに好きだったから」
…やっぱり、嫌がらせの犯人?
「私、増田くんと仲いいから、知っててほしくて。…増田くん、あんたと別れて、…泣いてたよ。彼が強い人だと思われるのくやしいから。傷つけたってこと、わかってほしいだけ。平気だとか思わないで」
それだけ言うと、その子は立ち去った。
なんだか現実感のない事件ばかりがたくさん起こる。自分自身が出来事についていけない。その中で唯一ハッキリしているのは、もう私のそばには増田くんがいないということだけ…。
それから3か月後、増田くんとその彼女はつき合い始めた。増田くんがわざわざ断りを入れにきてくれた。
「秋川さん、…なんか3か月で他に女作ったとか、思われたくないけど…、俺、コイツとつき合うことになったから…」
隣には、彼女が立っていた。彼女は頭を下げた。
「秋川さん、へんなイチャモンつけてすみませんでした」
ははあ、と私は思った。ずっと、この彼女は増田くんのことを好きだったのだろう。私が彼とつき合っているときも。もちろん嫌がらせの犯人もこの人ではない。この人は純粋に増田くんを好きだっただけの人。増田くんが選ぶ人だから間違いない。
私は二人を祝福することができた。お似合いだよと笑顔で言い、じゃあねと手を振って二人に背を向けた。
涙が頬を伝った。私はそのとき、どうにもならない孤独の中にいた。増田くんに未練があるわけではない。別れたことはカケラも後悔していない。
…路山くんからの連絡が来ない。
仙台へ行った日から4か月近くが経過しようとしていた。恋人になりたいとか、そんなことを思っていたわけじゃない。だけど…。
体目当てだったんだろうか。
はじめからそういうつもりで部屋に連れ込んだんだろうか。
だから、もう用は済んだんだろうか。
私は幻を見ていたんだろうか。幸せすぎる妄想にとらわれていたんだろうか。
幸福が、どんどん不安というシミに覆われていく。…愛してくれると思ったわけじゃない。関係したのだからつきあってもらえると思ったわけでもない。でも、「連絡するよ」と言って何一つ連絡をしてくれないことが、“使い捨て”にされたようにも思えて…。
教室で嫌がらせに怯えていたときより、心が壊れそうに弱っている。なんでもないことに涙が出てしまう。どういうことなんだろう。確かめる術はない。家の場所は知っているけれど、もう一度仙台に行く勇気がもてない。中学の時の路山くんのことは…ある程度わかっているつもり。でも高校時代の路山くんは、もしかしたら…友達との競争のために女の子に手を出す人に変わっている、なんてこともあるのかもしれない。
私の心はすっかり弱っていた。でも、クラスで仲良くしている子にも、和子にも、相談することはできなかった。男の子とそういう関係になったなんて恥ずかしくて言えない。それに、男の家にのこのこ上がり込んでなし崩し的にそうなってしまったなんて、通用するわけがない。会議まで執り行われたこの問題。まさに最悪の結末を迎えたと、友人一同は呆れるだろう。それから和子は怒り狂うだろう。…何があっても、路山くんを悪く言われたくはない。
学校で平静を装っている分、どんどん心が病んでいく。自分の部屋で、気付くと泣いている。携帯電話を握りしめて夜中の3時過ぎまでぼうっとしていることがある。「元気?」と、それだけでいい。連絡ならなんでもいい。誠意なんて言うと高圧的なようだけれど、何かしらの気持ちがほしい。恋愛じゃなくていい。やっぱり誠意という言葉しか出てこない。
誰かに助けてほしかった。誰かに話せたらと思い、真っ先に深瀬くんが浮かんだ。深瀬くんは路山くんに怒ってくれるんじゃないか…。そんなつもりで私に住所を教えたんじゃないのにと。でも、深瀬くんの電話番号も知らない。元々、冷静に考えれば自分が抱かれた話を男の子にできるはずなんかないんだけれど。
だったら、文だ。
もう1年くらい連絡していない。文は元気だろうか。和子には話せないが、文になら話せるような気がする。…そうだ、文だ。
私は文に電話をかけた。
いつどこで親が聞き耳を立てているかわからない自分の家で、電話とはいえそんな話ができるはずもなく……。私は、駅で文を待っていた。
「よー、ひさしぶりー!」
相変わらずの男勝りで、文は私の前に現れた。…懐かしい。
「かわんないね」
「アンタもね」
そんな会話を不思議だと思う。私は…たくさんの出来事があって、多分文の知っている私とはかけ離れた私になっている。だから文も、本当はとても変わったのかもしれない。でも私たちは、見た目だけで「かわらない」と勝手に言い合う。
話だけのために会うと重くなってしまうので、一応、植物園に一緒に遊びに行った。
「キンコは、花好きだからいいけどなー。私には、色と大きさくらいしか区別つかないよ」
「まあ、生きてくうえでは、野菜の名前がわかれば問題ないからね」
私も植物園はあまり来ない場所だ。生け花をやっていることと、植物全般に詳しいのとは別。
あまり仰々しくならないようにして、そろそろと私は話し始めた。
「文って、路山くんが仙台に行ったの、知ってた?」
文は、「えっ」というように顔を上げ、
「そうなの?」
と言った。
「文も知らなかったんだ」
「知ってたら、アンタに言ってるよ。なに、最近知ったの?」
「…うん、少し前。電車で偶然深瀬くんに会って、聞いた…」
しばらく沈黙が流れた。
「光ちゃん、アンタに、言わなかったんだ」
「そんなに親しかったわけじゃないしね…」
「親しそうに見えたけどね」
「でも、実際は、ホントに委員会だけだったから…」
そう、こうなった今も、そんな気がしている。
「ふうん。アンタは、高校で彼氏とかできたの?」
文が訊く。気後れする質問だ。でも、嘘をついてもしょうがない。
「できたけど、別れた」
「あ、そう…早いね」
やっぱり文にも言うべきではないような気がして、私はつい黙る。暗い気分に支配されていると、文がそれに気付いてしまう。
「なんかあったのか?」
話すために呼び出しておいて、「やっぱりやめた」もないよなと思う。でも、文はあの頃の私と路山くんを見ているから、あの頃のままの記憶をとどめておいてほしいような気もする。
「文、路山くんて、私のこと、どういう存在だと思ってたんだろう」
文の中の私と彼はどういう姿なんだろう。それが元々美しくないのなら気軽に話せる。だからもう一言つけ加える。
「…正直に言ってくれていいよ」
文は首をかしげるようにして答えた。
「そのさ、『正直に』って言われるほど、難しく考えてないよ。光ちゃんは、ああいう人だからな。どんな女にも…まあ男にもだけどね、別に普通に優しかったし、誰とも仲良かったし…キンコのことも好きなんだな、と思ってただけで」
その「好き」は、深瀬くんの言っていたのと同じなんだろうか…。
でも、文ならきっと、感情的にならずに聞いてくれるだろう。和子の顔が浮かぶ。…とてもいい友達だけど、和子には絶対に話せない。
「この前ね、…仙台、行ってきた」
「なに、光ちゃんに会いに?」
「うん」
「会えたのか?」
「…うん。駅のまわりウロウロして、何時間も歩き回ってたら、さすがにね、会えた」
「よかったな」
懐かしい、文の声。…中学の頃に戻りたい。人はどうして大人になるんだろう。どうして一番幸せな時代で止まってはいられないんだろう。
「路山くん、家に上げてくれたよ」
「へー、行ったかいがあったじゃん」
その先が言えない。なんて説明したらいいんだろう。…なんとなく。そこから夢の先にごく自然な形で倒れ込んだだけだ。路山くんが悪いわけじゃない。でも、私が望んだわけでもない。あの微妙な空気、その中を音もたてずに伝わる気配、それを説明できない。
でもきっと、和子よりは理解してくれるだろう。私に触れる彼を見ている分だけ。
私が迷いに身を任せていると、文が訊いてきた。
「もしかして、光ちゃんとつきあうことになったの?」
そうだったらどんなに気が楽か。でも事実はそうではないし、私は元々、そんなことを望んではいなかった。――いや、本当にそうなんだろうか。自分への自信のなさがブレーキになっていただけで、本当は、私だけの彼であってほしかったんじゃないだろうか。
でも、路山光との恋愛は、どこまでもピンと来ない夢物語に感じる。
「文、…路山くんの身になにかあったとか、そういうことってないよね」
遠回りな話になる。でも、単刀直入に話す勇気がない。
「なにかって?」
「…死んじゃった、とかさ」
「は? …こないだ会ったんだろ? 幽霊だったとでも言うのか? …さすがに、中学の部活の奴が死んだら、剣道部の連絡がくるだろ。そういう連絡はとりあえず来てないよ」
多分、今私は、悲しい顔をしている。もちろん路山くんには生きていてほしいけれど、それほどに、放っておかれている現状が悲しい。
「どうしたんだ? キンコ」
静かに勇気を溜めて、文に答える。
「…路山くんと、そーいう関係になったの」
絶望的な響き。今、その事件が起こったみたい。誰にも言わなければ、夢の世界の出来事だったのかもしれないのに。
「そーいう?」
「…そーいう」
文はしばらく首をかしげる。そして聞き返す。
「変な意味にしかとれないけど?」
「うん、一般的な意味」
この日一番長い沈黙が訪れる。私にはもう、口を開くエネルギーがない。やっと、文が会話を再開する。
「それで、死んだのかとかなんとか言ってるってことは、…逃げたの? あいつ」
ぐさりと耳に刺さる言葉。…多分、その言葉で表現するのが正しいんだろう。
「連絡くれるって、言ったきり…」
「アンタの連絡先、あいつ知ってるの?」
「…ああ、そうか…」
馬鹿みたいな話だが、私はこのとき、彼が私の連絡先を知りようがないことに、はじめて思い至った。彼は私の電話番号を知っていると思っていた。それは、私が大切に大切に、美化委員会の連絡網を持っているから。でも、美化委員会の連絡網なんて、普通は卒業とともに捨てるだろう。じゃあ誰に私の連絡先を訊くというのだろう? 他に連絡先の載っているものは何もなくて、訊けるとしたら文だけで、しかも、文に「なぜ」と言われた時のことを考えると…。
「…そっか、知らないのか、私の連絡先…」
簡単なことだった。無責任な冷たい別れをしたくなくて「連絡する」と言った、優しい気持ちは嘘ではないのだろう。だが、恋になるわけじゃない。連絡をとったところで、言うことはせいぜい「元気?」…そんなものだろう。
文といて、中学時代の私に戻ると、理屈のない路山くんとの空気のつながりが蘇る。彼は優しい人だし、その一方で、連絡先を必死で調べて私にどうにかして連絡を取る人でもない。遠慮は要らないと、不思議な図々しさを投げてくれていたあの関係が生きていたのならば、すべてに理由は要らない。自己満足かもしれないが、その「要らない」ことに私たちのつながりを感じていたいから。
連絡をもらって…どうするんだろう。責任を問うのか。今後の交際を迫るのか。…私はどちらもしない。だから…。
「…いいや、文」
「え?」
私は、自分でも不思議なほど穏やかな笑みを浮かべた。
「もう連絡は要らない。…思い出をもらった、そう思うことにする」
「おい、キンコ、おまえそれじゃ…、…」
文もそのあとの言葉が見つからないようだった。文は中学の頃の私たちを見ている。きっと彼の腕の中にいる私は幸せそうだっただろう。仙台でのことも決して私の不幸ではないと、文も感じたのだろう。
「大丈夫、子どもとか、できたわけじゃないし」
「そんなんだったら、草の根分けても探し出して責任とらせるよ!」
「そりゃそーだね」
文はそれ以上、私のことも彼のことも咎めなかった。
和子は和子でとてもいい友達だけれど、中学の頃は、文がそばにいてくれて本当によかったなと思った。