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ファインダーの向こう側  作者: 森野青葉
6/11

6枚目 偽色と紫陽花と

 秘められた思いがあった。

 誰の心にも。

 そうして変化は自らの足音のように訪れ、いつしかそれは花のように突然、散る。



    □  □  □




 降り止まぬ雨滴を滴らしながら公博が花穂を病院へ担ぎ込んですぐ、CTを撮られたが異常はなかった。だが熱が高いこともあり、医師は一日入院を薦め、公博はそれに同意した。

 もちろん公博も付き添いとして、病院で一日を過ごした。

 そうして翌々日。

 普段と変わらぬ仲睦まじい兄妹の姿がそこにはあった。

「も、もう入らないよ」

「だめだ。はい、あと一口」

 花穂は突き出されたスプーンを睨みつけ「プリンじゃだめ?」と聞き返すが、

「だめだ」

 と一蹴されてしまって、唇をとがらせた。

 少しの変化は公博が頑固な態度を取ることだが、花穂の微熱はまだ続いていること。それに階段から落ちた拍子に作ったらしい、右側頭部のたんこぶのことを考慮すれば仕方のないことだった。

 花穂からすれば、病気を口実に我が儘を聞いてもらおうと考えていたのだから、むくれるのも無理はない。だが兄が一時も自分の傍を離れずにいてくれることは、やはり嬉しかったのだろう。

「じゃあ後でプリンね」と最後の一口を口に入れた。

 公博はそれを見て心底胸を撫で下ろし、妹の頭を撫でてやった。

 おとといは寿命の縮まる思いだったから、これが現実だと確かめたい。食器を片付けるのも億劫で、カメラの手入れですら花穂の部屋でしようかと思案した時だった。

 二人の耳に聞き慣れた高音のチャイム音。誰だろう、と見つめ合う兄妹を尻目に来訪者達は静かに玄関に佇んでいた。

 梅雨の終わりを告げる、蝉の鳴き声と夏の香りとともに。




 数分して階段を昇る小気味よい音が二重に聞こえたかと思うと、扉がノックなしに開いた。

「花穂。平井さんがお前の見舞いに来てくれたぞ」

「え、どうしよう。私パジャマだよ」

 狼狽する花穂に、平井は

「病人は気を使うにあらず、だよ。花穂ちゃん」

 と、妙な格言を言ってドアの隙間から顔を覗かせた。

「下でフルーツ切って持っていくからな」

 公博と入れ代わりに、平井は部屋へと入ると彫りの深い顔には似合わない派手な花束を「これ、お見舞いね」と花穂に渡すと、公博が座っていた背もたれ付きの回転椅子にどっかと腰を降ろした。

 花穂は受け取った花束をどうしようかと右往左往しながら、

「ありがとうございます、ほとんどいいです」

 と、とりあえずベット上部の棚に花粉が落ちないよう、そっと置いた。

「わざわざ来てくださって、ありがとうございます。お花まで。兄さ−−みー君に聞いたんですか」

「昨日、博のやつに電話したら病院だって言うからさ。驚いたよ、はっはっは」

「そうでしたか」

「思ってたより元気そうでよかったよ。橘先生、もう二年だもんな」

「そう、ですね」

 花穂は返答に詰まり、曖昧に笑う。

 まだ治り切っていない人のところに見舞いとは、おかしいと思うかもしれない。

 けれど平井に、その常識は当て嵌まらない。

 本来の性格もあるがそれ以上に、平井は橘一家と親交が深かった。何故ならカメラマンとして独立する前は、橘一成の助手を務めていたからだ。

 一成は人あたりのよい人物だったから、仕事が関係していなくとも平井は家に上がらせてもらい、ご飯をご馳走になったり、幼い二人の面倒を見たりしたものだった。

「それにしても暑いねー」

 しばしの沈黙と過去への郷愁を、平井が右手をうちわのように扇ぎながら破った。

「そう、ですか? エアコン強くしましょうか」

 けれど花穂はまた口元だけで笑い、リモコンで室内温度を少しだけ下げた。

「悪いね、俺暑がりなもんだから。梅雨も明けたし」

「そうですね」

 花穂はどうしてだか曖昧にしか笑わない。

 それもそのはずで、花穂は昔から平井が少し苦手だった。

 嫌いという感情とは違う。

 この見えない気持ちを、何と表現したらいいのか。例えるならそう。噛み合わせづらい会話やその出で立ちが、花穂の神経を針で刺激するような感覚。そして、得体の知れない者に対する息苦しさと、恐怖感。

 エアコンのせいだけではない、冷たく纏わり付く空気に、花穂は自然と両腕をさすった。

「ところで花穂ちゃん」

「は、はいっ」

 視線を慌てて男に戻すと、彼はじっと自分を見つめていて、花穂はつい顔を逸らしてしまった。

 その目は公博がカメラを構えている時の射るような目に似ていたが、それとは明らかに異なる性質のものだった。

 だが突然に、男の顔が花穂の目の前にあった。

 ごくりと生唾を飲み込むと、平井の手が自分の顎の下にあることに気付き、無理矢理顔を向かされたのだと理解した。

 そして目前の男は牙をむく。

「いつまで兄妹ごっこを続ける気だい? 博は君のものなんかじゃないだろ」

 長い髭のある口が、ゆっくりと自分に近付いてくるのを感じながら、花穂は心で強く最愛の人の名前を呼んだ。




 一方、階下に降る公博が向かった先はキッチンではなく隣のリビングだった。玄関から入って、一番近い部屋。

 そこにはもう一人の訪問者がいた。

「どうして、来たんですか」

「ごめんなさい。一人じゃなければ、お見舞いくらいは受け取ってくれるだろうと思って」

 蘭の着物は夏色に、生地も薄手のものに変わったというのに、頻繁に口にしていた賛辞は言葉にならなかった。

「怒っているわけじゃありません。顔を上げてください」

 次いで出るは、怒気を孕んだような一言。

 陰る表情を見ると、自分の方が悪いことをしているようで始末がよくない。公博は盛大に溜息を吐いた。

 とりあえず座るように手で促すと、することがなくなってどちらとも次の言葉を紡げずにいた。

 こんな時、脳裏に浮かんでくるのは当然よいことではない。

『ひろ、全然変わってないのね。私は嬉しくもあったけど−−そのままじゃ、きっといつか、誰かを傷つけるわよ』

 それはおととい坂田とともに千鶴を駅まで送った際に、ひそりと囁かれた言葉だった。

 「私と同じように」と続けて聞こえたような気がしたのは、公博の錯覚だろう。千鶴は嫌みを言うような人間ではない。

 それでもそんな気がしたのは、目に少し痛い笑顔を彼女が浮かべたからだ。

『だから、気をつけてね。元彼女サマからのありがたーい忠告よ』

 差し向かうテーブルには、フルーツの詰め合わせがビニールに包まれたまま。林檎に問いかけても、疑念を掻き消してはくれない。

 両親が一度に亡くなった二年前、橘公博には心に決めたことが三つあった。

 一つは、花穂を守ること。

 そして二つ目は、

「和泉さん。、すみませんが、もう会うのはこれっきりにしませんか」

 恋を、しないこと。

「ど、どうして」

 唐突に突き付けられた別れに、蘭の表情は戸惑いを隠せずに声をあらげる。

 拍子にテーブルがカタン、と動かされた。

「私の、気持ち。気付いているんでしょう……?」

 そしてもう一つは、蘭にも言えないこと。

「和泉さん。俺がどうしてカメラマンになったのか、まだ話したことなかったですよね」

「え、えぇ。そうね」

 飛び火する展開に、蘭は緩む涙腺と自分の心をどうにか堪えて、公博の話に耳を傾ける。

 ここで泣いてしまっては、彼とはもう会えない。そんな予感がするのだ。

「ある目的のためなんです。もちろん誰にも話したことはないし、誰にでも話せることじゃない。そのためには」

 公博はここで一度口を閉ざした。

 そして、無言のまま蘭を玄関まで引っ張っていく。きぬ擦れの音もしない。

「そのためには−−私は要らない?」

 大人しく連れ出された蘭が公博を見上げる形で問いかける。

 「何でもするつもりなんです」と公博は力なく答える。

 玄関の靴箱の上には、いつかの折り鶴。それを手に取ると、公博は蘭の掌に強く握らせながら言った。

「そのためには−−貴女は邪魔なんです。だから、俺のことは忘れてください」

 蘭がどうにか鶴を握り返した時、唇が押しつけられた。

 長い、時が止まったかのようなキスだった。蘭が見開いたままの目で見た、最短距離の公博は、何故か泣いているように見えた。



    □  □  □




 いつしか平井も蘭も橘家から姿を消した時刻。空が黒のベールに包まれた頃。

 薬を買いに出ようとする、公博と花穂の影が月明かりにアスファルトに伸びていた。

「花穂。もう大丈夫だからな」

「う、うん?」

 元気すぎる兄の様子に、違和感を覚えながらも花穂は拒むことなく頭を撫でられた。

「走って競争! 賞品はプリンです」

「えぇっ」

 驚く花穂を後に、公博はもう数メートル先へと走り出していた。影は少しずつ伸びていく。

「ま、負けないもん」

 と、花穂も走り出した時に、公博の口が動いた。それは二人の距離を考えれば、届かないはずの言葉だった。

「ごめんな、なんて言葉いらないよ。兄さん」

「ど、どうして分かったんだ」

 立ち止まって、声をあらげた花穂に、公博も足を止める。

「分かるよ、兄さんのことだもん」

 「なんてねー」と今度は花穂が公博を走り出して、追い抜く。差は一気に広がっていく。

「お、おい! ずるいぞ」

 兄はまた走り出す。

 笑い出す花穂。風邪はもうほとんどよくなったようだった。

「兄さんだけが、いればいいのに。どうして、一つじゃなかったのかな」

 息が続かず、目印にしていた電柱のところで花穂は激しい呼吸を整えた。後から追い付いた公博は、「大丈夫か?」と背中をさするが、先に発した言葉に気付いた様子はなかった。

 左側は用水路が流れていて、そこには色褪せた紫陽花が残り少ない命を咲かせていた。

 消える時まで、儚く。





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