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ファインダーの向こう側  作者: 森野青葉
7/11

7枚目 妖精の歌

 現世に生を受けた時。

 人は自身が生きていく世界を選ぶことは出来ない。

 ゆえに人は、天から何がしかの才を与えられている。

 それは、彼女の場合も。



    □  □  □



 そうして少しずつ、太陽が顔を出している時間は長くなっていき、花開くたくさんの向日葵たちが背くらべを始めた。やがて聞こえるは、蝉時雨。

 夜には蝉と指揮を交代した、ひぐらしの鳴く声が夏の暑さを鎮めてくれる。

 そんな七月の週末。

 よりいっそうの涼風吹く夜。時刻は丑三つ時。橘家のベットの上には二つあるはずの影が一つしかなかった。

 そもそもこの家は神奈川県に隣接した、東京のとある区の中に建っていた。

 都会の多くの街が、華やかでありながら忙しく歩かねばならぬ土地であるのに、そこは穏やかに時が流れていく場所だった。それが彼女に影響しているかは定かでない。

 だが、とにもかくにも花穂は独り、暗闇に包まれた住宅地を歩いていたのである。

 服装は半袖のTシャツに股上の浅いジーパンという、極めてラフなものだった。足元は踵の低いサンダルで、左のポケットからは小型音楽プレイヤーの白いコードが上に延び、途中胸のあたりで二手に分かれて両耳に収まっている。

 手ぶらではあったが、一歩つま先を進める度にチャリ、チャリと硬質な金属音が鳴り、周囲の闇に吸い込まれていった。もう一つのポケットに小銭か家の鍵が入っているのだろう。

 花穂は前だけを見据えて、直線道路に沿って歩いていた。そしてその先に何があって、何がないのかも全て知っていた。

 雨風に震えて外壁の傷んだ古い家や、建て替えたばかりらしい洋風の一軒家。扉の形や屋根の色、窓の数などひとつひとつを見ても、形は同じであれど全く同じものはない。

 いつからこんなことをするようになったのか、花穂は正確な月日を覚えていない。それぐらい、彼女にとっては昔のことだった。

 短い旅の終着駅は、毎回場所が違っていた。目的がある様子ではないから当然だが、どうしてか時間帯だけは、日が沈んでからと決まっていた。

 だからその行動の理由も、一つの条件の上でしか成り立たないだろう。そんな気分になるか、ならないか。気まぐれという単語一つ。

「プリンでも、買いに行こうかな」

 虫たちの群がる街灯の下まできたところで、左手に折れていく道の奥に、大手のコンビニエンスストアの明かりが花穂の目についた。そこから先は、まだ未踏の地であった。しかしそれでも迷わずに彼女は最初の一歩を踏み出した。




 店内は客どころか、店員の姿さえ見当たらなかった。そのせいだろうか。眩し過ぎるほどの明かりの下、空虚で淋しげな空気が辺りを占めている。

 使う人のいない、でも無くしてしまうことも出来ない我が家の、両親の部屋に入った時のような感覚。それを花穂は胸の奥で感じ、振り切るように早足でデザートの棚へと向かう。

 数種類のデザートが並ぶ棚から、お気に入りのメーカーのプリンを二個勢いよく掴むと、その足でレジに行き、声をかける。一刻も早く、この場所から抜け出したかったのだ。

「すみませーん」

「はーい」

 一呼吸の間をあけて、専用のエプロンをかけた男性店員が扉の向こうから出てきた。

「いらっしゃいませー」

 花穂に笑顔で応対した店員は、慣れた手つきで商品のバーコードを読み取り、金額を告げる。そしてそれを受け取ると、直ぐさま袋に入れ、お釣りといっしょに差し出した。

「ありがとうございました」

 彼の俊敏な動きに釣られて、花穂は慌て袋を受け取ろうとして、右手に握ったままのお釣りがチャリーンと音を立ててこぼれた。

「す、すみません!」

 間抜けな自分が恥ずかしくなり、花穂は急いでそれらを拾おうとしゃがみ込む。

「手伝いますよ」

 だが、今度は手伝おうとした彼の手に触れてしまい、さっと引っ込める。

「す、すみません」

「いえ、大丈夫ですよ。俺もよくやりますから」

 その時、花穂は自分の胸がとくん、と波打つのに気付いた。彼のはにかんだ笑顔は、公博のそれとよく似ていた。

「どうかしました?」

 放心状態の花穂を、青年が覗き込む。すると、彼の少し茶色に染まった髪に隠れていた、耳のピアスが光った。

「だ、大丈夫です」

 ようやく落ち着いたのか、すっくと立ち上がると「はい、どうぞ」と渡されたお釣りをポケットにしまう。青年の名札には大野とあった。

「いちご、好きなの?」

「え。別に、そういうわけじゃ、ないんですけど……」

 またも唐突な出来事に花穂は言い淀む。何の話かというと、黒地のTシャツにプリントされていたのが、苺だったのだ。細身のデザイナのため、花穂の身体のラインを惜しみなく拾って、ほどよい大きさに見え、とても甘そうだ。

「ちょっと待ってて」

 花穂の返事を待たずに、大野はデザートの商品棚まで行くと、一つのケーキを持って戻ってきた。

「はい、これ。余ってても仕方ないから−−おまけね」

 ケーキはやはり、苺のショートだった。

「で、でも」

 花穂は未だ口をもごもごとさせる。こうした人の厚意に、慣れていなかったからだ。家族以外の人間に、優しくされることも。

「夜は危ないから、夕方とか明るい時間にまたおいで」

 青年は、その瞳に公博と同じ優しい光をたたえて、もう一度笑った。




 結局、花穂はケーキを拒否できずに店を出た。分かってしまったのだ。彼の、それをすれば自分が喜ぶであろうという、優しい気持ちが。

 それほど長くいたわけでもないのに、東の空は水色に染まり始めていた。

 出掛ける前と違い、花穂の手にはコンビニの袋がぷらぷらと揺れている。

 家を出た時とは明らかに異なる思いが、花穂の胸をいつも以上に強く締め付ける。

『どうして、分かったの』

 花穂の場合、よいことがあると悪いことがあった時以上に、悲しい出来事を思い出す。過去の、つらい記憶。

 ひぐらしはもう鳴いていない。囀るは、雀。朝が訪れる、始まりの歌声。

 花穂は袋の中のデザートがぐちゃぐちゃになるにも構わず、夜明けまでの帰り道を走り出した。サンダルが煩く悲鳴を上げても、足を止めない。ただひたすら、駆けていく。

 橘花穂には、兄の公博と同じく特殊な力があった。

 それは、人間にはおよそ聞こえないはずの声や音を聞くことのできるものだった。

 だからこそ、彼女は人の痛みを共有できる優しい人間になった。

 だが、現実は彼女にどこまでも残酷だった。花穂が中学生の時のことだ。

 どんなに小さな悪口かいわさえも聞こえてしまう花穂に、一人の少女が言った。

『橘さんてさぁ、気持ち悪くない? なんであんなに地獄耳なわけ』

 その少女は、クラスで中心となっていた人物だった。以来、級友たちは花穂を次第に空気のように扱い、彼女はこの世のどこにもいない存在となっていった。

 彼女に残されたすべは、一つしかなかった。

 口を閉ざし、耳を塞ぎ、瞼を閉じて、この世には綺麗なものなど何もないことを心に刻んでいくこと。

 全てから隔絶された世界で、花穂はようやくその心を落ち着けられたのだ。それはけして、幸せではないけれど彼女はそれで充分だった。それなのに。

 人である花穂は、無意識に光を求めた。暗闇の中で唯一自分を照らし出すもの。

 それが、兄だった。



    □  □  □



 たどり着いた場所は、自宅近くの何の変哲もない小さな公園だった。錆び付いたブランコ、犬の糞が混じる砂場。トンネルとあちこちに取っ手のようなものがついた半球体の遊具。

 花穂は荒い呼吸を整えもせず、一心不乱にその遊具を登っていく。だが手があいていないと曲線を描く斜面は登りづらく、自身のその手でコンビニの袋をゴミ箱へと投げた。それらはドン、と鈍い音と同時にゴミ箱の角に当たって地面に落ちた。

 遊具の頂上は円形に窪んでいて、花穂はその縁に腰掛けるようにして、天を仰いだ。

 西の空はまだ暗い夜のベールを纏っており、まさに夜明け前だった。しばらく花穂はその空を眺め、黒から青へ、そして水色と薄くなっていくさまを見ていた。

 そして一度唇を引き結んでから、大きく息を吸った。

 それは、日本語でも英語でもない歌だった。

 どこまでも高みに舞い上がっていくような高音で、伸びやかに、蒼天までも揺らがすように響いていく。

 メロディのないその曲は、以前花穂がどこかで聴いたことのあるものだった。聴いたのは一度だけ。

 世界のどこかで未だ使われているというその言葉は、ラテン語。または始まりの言葉。

 その歌は、きっと今日も明日も、向こう側の世界まで響いている。




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