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ヒューマンズ  作者: 石川十一
序章
2/37

スタート

 ズシンと、大きな音と共に背中への衝撃が加わる。どこかに落ちてしまったようだ。あまり固くはないから土の上だろうか。まさかアスファルトではあるまい。でなきゃ最低でも、どこかしらの骨がお陀仏になっているはずだ。


 なんにせよ、起き上がらなくては。秋五は肘に力を込めて上体を起こす。


 度の合わない眼鏡をかけているときのような、ぼんやりとした視界の歪みが徐々に回復する。どこからか差し込んで来るオレンジ色の光線が額を照らしていた。


 視界と思考が澄みきった状態で周囲を見渡し、秋五は呟く。



「……夢か」



 そこは自分の部屋だった。十数年間変わることのない、東側に位置する八畳部屋。最近は空気の入れ替えもまともに行っていないため、微妙にカビ臭い。


 どうやらベッドから落ちたようだ。毛布が足にまとわりついている。背中への衝撃が大きかったのも、高いところから落ちたわけではなく、単純に床がフローリングだからに過ぎない。


 にしても、やはり夢だったのか。あの世界で触れた草や水の感覚が、未だリアルに体に焼きついているのに。


 あまりの疲労で現実逃避してしまったのかもしれない。そう結論づけないと自分が惨めになってしまう。


 出勤の準備をするために部屋を出る。落ち着いているのかいないのか、なぜか右手の人差し指にある指輪に気づかない秋五である。



 








 実家から車で20分ほどのところにそれはあった。佐々秋五の勤め先である。


 たった30分の休み時間を心の糧とし、一日の労働時間のほとんどをパソコンと向き合って過ごしている。


 無論それだけではない。人権を無視することが常識だと言わんばかりの不当な扱いをしてくる上司。3日に1人は発狂するレベルの業務時間(及び残業代はなし)。割り勘を強要される週3回の飲み会。今年入社した未来ある数名の若者も、気付けば残り1人となってしまった。


 これをブラックと呼ばずして、何がブラックか。今日もまた、秋五の足取りは鉛のように重い。








 会社の駐車場に車を停めると、誰かに窓をノックされる。同僚の大野だ。



「俺もちょうど着いたとこなんだけどさ、ちょっと自販行かね?」


 

 大野は大学時代からの友人だ。明るく社交的な性格の上に顔も悪くなかったから、合コンには引っ張りだこだった。俺も何度かおこぼれをもらっていた人間である。


 24歳にしてすでに結婚しており、今年1歳になる娘を含めて1人の家族を養う立派な父親だ。自由奔放な彼を結婚に導いた原因が一体なんだったのか、いまだその事実は判明していない。


 

 入り口のすぐ近くにある自販機でコーヒーを買った大野は、隣のベンチに腰かけた。続いて秋五も同じコーヒーを手にして隣に座ると、一呼吸置いて尋ねた。



「……お前が相談だなんて、珍しいな。いつも俺が聞いてもらう立場だってのに」


「なに言ってんだよ。俺だって悩むことくらいあるっつーの」


 

 こいつが悩んでいるだなんて、相当だな。 と秋五は思った。

 

 悩みなんてどこ吹く風。『自由』という言葉を擬人化させたようなこの男が悩むとは。まったくわからないものだ


 大野はコーヒーを一口だけ飲むと、いつもの笑顔とはほど遠い厳しい面持ちでそれを口にした。



「はっきり言って、俺はこの会社にいることに意味を感じないよ」


「……急にどうしたんだ」


「急じゃない。入社してからずっとそう思ってた。俺はさ、上司に顎で使われるだけの歯車にはなりたくねえんだ」



 大野の言っていることを正面から否定することは、できない。同期だからこそ、大学時代からの付き合いだから分かる。幸せや悲しみ、お互いの感情を共有しながらここまで共にやってきたのだ。



「俺もおんなじこと考えたときもあったけど、断念したよ。このご時世だ。ブラックとはいえ、ここに就職するのもやっとの思いだったしな。仮に、辞めたら辞めたで一時はスッキリするだろうが、そんなのは束の間だよ。ましてやお前には家庭もある」



 大野はジッと秋五の言葉に耳を傾けている。



「ただそれが本当に考え抜いた上での結論だって言うんなら、それで良いと思う。俺にできることがあればサポートも惜しまないさ」



 俺は言い終えると、少しばかりぬるいコーヒーを流し込んだ。


 大野は微動だにしない。秋五の言葉を自分なりに噛み締め、考えているようだ。




 ……そろそろ行かなければならない時間だ。出勤時間に遅れるとややこしいことになるだろう。朝っぱらから上司の容赦のない怒号の嵐に耐えられるほど、秋五の精神は強くない。


 すると大野はゆっくりと口を開いた。



「決めたよ。俺はこの会社を辞める」


「決断早いな」


「つっても、考えなしにやめるってわけじゃないんだ。高校の時の仲間がさ、アメリカで会社を立ち上げるって言うんだ。なにもかもゼロからになるけど、そいつらとやっていきたい」


「家族は?」


「したいことをしろ、ってさ。人生一回きりだし。しばらくは貯金を切り詰めていけば、なんとかやっていけると思う。迷惑かけちまうけどな」


「大丈夫だよお前なら」



 その後すぐに大野は辞表を提出しに行った。前々から上司にはやめるかもしれないという旨は伝えてあったそうで、自分の仕事の引き継ぎは既に済んでいるらしい。奴の行動力にはつくづく驚かされる。今後とも見習っていく必要があるだろう。


 

 すると休み時間の合間に大野に呼び出された。ロビーにいるように言ったのだが、「もう社員じゃないから」と言って、会社の外で待っていた。


 話によると、アメリカに行くための準備で忙しくなるため、これから出国まで会う暇もなくなるだろう、とのことだった。飛行機に乗る日も平日の昼になる予定のため、秋五が見送りに来れないことを想定して一時の別れを告げに来たのだ。



「確証はないんだけど、俺やっていけると思うんだよな。アメリカでもさ」


「やっていけるだろうな。なんたってアメリカは『自由の国』だし」


「ったく。なにが言いたいんだよ?」



 そのまま大野は車で帰っていった。ここからが奴にとってのスタートとなるのだろう。


 それに比べて。



「俺はスタートすら切ってないんだな」



 大野は『自由』だった。自分のやりたいことをするために、常に前を向いていたのだ。


 なんだか自分が惨めに思えた。これは嫉妬と呼ぶべきものなのか。


「馬鹿だ俺」



 いつものように深夜に家に帰ると、母が用意していた飯に手をつけずに風呂に入って早々に寝床に潜り込んだ。


 なにも考えたくなかった。考えたら狂ってしまいそうで、怖い。自分の気を落ち着かせるためにも、できるだけ早く思考を停止させないと。


 秋五の意識は闇に溶けていく。と同時に、彼の体はあのオレンジ色の光で包みこまれていた。

今回は秋五の『現実』の話。

感情が渦巻いています。

今一度、彼の感情を整理させておく必要がありました。

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