第二部 5 切ない真実
しかし、それをうっかり和子に話したら、えらい剣幕になってしまった。春休みの部活で学校に行った帰りの電車で、一応小声ながら、私と和子はずっと言い合いをしていた。
「男なんて信じちゃダメだよ」
「信じてないよ」
「部屋に行くなんて、話にならないよ」
「それは反省してるよ」
「やっぱり、琴子には、ああいう派手な男は合わないんだよ」
「でも、結局はなんにもなかったよ」
「結局なんかあったかもしれないのに、なに、のんきなこと言ってるの」
「それは反省してるってば」
とにかく、和子は母親のように心配し、怒り散らしていて、なだめるのにひどい苦労を強いられた。
「でも、嬉しいこともあった」
「なによ」
「…好きだって言ってくれた」
和子はしばらく止まっていた。考えているようだった。そして、やっぱり怒っていた。
「でも、うかつに信用しちゃダメだよ」
「好きって言ってくれたことは信じたいな…」
「必要以上に信じちゃダメだよ」
そのとき、電車が駅に着いた。別にケンカをしていたわけじゃないから二人で並んで降り、改札の先で「じゃあね」と別れた。その瞬間、和子のずっと後ろで、改札を抜けて歩いてくる懐かしい人の姿が目に入った。
和子は自分の家の方へと歩いていき、私は人の流れをよけながら彼が近くまで来るのを待った。
「…深瀬くん」
声をかけると、知的で優しい、あの頃と変わらない眼差しが私をとらえた。
「秋川さん。…また会ったね」
深瀬くんは私に笑顔を見せた。私は、…不覚にも、涙がこみあげてきそうになった。懸命にこらえ、笑顔を作った。
私の魂はまだここにいる。路山くんを求める心が少しも死んでいないことを思い知る。このままではいけない。このままの心を抱いて増田くんの彼女であり続けるのは…。だから、以前逃げてしまった言葉を、ちゃんと聞かなければならない。
「深瀬くん、少し、時間…ない?」
路山光を想う私の心に引導を渡してほしい。中学校を卒業させてほしい。私はもう、新学期から高校2年生になる。もう卒業して1年がたった。彼氏もできた。だから…。
「俺も、秋川さんと話、したいから」
深瀬くんは微笑んでそう答えてくれた。私たちは、駅前のファストフード店に入った。
「ゴメンね、帰るとこだったんでしょ?」
「それは秋川さんもそうでしょ? いいよ、大丈夫だよ」
変わらない、魅力的な面差し。深瀬真吾、本当は彼が私の初恋の人でもよかった。たまたまそこに路山光が存在してしまっただけで、本当は…こっちだったんじゃないだろうか。あまりに強すぎた光。路山光。彼が、私の運命を変えてくれた…、そして、変えてしまった。
「深瀬くん。前に、路山くんのこと好きなら知ってたほうがいいよって…折角なにか言ってくれようとしたのに、私、逃げちゃったじゃない? …あれ、…聞かせてくれない?」
私はがっつくように、なんの前置きもなしに訊いた。深瀬くんは黙って聞き、黙ってしばらく間をおき、ゆっくりと言った。
「秋川さんは、もう、光ちゃんのことは忘れたの?」
私は…胸が痛んで少し表情が歪んだかもしれない。でも、迷わずに言った。
「…私、もう、彼氏いるから…」
本当は、多分、私の好きな人は路山光だけど。…でも、時間の流れに逆らってはいられない、ただそれだけ。
「だったら別に、わざわざ話すほどのことじゃないよ」
深瀬くんはそう言って、ファストフードのコーヒーをゆったりと飲んだ。私はそのしぐさを格好いいと思った。そういえば、また背が伸びて、顔立ちも大人っぽくなったような気がする。元々落ち着いた印象の人ではあったけれど、16歳にしては、表情の雰囲気なんかとても大人びている。
なんとなく、私は増田くんと深瀬くんを比較していた。彼氏と、初恋の人の親友とを比べても仕方がないのだけれど。
二人とも頼りになるタイプ、でも増田くんは明で動、深瀬くんは暗で静だ。増田くんは、つくりじたいはそこまでよくないけれど、感じのいい顔立ち。深瀬くんは、つくりはいいけれど、ちょっと最初はとっつきにくい感じの顔立ち。
深瀬くんに感じるような「素敵だな」というような感覚を、増田くんにもったことはない。多分、見かけとしては、路山くんよりも増田くんよりも、深瀬くんの顔かたちが私は好きなんだろう。コーヒーの紙カップを離れ、軽くテーブルの上で組まれた手も、まっすぐな指の先に幅の広い爪が綺麗だ。
「…秋川さん、…なに、見てるの?」
深瀬くんに訝られ、私は慌てて目を上げる。
「あ、ゴメン、…深瀬くん、また、男らしく、大人っぽくなったなって思って、いろいろ観察しちゃった」
エヘへと、私にしては軽いノリで言って、笑う。居心地がいい…、そんなことを考えてはいけない。でも考えてしまう。路山くんのそばで過ごすことは、快感。深瀬くんなら、安心。それに比べて、増田くんとはまだ…、緊張。やっぱり、私はまだ中学校を卒業できずにいる気がする。
「いや、俺は変わらないけどさ。秋川さんは、…すっごい、綺麗になったよね」
「えーっ!」
顔が赤くなっていくのがわかる。増田くんにも言われたのに、もっとみっともない時代の私を知っている深瀬くんに言われると、あまりに特別なことのように感じる。
深瀬くんは、保護者のように優しい微笑みを私に向ける。
「ホント、今の秋川さん、光ちゃんに見せてあげたかったな」
私の顔はますます赤くなった。火照りすぎて熱くなる。路山くんに、綺麗になったなんて言われてみたい…。そうして勝手に喜んでいると、私の頭に雷のようにある発想が降ってきた。私はこの時、深瀬くんの言い方からして、路山くんが死んでしまったんじゃないかと思って慌てた。馬鹿げた話だけれど。
「『見せてあげた“かった”』って…、それって…」
「だって秋川さん、卒業以来光ちゃんと会ってないでしょ? なんで?」
「え、路山くん、死んじゃったのかなって…ちょっと思った」
ちょっとじゃなくて、思いっきり本気で思ったんだけれど。
「生きてるよ、縁起でもない」
「…そうだよね」
ああ、深瀬くんと向かい合って路山くんの話をしているときが、今の私にはなによりも嬉しい。深瀬くん越しに路山くんを見ている分には、なにもつらくない…。
「秋川さん、…ホントに光ちゃんのこと、もういいの?」
深瀬くんが念を押したので、私は珍しく、気に障った。
「ねえ深瀬くん、…それで、『もう、よく』なかったらどうなるっていうの? 路山くんは私のこと、好きとか恋愛だとか、そういう風に思ってくれてなかったでしょ? …なんで、深瀬くん、私の路山くんへの気持ちにこだわるわけ、そうやって」
そう言ってむくれながら、私は、自分がいつこんなに深瀬くんと仲良くなったんだろうと内心で苦笑していた。中学時代、私には路山くんしか見えなくて、深瀬くんとはこんな風にふてぶてしい態度がとれるほど仲良くなかったというのに。
深瀬くんは、少し視線を泳がせて、それから私を見て、言った。
「…光ちゃんは、…恋ではなかったかもしれないけど、…秋川さんのこと、好きだったよ」
パリンと、私の中でガラスが一枚割れた。私は呆然とした。深瀬くんの言うことなら、多分、間違いないだろう。
「気付かなかったの? 光ちゃんが図々しく触ったりしてたの、秋川さんだけだよ」
…知ってる。
「恋愛とか、そういう話で言ったら、光ちゃんは春日井が好きだった…それは確かだけど。でも、…光ちゃんは、秋川さんが告白してくれるの、待ってたよ」
「どうして」
声が勝手にほとばしった。
「それは、光ちゃんからハッキリ聞いたわけじゃないけど。…でも、卒業式、…誰からも声かけられないように気をつけながら、俺と光ちゃん、ずっと、なにかを待ってぼうっとしてたんだよね。…俺は、その時、光ちゃんは秋川さんを待ってるんだと思ってた。…理由はないけど」
そんなこと。…そんなことを、今さら言われても…。
「だって、それで、告白したとして、…路山くんはそれで、いい返事をくれるわけ?」
「それもわかんない。…でも、光ちゃんは秋川さんを待ってたと思う。それは…、ずっと親友をやってたからそう思うだけ。…光ちゃんから言葉で聞いたことは、全然ない」
血圧が上がる。頭のてっぺんに、体中の血が上がってしまいそう。今現在の自分をどんどん否定していく。誰かの彼女なんて立場の私。ソファに押し倒されたりして、中学の頃の私とかけ離れた経験に身を染めている私。また、私の中でパリンとガラスが割れる。
「光ちゃんは光ちゃんで、今は今で、現在の時間を生きてると思うけど…、ただ、俺は、秋川さんが卒業式で俺たちの前を走ってったあとの、光ちゃんの落胆っていうか…、それを感じて、それがずっと気になってて。…なんとかしてやりたかったな、って。…あのね、俺、春日井に関しては、反対だったから。ずっと」
なんで、…とくり返す。私は、なんで、もっと早くに深瀬くんと話をしておかなかったんだろう。もっと貪欲に、もっとみっともなく、「路山くんが好きだから、深瀬くん、協力して」って泣きついてみればよかったのに…。
「どうして? 春日井さん、…悪い人じゃないでしょ?」
彼女は私のクッキーを、深瀬くんと一緒にフォローしてくれたから。あの頃の親友、文は春日井さんを悪く言っていたけど、今の親友である和子は悪く思っていなかった。私は…路山くんが彼女を好きだったということ以外に、彼女への反感はない。だから私は彼女への偏見をもたないように考えて、悪い人じゃないと結論した。
深瀬くんは、微妙な笑いを浮かべた。
「春日井の彼氏の、村垣って覚えてる?」
「うん」
「俺、小学校六年の時、春日井に、村垣とふたまたかけられるとこだったから。…それは言いすぎかな。でも、近いものはあるよ。光ちゃんには黙ってたけど」
そういえば、深瀬くんが唯一、春日井さんにだけ「さん」づけじゃなかったと気付いた。小学校の頃はみんな、お互いに呼び捨てだ。小学校が一緒だった名残なのだろう。
「春日井と村垣って、小学校を卒業するときに村垣が告白してつき合うことになったんだけどさ、…俺、その前に、春日井に告白されてたんだよね。小学生のうちから男女交際とかいう感覚なかったから、『やった、女の子に好かれた』と思っただけで、返事とかする感覚じたいがなかったんだけど…。そしたら、卒業式の日、春日井と村垣がつき合うとかいう話聞いて…なんだそりゃって。俺、返事してないじゃんって。俺になんの断りもなくって、やっぱ納得いかないじゃない?」
また、私の中で「路山ファミリー」が形を変える。春日井さんは、誰を追いかけて来ていたんだろう…。路山くんと、春日井さんと、深瀬くん。本当は、とても難しい環境の中で、私だけ何も気付かずにボケッと路山くんを見つめていたのだろうか。
「これ話したのは、今、秋川さんに…が最初。俺、ホントは光ちゃんに秋川さんとくっついてほしかった」
ずっと、…本当はずっと、深瀬くんは私の味方だったのだ。そういえば、思い当たる節はたくさんある。ありすぎる。私は、本当に何一つ気付かずにあの頃を過ごしていた。
私の中のガラスが砕けていく。中学時代と高校時代を別のものに隔てていたガラスの仕切りが。もう遅いのに。もう、路山くんが好きだなんて言ってもしょうがないのに。
「変な意味じゃなくてね、俺も秋川さんが好きだった。光ちゃんといるときの幸せそうな様子が…ホントに、心から光ちゃんのこと好きなんだろうなって思えて。…俺、光ちゃんのことはホントに友達として好きでね、だから、ホントのホントに光ちゃんのことを好きな秋川さんに、光ちゃんを幸せにしてもらいたかった…。なんて、そんなことを1年もたってから言っても、しょうがないんだけどね」
お願いだから、もうそれ以上話を続けないで…。
高校時代が音を立てて崩れていく。私は、今なお、路山光を好きなままだ…。
気付いたら、目にギリギリ一杯まで涙がたまっていた。やばい、と思った瞬間に、水滴は頬へと流れていった。
深瀬くんは驚き、すまなそうな顔になった。
「やっぱり、…好きなんだよね、光ちゃんのこと…今も」
私はうなずいた。うなずいてしまった。あまりにも自然に。ここでうなずいたら増田くんはどうなるんだろう、そんなことを考えたのは、もううなずいたあとだった。
「でも、やっぱせめてこの前会ったときに言いたかったな…。もう、ホントに月日がたっちゃったもんね」
一方的に深瀬くんの声ばかりが流れていく。優しい声。懐かしい声…。路山くんとの思い出の中に、たくさん混じっている声が…。
「あのね、…今言うのが正しいかどうかはわかんない。でも、…この前、言おうとしたことはね…」
私は顔を上げた。これまで話していた内容が、「前回言おうとして言いそびれたこと」だと思っていた。でも、それはちがった。深瀬くんがたった一つ私に告げたかったのは、このことだったのだ。
「光ちゃん、東京を離れちゃったんだよ」
急に、現実が頭の上に落ちてきた。
「今、光ちゃん、…仙台の高校に行ってる。知らなかったでしょ?」
だから私を「光ちゃんに見せてあげ“たかった”」なんだ。
いないから。今、もう、会える場所には…。
私は、なにをしていたんだろう。なにもせずに勝手にあきらめて、なにも考えずに他の男とつき合って。深瀬くんが勘違いしているだけで、やっぱり路山くんは私に対してなんの特別な感情ももっていなかったとしても、私は気持ちを伝えるべきだった。こんなにたくさんの中途半端を残して、いつの間にか彼がいなくなっているなんて。路山くんへのあらゆる感情を放っておいて、気持ちを偽って他の人と恋をはじめることが、私の幸福のあり方だったんだろうか。
「もしも秋川さんがまだ光ちゃんのこと好きで、会いたいと思ってるなら、東京で待っててももう会えないよって言ってあげたかったんだ、ずっと。お節介だったなってやっぱり反省して、今日まで、もういいやって思ってた。でも今日秋川さんの顔見たら、光ちゃんのこと、今、どう思ってるかが気になって…ゴメン。今…彼氏いるんでしょ?」
私はそれには答えず、深瀬くんに言った。
「…路山くんの住所、教えて…」
「え、…住所って…」
「無理なら街の名前だけでいい。番地は要らない。…住んでるところを教えて…」
迷って、それから、深瀬くんはカバンから手帳を出した。そして、丁寧に住所を書いてくれた。ただし途中まで。
「ゴメン、番地は忘れちゃった。1丁目は間違いないと思うんだけど…、住所って全然、普段使わないから…。連絡はメールだし。仙台の駅の近くってことは聞いてるけど」
そして、深瀬くんはそのページをちぎって渡してくれた。メールや電話番号を聞こうとは思わなかったし、深瀬くんだって路山くんに黙って人に連絡先を教えるのは嫌だろう。だから住所でいい。番地は要らない。居場所だけでいい。
この小さな紙は、思い出へつながる切符…。たくさん置いてきてしまった忘れ物の山を片付けに行こう。多分、路山くんは私に「恋愛感情」はないけれど、それでも、好意に似たものでも、少し、もっていてくれたと深瀬くんが言うならば。
想いを伝えたい。なにも求めないから。それはあるいはずるいことなのだろうけれど、過去への憧憬だけで現在の世界をすべて壊す必要まではないかもしれないから…。
ファストフード店を出たところで深瀬くんと別れた。
「深瀬くん、…ありがとう」
「ううん、…ゴメン、いろんなこと知ってたのに、黙ってて…。それでもお節介だったかなって、少し…」
「ううん、ありがとう。…深瀬くんがいてくれてよかった。それから…」
ちょっと泣いたせいで、頬がつっぱるのが格好悪いけど…。私は笑顔を向けた。
「深瀬くんが私の味方だったんだって、思えてすごく嬉しかった」
そしてふと、また背が伸びた深瀬くんの襟元に、手を伸ばすとしたらどれだけ近い位置に立たなければいけないんだろうと思った。素敵な男性だと、…そんな彼が私の恋を本当は応援していてくれたのだと、思えたことは本当に幸福だった。
ありがとうとくり返して、私は深瀬真吾と別れた。




