8枚目 硝子の海を泳ぐ魚
かくして、それぞれの思惑と事情、目的が絡まりあって世界は動き出す。
それは運命か、結果か。
後悔しないすべは一つ。
□ □ □
湿った空気が髪や肌に纏わり付き、黒雲が空を支配して自然と人々は自宅で一日を過ごす。
その日、日本列島には極めて稀な大型台風が接近していた。
だから至極当然、飲食店への客足は遠のくはずなのだが、都内の某ファミリーレストランは少しばかり違っていた。
入口から向かって右手の、道路に面した窓際の席。そこに彼の姿はあった。
「ご注文はいつものでよろしいですか」
「あ、いや。今日は烏龍茶で頼むよ」
「かしこまりました」
振り返ることがないと分かっていて、彼仕様の笑顔で仕事をこなすウェイトレス。
彼は、若い女性店員にとって常連だった。頻繁ではないけれど、自分がシフトに入った日に限り彼は現れた。
初めて彼にオーダーを取った日。ガラス窓の向こうに悩ましげな表情が映って、吹き付ける雨の滴が涙に見えたのを、彼女は今も覚えている。
その日の彼こと公博は、趣味用の小型カメラさえ持たずに、そこから見える景色を眺めていた。代わりに旅行用らしき小さなボストンバッグが一つ、脇に置いてあった。
「悪い、遅くなった」
「こっちこそ悪いな。休日に」
「なんの、なんの」
待ち合わせていた相手は級友の坂田だった。乱れた茶色の髪が、室内では感じない暴れ狂う風の凄まじさを物語っている。
「すみませーん。アイスコーヒーとフルーツパフェひとつずつね」
坂田も荷物は少ないらしく、脇に抱えていたB5サイズの封筒だけで、胸ポケットからタバコを取り出し席に落ち着いた。銘柄はセブンスター。
「たーさん、灰皿くれや」
「ん」
「さんきゅ」
一回でライターは点火。タバコの先端から燻る炎がちらついて、煙が立ち上った。
坂田はすう、とフィルターからニコチンを吸い込むと長く息を吐いた。
「できたぜ。確認頼む。間違いがあったらまずいからさ」
「ああ」
つい、と差し出された封筒を公博は手に取る。
「烏龍茶とアイスコーヒー、お待たせ致しました」
そこで先程のウェイトレスが注文の品を届けに来たが、二人はそれに目もくれない。ウェイトレスは二人の険しい表情に気付き、急いでその場を離れた。
「たーさんの案がよく出来てたから、俺としては楽だったよ」
無言のままの公博が封筒から取り出したのは、一枚の紙だった。
大きさはやはりB5サイズで片面印刷だった。
よって坂田からは、裏面の白色しか見えない。だが彼はそこに何が書かれているのか知っていた。
「大丈夫、よく出来てるよ。さんきゅな」
「気にするなって。俺もなにかしたかったからさ」
そうしてしばらく押し問答のような会話が続いて、坂田の注文したフルーツパフェがテーブルに並んだ頃。
ようやく公博は、誰が耳にしても理解できる話題を口にしたのだった。
「今日、お前んとこ泊まってもいいか」
「電話でいいって言っただろ。何回も聞くなよ」
「悪い、なんとなくな」
公博はそれきり積極的に会話をしようとはせず、豪雨の中を傘一本で帰路につく人々を眺めていたのだった。
同じ日か定かでない、八月の週末。
表参道の裏通りと呼ぶに相応しい夜道を抜けていくと、銀色のシャープな光を放つ看板が見えてくる。角度の急なコンクリートの階段は近代的な洋装を醸し出していて、慎重に上ったならば、硝子で形作られた幻想空間が広がっている。
美容室オッジ。その店内に、彼女の姿はあった。
兄とは反対に珍しくやわらかい表情で、花穂は鏡中の自分と向かい合い、前髪のメッシュが印象的な女性美容師と談笑していた。
「麻那ちゃんは最近ご飯食べてる?」
「んー、今日はヨーグルト一個食べた。かな」
「ヨーグルトお腹にたまるからいいよね」
「ん、そうだね」
返事もままならない様子で女性美容師は、どこか見覚えのある眼差しで花穂の髪と格闘を続けていた。その華奢で白い腕は休むことなく、忙しい。
彼女は都築麻那。花穂にとっては兄以外で気を許せる唯一の存在。例外中の例外とも言える親友だった。
彼女を花穂独自の印象で表すならば、桃色の狼。この一言に尽きる。
知的に鋭利な線を描く眉と、すっと通った鼻筋。白黒はっきりとした物言いが、強さと野性的なオーラを放つ。
それに対し、頬と唇は薄い桜色で、ふくよかな胸と花穂と比較してもそう変わらない身長が真逆なかわいらしい印象を与えるのだ。
「今日はいつになく真剣だね」
「昇級試験みたいなもんだからねー。あ、話できなくてごめんね」
「いいよ、頑張って」
今日は麻那の美容師としての試験日で、カラーをやることになっていた。花穂はそれまでに何度も彼女のカット練習に付き合っていたから、断る理由などどこにもなかった。
まず櫛で毛束を取り、ハケでムラなく染料を塗りつける。塗り終わると、銀紙を巻き付けてから下から上に向かって折りたたんでいく。その繰り返しだ。
麻那は胸元にレースをあしらった黒のポロシャツで作業をしていて、花穂は染料がつかないだろうかと気になってしばらく見つめていたが、そんなことは少しもなくて静かに彼女の腕に頭を預けた。
麻那がせっせと作業を進めていくほどに、左耳の下で無造作に束ねていた黒髪が、後ろ髪引かれるように流れる。
しばらくして銀紙の飾りで宇宙人のような風貌になった花穂に、染料を馴染ませるため円盤型のパーマネント器具が当てられた。
その間、花穂は店長と思しきロン毛の男性美容師に
「君、継続してカットモデルやる気はないかい?」
等と口説かれもしたのだが、すかさず麻那が歩み寄り
「ふっふっふ。だめですよー店長。花穂は私のですから」
と笑いながら強烈な平手を店長の背中にくらわせたりして、穏やかなひと時は過ぎていったのだった。
ちなみに麻那と店長は恋仲でもなんでもなく、親戚であった。麻那はそのコネもあって都会の美容室で勤務していたのだ。
店長、水嶋は麻那を見込んでのことであったが、彼女に対して世間の風当たりは優しくはない。並々ならぬ努力が必要だ。
一段落して、明るいメッシュの髪型になった花穂が
「ありがとうございました」
と小さくお辞儀をすると「お疲れ様でした」と麻那も水嶋もは仕事スマイルで微笑んだ。
その時だった。
水嶋が預かっていた鞄を渡そうとした拍子、それは宙をふわりと舞った。
その刹那、花穂はストロボ撮影の光を覚え、時間を切り取られたような居心地がした。
「今のって……」
それは予感だった。
恐る恐る床に落ちたそれを拾うと、目を見開いてしまうほどの驚きと、奇妙な安堵があった。
「店長さん! この、この人。ここによく来るんですか」
「え? ああ、彼女ね。お客さまじゃないんだが、別の仕事をした時知り合ってね」
水嶋は花穂の勢いに圧倒されながらも、続ける。
「もしかして会いたいのかい」
花穂は首だけでコクコクと頷く。
麻那は状況が飲み込めずにぽかんとしていたが、親友の味方をしたいらしく同じように首だけで同意をした。
「えっと。兄さんの知り合いなんですけど、この前家に忘れ物をしていったんです。兄さんに渡せばすぐ済むんですけど、旅行に行ってしまって。それもできなくて」
思い付く限りの嘘を、花穂は早口で話す。このままでいても何も変わらない。そんな決意の光が彼女の目に宿っていた。
水嶋はうーん、と腕組みをして唸っていたが何かを思い出したようにぽんと手を打つと、こう切り出した。
「今から話すのは独り言だ。だから誰かに聞かれても仕方がない。うん、仕方がない」
その後、花穂と麻那の二人は店長に何度も頭を下げてから、美容室オッジを後にした。
夜風は髪を撫でるように優しく、緊張はあっても恐れはない。そう、花穂のスカートとがなびいていた。
□ □ □
同じ日ではないが、同時刻。
ちりんと夜風に鳴らされた、金魚の風鈴が年を重ねる度に早さを増して過ぎ去る、ひと夏を惜しんでいた。
昔ながらの渦巻く蚊取り線香の細く揺らめく白煙をたどって夜空を仰げば、夏の星座がまたたいることにも蘭は気付く。
しかし、今の彼女には輝きが眩しすぎて、逸らしたい。
未だ胸を強く締め付けている言葉も、耳の奥で反響してばかりいる。
パチン。パチン。パチン。
「あっ……」
規則的に動いていた右手が、ふとした拍子に止まる。膝を抱いた形で、足の爪を切っていたのだ。縁側なら、切った爪の行く末を心配する必要はない。
「また、やっちゃった」
だが盛大な溜め息が洩れ出たのは、落胆の顕れ。吸水性のよいハーフパンツから伸びているふとももが、艶かしい色で動き、再度空に目をやる。
異例の早さで師範の資格を取得し、空前絶後の業を日夜磨いている、書道家和泉蘭。
そんな彼女にも、数少ない悩みがあった。
それが自身の爪を切りすぎてしまう癖であると、誰が想像できるだろう。
もう一度右の親指をつかむと、確かに右端の方の爪が指の奥にあった。伸びてくれば、指肉に刺さっていくことは間違いない。次第には膿がでて、皮膚を傷つけた証拠に血が流れてくるのだ。
「取らずに済むといいのだけど……無理かしらね」
左手が撫でた左足の親指の爪は、爪を縦に分割するような亀裂が走って割れていた。
病院で処置してもらったはいいが、伸び方がよくなく、生え際が不格好になってしまったのだろう。
彼女が普段着物であるのも、足袋で足を隠せることが本当の理由なのかもしれない。
「いけない、いけない。私らしくないわ。がんばれ、蘭」
かぶりをふって、一人ガッツポーズを取って気合いを入れ直してから、隣にある自室に引き返した。
和室の彼女の部屋は、調度品は少ないものの生活感がないのではなく、整理整頓の文字が当て嵌まるようだった。
奥まった位置には脚の低い木製机があり、それに色みを合わせた革のクッションに、蘭は背中を預けた。
脇の巾着袋には外出時の必需品が納まっている。その中から、ビニールのカバーのついた渋い朱と紫のストライプの手帳を取り出し、開いた。
「楽しい予定はなかったかしらーっと。あったあった」
月始めからつつーっと人差し指が左から右へ真っすぐに滑っていく。それはやがて中旬の木曜日でぴたりと止まった。その日は半月。達筆な文字で、
「AM10〜美容室オッジ」
そう書かれていたのだった。
予期せぬ出会いを警告するかのように縁側の金魚の風鈴が、冷たい我が身をもう一度揺らして鳴いた。