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指輪

作者: 川野たすく

指輪の色が褪せてきた、とキョウコは左手の薬指に目をとめた。

5年間、寝ても覚めてもずっと嵌めたきりの結婚指輪は、当初の輝きを失って却ってわが意を得た、というようにふてぶてしくそこにある。


何をするにも指輪の存在が気になった新婚のころ。

買い物に出かけた先で、商品に向かって伸ばした指に光る銀色の光に目を奪われて、目指す商品がなんだったのか忘れて考えて込むこともよくあった。

あの頃、銀色の輪は確かにキョウコの幸せの形だったのだ。


今、キョウコは新しく買ってきた華奢なグラスを洗いながら、ふとそのグラスを陳列棚から取るとき、指輪がなんの興味も奪わなかったことに気付いた。

5年の間に陳列棚に伸ばす指の先からはマニキュアが消え、指輪は小さな擦過傷がたくさん出来て光を失い、キョウコは迷いなく商品を選べるようになってしまったのだ。


キョウコは指輪の輝きと一緒に色彩を失っていった結婚生活を思った。


初めは何もかもが目新しく輝いて見え、同時に不慣れな小さな衝突を繰り返した。

靴の脱ぎ方、箸の上げ下げのような細かいことまでが異文化との遭遇で、痴話ゲンカとしか言えない小競り合いを繰り返しながら妥協点を探った。

今は……と、思ったところで、キョウコは口の端を泣き笑いの形に歪めた。


小競り合いを必要とするようなものもない変わりに、刺激も減ってしまった。

あるものは惰性のような、日常。


キョウコは吐息をついて、グラスをかごに並べ、手を拭いた。

結婚指輪を右手の指でくるくると回す。

こんな華奢で細い輪のくせに、意外に覆われた部分が蒸れるのだ。


指輪をはずして内側を見る。

本人たちにしか識別できないほど小さく、結婚記念日とKtoKという文字が刻まれている。

嵌めたきりの指輪の内側は擦過傷ひとつ負うことなく、キョウコが初めて手にした5年前と輝きを維持している。


結婚指輪というものはなんて理不尽なものなんだろう。

たかだか数万円にすぎない、銀色の輪。

これが生涯、キョウコの薬指にはまっている。

仮に喜寿までの約50年を夫と添い遂げるにしても、平均すると年間何千円かの買い物に過ぎず、ずいぶん安いものだと思う。

ずっと高価な婚約指輪はろくに日の目も見ず、箪笥の奥に眠っているというのに。

「男は釣った魚にエサをやらない」とはよくいったものだ。


輝きを失ったのは指輪だけではない。

結婚後はキョウコにかけられる愛の言葉がずいぶん減った。

以前は熱っぽく語られていた賛辞も、今はピロートークにさえ聞くことが無い。

装飾品のみならず、言葉というエサさえ結婚後には減ってしまうものらしい。


キョウコは一つ、吐息をついた。

それから、指輪を外して右手薬指に嵌めてみる。

あるはずのものが無い左の薬指にも、無いはずのものがある右の薬指にも、ひどい違和感。


ふふふ、と笑う。

なんのかんのと言った所で、今が一番幸せなのだ。

色が褪せようが、傷がつこうが、結婚指輪は左薬指だけのもの。

右手には似合わない。

それに、ホカの誰の指にあるより、私の指にあるのが似合うかもしれない。

ホカのどの指輪より、この指輪が私に似合うかもしれない。


折からの日光が洗い上げたグラスにあたり、キラリとキョウコの目を射た。


そうだ。

買ってきたばかりのグラスで、アイスティーを淹れよう。

それも贅沢に新しい葉で。


それにしても、今日はなんていい天気なんだろう。

アイスティーを淹れたら、庭の木陰に腰掛けて一休みしよう。

きつくなり始めた日差しを受けて、草花はとても映えているだろう。

木陰に座る私の横を、風がここちよく吹き抜けていくだろう。


アイスティーを飲み終えたら、夫の好きなビシソワーズを作ろう。

夫が帰ってくるころには程よく冷えて、飲み頃になっているだろう。


キョウコは真新しいグラスを一つ取り上げ、陽にかざした。

グラスのふちで初夏の陽光がきらめいた。



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