第三部 1 奇跡の再会
どっちにしても、私は路山光を少しも抜け出せない。それが今後の私の幸福に寄与するとは思えない。増田くんへの恋がどうなろうと、やっぱり私は仙台に行こう。
仙台市、若林区、新寺一丁目。路山くんに会えるかもしれない。…会ってもしょうがないけれど。なにも得るものがないとして…ないからこそ、仙台には行こう。
私は子どもの頃から貯める一方だった郵便貯金をはじめておろした。駅の「みどりの窓口」に行き、新幹線の切符を買った。こんなささやかなことのすべてが生まれて初めてで、私は自分の視野の狭さ、行動圏の狭さを知った。私はまた、路山光によって世界を開かれていくのだな…と思った。
その週末、私は、予定どおりの新幹線で仙台へ向かった。車窓からの景色が変わっていくにつれ、私の中で現実感がどんどん薄れていく。どこか、果てしなく遠い幻の国へ向かうような気がする。そしてそこに路山くんがいるなら、そこは私の桃源郷なのかもしれない…そんなことを考え、自分が可笑しくなってふふっと笑った。
思ったより早く仙台駅にたどり着いた。駅を降りて驚いた。広々とした歩道橋、大きな駅前の空間が、東京と違っていた。東京の駅はどこもゴミゴミしていて、こんなに豊かな空間をとってはいない。…少なくとも、私の知っている限りは。狭い世界だけど…。
駅前の地図で「新寺」の地名を探したらすぐに見つかった。途端、戸惑いが駆けめぐる。この街での路山くんをなにも知らない。探してなんになるんだろう。
急に意気消沈して、私は歩道橋にもたれて遠くを眺めた。実際にこうして仙台に来てみるとどうしたらいいかがわからなくなる。路山くんが私を忘れていたら。あるいは迷惑そうな顔をされたら。東京から仙台まで探しに来る…、そんなの、ストーカーだ。
とりあえずは駅前散策をすることにした。せっかく来た以上、観光とか、珍しいものを食べるとか、そのくらいはしなければ。増田くんにおみやげを買おうかと思い、踏みとどまる。一体、なぜ仙台に行ったのか…そんな話はできない。
駅前商店街は、むしろ東京のゴチャゴチャな道よりずっと整備されていた。仙台も京都のように「碁盤の目」の街並みなのだろうか。もしかしたら路山くんはこの商店街を毎日通っているかもしれない。ここは路山光のいる世界。…そして私のいない世界。
すれ違う人にいちいちドキドキする。路山くんがいるかもしれない。なんだか、そうして味わう緊張が心地よい。会ってしまったらどうしよう。
『秋川さんのこと、好きだったよ』
ありがとう、深瀬くん。その言葉が今の私を支えている。なにかにとりつかれたかのように、ただひたすら仙台の街を歩く。表通りを歩き尽くして、少し裏通りに入ると、古ぼけた個人商店がぽつんと開いていた。駄菓子屋だった。私は笑顔になる。麩菓子、やっぱり自分では食べようと思わない。でも。
「すみません、これください」
十本入りの麩菓子を買う。ただの感傷。でも、あの頃の思い出のアイテムが、もしかしたら時を戻してくれる…そんな気がして。
安っぽいビニールの袋に麩菓子をぶらさげて裏通りを歩く。もう一度仙台駅の大きな歩道橋にのぼる。ぐるりと周りを見回す。だだっ広くて、人が多くて…そう、人が多くて。
私の前を通り過ぎていく男の子の二人連れ、…その片方に目を奪われる。
勇気がなかった。人違いだったら、あるいは私をわかってもらえなかったら。でも、とにかく後を追った。もう一度顔を見るチャンスがほしくてついていく。
路山くん。…見間違い?
改札のそばで彼ら二人は別れた。私は、通行人にまぎれてそっと彼らのすぐそばを通った。
「じゃあね~、また」
体中の力が抜けた。間違いない、懐かしすぎる声。
私は通行人の流れの中で路山くんを追い越した。流れをよけて、道路の死角に立ち止まる。歩いてくる路山くんと私の間に障害物がなくなったとき、足はためらうことなく前に出た。驚いた路山くんが私を見つけ、しばらく見つめ合う。麩菓子が頼もしく感じられた。
「…秋川?」
いぶかしげに、幻を声で確かめるように、路山くんの声。ああ、覚えていてくれた。
路山くんは、人の流れの中で立ち止まれず、押し出されるように私の前に立った。
「どーしたの?」
懐かしい声に、気が遠くなりそう…。私は夢見心地で返事をした。
「なんとなく思い立って、来てみたの…」
手にした麩菓子を差し出す。
「…食べる? …つい、買っちゃった…懐かしくて」
仙台で? 嫌いなはずの麩菓子を? 十本入りの、大きな包みを? 私の行動はすべて不自然。でも、隠そうとか、取り繕おうとか、そういう気が起こらない。どう思われてもいい。路山くんは私の気持ちに気付いていた。当時から…。
「秋川、…誰かと一緒?」
麩菓子を受け取りながら、路山くんが訊く。
「ううん」
「すぐ帰るの?」
「ううん」
少し、考えるような間。
「ヒマなの?」
普通なら、そんなわけないじゃない。東京を遠く離れたこんな街で。
「…路山くんがヒマだったら、お茶でも飲んでくれる?」
路山くんのかすかな戸惑いを感じ取った私は、自分から誘いの言葉を口にした。私たちは、こうしてなにもないところで、プライベートとして顔を合わせるやり方がわからない。私の誘いに、路山くんのホッとした気配が見える。
「お茶飲みに来る?」
「うん」
並んで歩きだす。私は半歩後ろをついていく。彼は麩菓子をぶら下げて歩く。私は、どこかの喫茶店かどこかに行くものだとばかり思っていた。
「ビックリしたよ~。なんで仙台に秋川がいるんだよ~」
「すごい偶然だよね」
私はくすくす笑う。私、少しは綺麗になったよね、あの中学時代から…。深瀬くんのお墨付きだよ。
「秋川、麩菓子、食べる?」
「歩き食いは行儀が悪いよ?」
「帰りに、一緒にやったじゃん」
「だって、少し大人になったもん。それにここ、あの道よりずっと人通りが多いし」
すべて、覚えていてくれるんだ。一緒に麩菓子を食べながら帰った道のことも。
変わらない…。なによりもそのことが嬉しかった。
「秋川、ちょっと感じ変わったね」
「え、どういう風に?」
「すごく明るくなった、…それとも、元気になった、かな。昔は、なんか沈んでるようなとこあったけど」
「当時は、私、変な子だったから。暗かったし、カンチガイだったし」
「そう? オモシロかったよ。でも、今の秋川もオモシロそう」
「ありがと」
くすくす笑いが止まらない。もう、嬉しくて。どうしようもなく嬉しくて。
見つけた、…仙台で、見つけちゃった。路山くんを。
しばらく歩いて路山くんは立ち止まり、目の前の大きな建物を指して言った。
「ここ、今住んでるとこ」
深瀬くんに教わった、「新寺一丁目」の一角にあるマンション。私はぼけっとその建物を見上げていた。
「お茶にしようよ、麩菓子もあるし」
路山くんと私は、建物の中に入っていった。
夢のようだった。
路山くんと二人でいる…、こんな奇跡が私の身に起こり得るなんて。溶けるような幸せ。お湯の沸く音、止めに立つ路山くんの動く気配、なにもかもが嬉しい。
「ふつうのお茶でいい?」
「えー、おかまいなくー。そんなつもりじゃなかったんだけどなー」
「お茶くらい、普段いれてるから大丈夫だよ」
「だったら、麩菓子よりもっといいもの買ってきたのにー」
「いーよ、懐かしいじゃない?」
ああ、もう、その口調が、声が、なにもかもが嬉しい。
マンションは広い。3LDKはありそうだ。でも、どことなく殺風景。片付いているというわけではなく、空いた空間が妙に多い。
「路山くん、ご家族で引っ越してきたの?」
「え、まだ、オヤジと俺だけだよ。姉貴が今年東京で大学入って一人暮らしはじめたから、それに慣れるまでは…って、母さんが前の家に残ってる」
空間の謎がとける。近く、お母さんがこっちに引っ越してくるんだ。
可笑しい。お父さんは「オヤジ」で、お母さんは「母さん」、お姉さんは「姉貴」なんだ。そういえば、家族の話なんて聞いたのは初めてだ。
「はい、お茶」
「ありがとう」
二人でぼうっとお茶をすする。会話はないけど、全然緊張しない。
「東京は、みんな元気? …っても、みんなバラバラか、高校」
「うん…、そうだね、文ともずっと会ってないし」
「あ、そう、行田とはずっと一緒だと思ってた」
「1年の春のうちは連絡してたんだけど、だんだんね。私は今でも文とは仲いいつもりだよ。でも、文が面倒くさがりなんだもん」
「あいつ、男らしいもんな」
「そうだよね」
ふふふ…と二人で笑う。路山くんが麩菓子に手を伸ばす。
「秋川も、1本義務」
「はーい」
噛んだら粉がふわっと散りそうで、少しテーブルに乗り出して食べる。
「好きになった? 麩菓子」
「あんまり」
「…あっそー。だったら、自分用に別の茶菓子、買えばよかったのに。うち、菓子とか置いてないよ?」
「いいの、麩菓子だって、なんか懐かしくなって衝動買いしただけだもん」
「嫌いなのに?」
「好きじゃないだけだよ」
ぼうっと、麩菓子を食べている。サクサクという音が、なんだかすごく可笑しい。…笑い上戸になりすぎかな。
「ねえ路山くん」
「ん?」
「…変わんないね」
私は笑った。そう、なにより、路山くんが変わっていないことが嬉しい。路山くんは、感動するくらいにあの頃のまま…。
「…そうかなー、背とか、伸びてないかなー」
「背はわかんないけど。顔とか、雰囲気とか、変わんない…」
「たくましくなったり、してない?」
「うーん…、ピンと来ない」
「ガッカリ」
私は満面の笑みになる。たまらない。この声を、トボけた話し方を、聞いているだけでくすぐったい。笑顔が止まらない。
「秋川は変わったよね~!」
ドキッとする。深瀬くんが「綺麗になった」と言ってくれた声がよぎる。路山くんに同じことを言われたら、私は嬉しすぎて倒れるかもしれない。
「そうかな、変わった?」
それでも、やっぱり一応謙遜はする。…まだなにも言われてないけど。
「うん、まず、コンタクトレンズ入れてるでしょー?」
「えーっ! なんでわかるのー! 見える?」
路山くんは勝ち誇った顔になった。
「中学の時、俺が遠くから声かけたりすると、おまえすっごい顔しかめてこっち見てたよ。俺の姉貴といっしょ。だから、あーコイツ目が悪いなーって、実はずーっと思ってたんだよね。でも今日、全然その顔しなかったから」
ガーン。今明かされる事実。私は、中学時代、路山くんにひっどい目つきを向けていたらしい…。
絶句する私に路山くんは笑みを向け、フォローのつもりか、続きをふってくれる。
「それから髪が伸びたよね~。女の子らしくなった」
「…それも、中学の時はひどかったなって話?」
「え、そんなことないよ、秋川は、秋川っていう生き物だと思ってたから、別にいいとか悪いとか考えたことないし」
「その『秋川っていう生き物』ってなによ~」
「いいじゃん、世界に一つだけの生き物だよ。ただの人~とか言われるより、ずっとほめてるじゃん」
なんてこと。深瀬くんは、私に再会してあんなに素敵な言葉をくれたのに…。
私の複雑な顔を見て、路山くんは笑いだす。
「秋川さあ、綺麗になったね~とか、言われようと思ってたでしょ~!」
「そ、そんなことないよ! そんなに私、図々しくないよ!」
そう言い返したものの、顔が真っ赤になってしまった。これじゃあ、図星と言っているようなものだ。
「え、だって、言われるんでしょ? 綺麗になったって」
「…え」
「思うもん、秋川、綺麗になったって言われるだろうな~って」
…遠回し。ちゃんと綺麗になったと言われたい。それでつい、未練がましい視線を投げてしまう。その私の視線をとらえて、路山くんは私の顔をのぞき込む。…ああ、私の負けだ。路山くんの純な瞳には勝てない。思わず手元に目を落とす。
「俺にも言ってほしかった?」
ゴメンナサイ、カンベンしてください。たまらなく恥ずかしくて、とても耐えられそうにない。私は小刻みに顔を横に振る。
「秋川が俺のことカッコよくなったって言ってくれなかったから、言わない」
「え、じゃあカッコよくなった」
「そんなの、ダメ」
路山くんがお茶のおかわりをいれに立つ。その背中で気付く。しっかり、彼も照れているらしい。綺麗になったとか…そういう男の子と女の子みたいな話を、私たちはしてこなかった。やっぱり、そういうセリフは似合わない。
あの頃のまま…。美化委員会はないけれど、なんとなく心地よくて、微妙な気遣いと微妙な引力がちょうどいい。
告白なんて無意味だ。心からそう思った。きっと、私と路山くんは、会えばずっとこのままの関係でいられる。連絡を取り合うでもなく、絶対に友人同士じゃなくて、でも…居心地のいい相手。
「部活、なに入ったの?」
上手く話題を変えながら、路山くんが急須を手に戻る。私は答える。
「華道部」
「…あ、おんなじなんだ」
「てことは、路山くんはちがうの?」
「俺、最初はバスケ部入ったんだよね。でも、ビックリするほど厳しくて、今は、部活はやめてバンドとかやってる」
「えー、すごい、普通の男の子みたい」
「普通かなあ?」
「うん、高校生の男の子って、バンドとかすごい好きでしょ?」
「それなりに、自分の中で変化とかあったつもりなんだけどなあ…。ただの普通の男の子かあ」
「ううん、確かに…普通っていうより、路山くんがバンドじゃ、ちょっとカッコつけすぎかも」
「えー! 秋川さあ、俺がイジワルした分、しっかり言い返してない?」
「ううん、全部、ふつうに本音」
「…秋川、ちょっと自分に自信がついたでしょ。高飛車になったよ、絶対」
「そんなことないよ。でも、私って、路山くんにだいぶ明るい人にしてもらったから」
「俺、そんな偉そうなこと、した?」
「相手の顔見てしゃべった方がいいとか、いろいろ言ってくれたじゃない」
「そーだっけ、俺そんなお節介だった?」
「…ううん、…感謝してるんだよ」
「じゃあ、麩菓子もう一本」
「どうして!」
「俺、秋川が麩菓子食べるの見てると、勝ったな~、って気がするんだよね」
「性格わるーい」
でも、しっかり麩菓子を渡され、私はちゃんとそれを食べる。
そうして、いい加減お茶が出がらしになるまで、ずっと私は路山くんと他愛ないおしゃべりをして過ごした。ずっとこの時間が続けばいい。でも、…そうはいかない。私がそんなことを考えているのが伝わったのか、路山くんが時計を見る。私はとても悲しくなる。
「秋川、いつ東京に帰るの?」
「…今日」
「え、いつから来てるの?」
「…今日」
しばらく会話が途切れる。きっと路山くんには、この問答で、私がここになにをしに来たかが伝わってしまっただろう。そう、このためだけ、あなたに会うために私はここまで来たの…。言わない、けどね。
「じゃあ、新幹線の時間があるんだ」
「…ん、もっと夕方だけどね」
時計の針は15時を指していた。そのことを、妙にハッキリと覚えている。
「そっか…、こんなとこで時間つぶさせちゃ悪いね」
「ううん、…もう、用事は終わったから…」
そう、あなたに会えたから…。帰りたくない。もっとそばにいたい。このままずっと、すごくどうでもいい話をしながらお茶を飲んでいたい。
「時間あったら、せっかくだから、仙台見ていきなよ」
それは帰れってこと? 今のこの時間はおしまいってこと? 切ない。東京に帰っても、路山くんはいない…。
「…うん、そうだね…」
「俺も行くよ」
一気に、気分がバラ色になる。路山くんと、仙台の街をデートだ。
「ちょっと支度するから、待ってて」
路山くんは自分の部屋らしき一室に入った。私は残りのお茶を飲み、聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。
「路山くん、…会いたかったんだよ」
聞こえてもいい。きっと、聞こえないふりをしてくれる。
「黙っていつの間にか仙台に行っちゃうなんて、ひどいよ…」
でも、もういい。今日のこの幸せな時間で帳消しにしてあげる。…そのかわり、私、好きだって言ってあげられなくなっちゃった。ずっと、ずっと、このままでいたいから。
路山くんが、薄手の上着を手に、荷物を肩にかけて部屋を出てきた。
「秋川、俺の部屋って、見てみる?」
「えーっ、見てもいいのー?」
「そのかわり、こんど抜き打ちで東京に行って、秋川の部屋も見る」
「抜き打ちはダメっ」
ドキドキしながら、路山くんの部屋の入口から中を見る。案外片付いていてびっくり。私の部屋の方が散らかっている。
「…きれい好き?」
「いや、すごーく偶然、昨日、片付けた」
「虫の知らせかな?」
「そーかもね。俺の部屋、本邦初公開。…入っていいよ」
「すごーい。男の子の部屋、入るの、はじめて…」
私は、氷の上に素足で降りるような足取りで、こわごわ路山くんの部屋に入った。なんだかおそれ多いような気がして、少し入ったところで足を止める。
そのとき足元に軽く振動が響いたのは、路山くんが、荷物を床に置いたから。どことなく空気に違和感があるのは、それは…。
「秋川、…」
そのときの路山くんの声、その張りつめた響きを、私は生涯忘れることはないだろう。
少しだけ間があって、そして…背中から抱きしめられた。ううん、こんな風にされたのは初めてじゃないよ。だって、あの頃だって…。
そのあとのことを、なんて説明したらいいんだろう。ただ、私は…なにがあってもかまわない、そう思った。だから、合意…ということで、きっと、いいのだろう。
私はなにを望んでいたんだろう。こんな風に、あまりにもリアルな男女の現実を路山くんと分かち合うつもりはなかった。ただ漠然と、なんとなく幸せだなって、そう思いながら一緒にいられれば…。なのに、どうしてこんな現実に陥ってしまったんだろう。
「ゴメン、秋川、時間…」
「うん、…まだ、大丈夫…」
私の細い声がする。それから路山くんは時間ではなく、私自身を心配してくれた。
「…大丈夫?」
「え、…うん…」
こんな風に決定的に関係が変わってしまっても、私は路山くんと自然に接していられた。
私は一人でベッドを下り、身支度をした。
「駅まで送るから。電車の時間、何時?」
「大丈夫、あと1時間ある…」
「じゃあ、…少し、寝かせて」
「うん、風邪ひかないでね」
床に丸まって落ちた毛布を拾い、路山くんに手渡す。彼はそれを受け取り、自分に乱雑にかける。
「15分でいいよ、そしたら起こして」
「うん…」
それからしばらく、私は、路山くんの寝顔を見ていた。
いろんなことを考えたような、でも…なにも考えていなかったような気もする。
ずっと、中途半端なだけの仲の良さだけ残っていればいいと思っていた。…でも、そんな憧れはもう意味をなくしたのだろうか。私たちは、あの頃とは違う関係になってしまった。
言葉もほとんどなく仙台駅にたどりつく。二人で、気まずさとか戸惑いとか、そういう感情もなく、ただ静かに。
「じゃあ、…帰るね」
私はそう言って路山くんを見上げた。彼は私の神様だから…確かなものはなにも要らない。私は彼によって生まれ、彼によって生きる。ただそれだけのこと。今日のことの意味を問う必要もない。
「秋川、…」
声の響きだけで、私の存在が揺さぶられる。幸福な振動…。
「…連絡するね」
「…うん」
また会える。…ありがとう。
軽く手を振って、私は改札を抜けた。少し歩き、振り返ると、路山くんはそのまま立っていた。彼が私を見つめているなんて、不思議な光景だと、私は思った。
新幹線で、私は眠っていた。安らかな、…とても安らかな気持ちだった。私は、あの頃の路山くんの腕の中にいる。一緒に行こうと肩に載せられた手。背後から私を包むように手すりをつかんだ手。その手が少し伸びて、私の体を包んだだけ。
あの頃の彼も、そうしてとても自然に私に触れた…。
やがて新幹線は東京駅に着く。見慣れた、東京の景色。ああ、帰ってきた…。
そう思った瞬間、気付く。自分が大変な過ちを犯したことに。
自分でも信じられないくらいに…心の底から忘れていた。
…増田くんの存在を。