9枚目 シスター
変わらないものなんてない。
移ろいゆくのがそう。
どんなものも。
いつかは、あるべき姿へ。
□ □ □
今夏何度目かの台風が過ぎ去った翌日は、晴天大晴。
雲一つない空模様は夏らしい陽気であったのに、頬や髪を撫でる風はどこか優しくて。
人知れず背中に秋の気配を感じる日。
美容室オッジの向かい側の通りにある小さな珈琲専門店で、花穂はじっと彼女を待っていた。苦くて飲めもしないであろうエスプレッソを初めて頼み、風味が消えた数時間後。
カップを空にすると同時に、件の女性の影がちらりとして慌て店を飛び出した。
「あの、すみません」
背後から呼ばれたであろう声に蘭は足を止め、振り返る。
声の主は少女だった。
髪色がいつかの記憶よりも明るいけれど、姿形には確かに見覚えがあって。
「貴女は、もしかして」
履き慣れない黒のパンプスに自然と力が入る。すると
「あの。お話したいことが、あるんです。今お時間、ありますか」
赤味を増す頬に知らないふりをするように、花穂は震える喉で用件を告げた。
幾度となく反芻した練習そのままにならぬ声が、恥ずかしくもあり怖くもあったから。
けれどそれは、蘭も同じだった。胸中でいくつもの疑問符が渦を巻いては、泡になる。轟くは濁音。でも泡は次第にとけて水になるから。
今までそうしてきたように全て喉奥へと押し込んで、
「ええ、かまいませんよ。それでしたら、私の家へいらっしゃいませんか」
と、別の誰かにも言った時と同じように微笑んだのだった。
蘭の自宅は表参道駅より二駅離れた場所にあった。
だから会話は時折に、蘭が行き先を指や方角で示すだけ。
電車に揺れる間も終着駅から少し歩くだけの時も、二人には重苦しく感じられた。そして駅が遠ざかるほどに鼓動は脈動し、激しさを増す。
「こちらです。どうぞ」
そうして、二人の足が止まり、並んだ。
見上げるのは昔ながらの日本家屋の造形を残した、一軒家。塀には書道塾の看板が立つ。
「自宅兼、仕事部屋です。今日はまだ時間ではありませんから、誰もいません」
門をくぐり、玄関を上がると長い廊下が続く。昼近い時分になっていた屋敷は静まり返っていて、蝉も鳴きはしない。
「今日は皆、外出しているんです。そうかしこまらずに」
言葉の通りに花穂は家人の誰とも遭遇しないまま、客間へと通された。
六畳ほどの和室。渋茶色のテーブルには艶が光る。
慎ましい姿勢で蘭は座布団を用意すると、花穂は彼女に倣うようにして正座した。
そして対峙。
「それで、お話とは何でしょうか」
「あ、いえ。その、」
花穂はようやく蘭と向き合うことが出来たが、自分が先に口火を切る予定でいたから口ごもってしまった。でも咳ばらいを一つして。
必死に脳内で繰り返した言葉をなぞるように紡ぐと、一通りの経緯を説明出来た。
友人の一人が美容室オッジに勤務していること。そして偶然に店長が落とした蘭の名刺を手にし、無理矢理に水嶋から今日の予約を聞き出し、今に至ること。
その間蘭は、貝のように押し黙っては頷いていた。
そして最後に「そうでしたか」と笑顔で言い締めた。
続きを急かすように、花穂の知らぬところで風鈴の透明な音色が二人の耳たぶを揺らす。
「それで本題なんですが」と花穂は一呼吸あけた。
眼差しは、研がれた刃物の如く、光。
「こんなことを私が聞くのはおかしいんですけど。
最近、兄さんと会っていますでしょうか」
蘭は驚いたように目を丸くして、首をすくめて微笑んでみせる。答えを聞かなくとも分かる、肯定を示す笑み。
「どうして、そんなことを」
「ええと、その。説明するのは難しいんですけど、最近少し様子が変でして。
仕事以外で家を空けることはそうなかったんですが、このところ頻繁で。行き先も嘘ついたりして」
公博が坂田の家に外泊した日のことだろうか。それ以上の何かがあったのかもしれない。誰もが知らない所で嘘をつく。
「だから最初は、あなたと出掛けたと思っていたんです。でも様子を見る限り、そうでもないみたいで」
「ええ、残念ながら」と、蘭は続けた。
この問題に関しては、思いを押し付けるばかりの選択肢は、自分が傷つくだけだと一羽の鶴が告げている。
だが相手の出方を窺うばかりの人間ではない彼女は、事実を隠したところでも、結果は獲られないと知っているから。
「これからもその心配はないと思いますよ」
「え」
「何もしないまま、ふられてしまいましたから」
淡々と、事実を明かしてしまえる。
高鳴るは心臓。降って湧いた告白に、花穂は身を硬くすることで受け止めようとするが、予測以上の事には対応出来ずにいて。
蘭は何を思ったか席を立って、障子戸を開け、縁側の硝子戸も開けて換気をした。清涼な風が部屋に流れていく。
「貴女みたいなかわいい妹さんがいたら、当然なのかもしれないわね。私には兄弟はいないから、分からないけれど」
雲間から差し込む太陽光を、背に浴びるように振り返る。
「でも、本当は興味がないのかもしれないわね。楽しいことや美味しいものも、彼が本当に求めているものじゃないのだわ。だとすると」
蘭はそこで次の言葉を模索するように、首を右肩へと預け、瞬く。
「彼は本当に、興味がないのね。囚われていながら。無限に広がる美しい世界を」
肯定も否定も言葉はなく、再度風鈴の硝子音が空響する。まるで一枚のコインが落ちたかのよう。
「なんて。やあね、私ったら。何を言ってるのかしらね」
静寂に押し潰される前に自嘲を込めて蘭がクスクス笑う。釣られて花穂も笑う。笑う。頭の裏側で反響する言葉を、振り払うため。
「あはは。もう嫌だなあ、これだからあなたみたいな人って」
「やっぱり、おかしかわよね」
「全然」
笑いを越えて、花穂は表情を失いながら徐々に前のめりにうなだれる。
蘭は戸惑いながらも近付いき、その手を伸ばす。危うさ。
「分かってないふりして、分かってるじゃないですか。そう、だから兄さんはカメラマンになったんです。
心を向こう側の世界に置き去りにして。ある目的のためだけに写真を撮ってる」
「貴女は、それが何なのか、知っているのね」
ごくり、と蘭の喉が嚥下する。
「分かっています。確かめたことは、ないけど。私には聞こえる。だから私は、兄さんの写真が嫌い。あれには心なんてどこにもない」
沈黙が時を支配する。
二人の言葉はお互いの心にじわじわと染み渡り、あるいは溢れて零れる。
「私は、もう兄さんには写真を撮ってほしくない。でも、どうしたらいいのか分からない」
「花穂さん」
顔を上げた彼女の目には、涙が浮かんでいた。震える手の平、痛む喉。それを見て瞬時に蘭は理解した。
彼女は兄の想い人である自分を探りに来たのではない。
彼を引き止める言葉を捜しに来たのだ。縋るような思いで。
「私が直接言ったら、みー君はきっと傷つく。隠してるのが、その証拠。でも、何を言っても駄目な気がして」
泣くことさえ我慢してずっと悩んでいた少女の背中を、蘭はさすった。
ハンカチを差し出すと受け取り、握り締める。
「どうして、私は私なんだろう。どうして他人じゃないの」
さらに鳴咽した。ぽろぽろとこらえきれない思いが零れてなお自分を責めている。
他人ならば、かけられる言葉があったかもしれない。そうであれば、見つけられたはず。
「どうしてでしょうね。それは私にも分からないわ。神様が決めたことだもの」
「蘭さんは、クリスチャンか何かですか」
「いいえ、特に信仰心があるわけじゃないわ」と、首を振る。だが背中を撫でる手は優しいまま。
「でも、これだけは分かるわ。彼はきっと傷ついても、貴女を嫌いになったりしないわ。妹だからとか、そんな安易な理由じゃない。誰よりも他人に優しい貴女だもの」
その言葉で、花穂の世界に光が射した。脳天を揺さぶられるような目眩で、胸に刺さった棘が抜けた嬉しさでまた、涙が滲む。
「嫌われるのが、怖かったのよね」と蘭は我が子を慈しむような優しい瞳で笑う。
「兄さんが、ううん。みー君が蘭さんを好きになったの分かる気がする」
こんな誰かを、待っていたのだ。もうずっと長い間。
「ふふ、そうかしら」と名前のくすぐったさにまた笑う。だが「違うの。聞いて」と涙を甲で拭う花穂にもう陰はない。
「私たち、兄妹じゃないんです」
「血が繋がってない、とか」
声でなく、ただかぶりを振る花穂。いっそ、そうであれば、苦しくはなかった。
「私とみー君は、二卵性の双子です」