5枚目 フレームアウト
誰もが一度は間違いを犯す。
誰かにとってはそうでなくとも、本人には許せないことで、その事実はけして消えない。
それがどんなに小さなあやまちであろうとも。
□ □ □
その夜、公博は沈痛な面持ちで帰路についていた。俯く視線はまさしく、考えごとの印。
だから家を出る前の出来事なんて、どこかに置いてきてしまっていた。
「あ、あれ? 開いてる」
鍵を閉め忘れたのかいなか。視線はなおも迷いつつも、足先は自然と部屋へと向かう。
廊下を抜けて、階段を上がった先。だがそれは当分後のこととなる。
「花穂っ!」
瞳孔が開くよりも先に、駆け寄っていた。冷たい階段下の廊下に横たわる何か。
それはうつぶせの状態の妹の姿であり、頭の方には彼女の私服が散乱。同じように乱れ、異常に汗を吸ったパジャマは嫌に湿っていた。
「花穂、花穂! 起きろ、しっかりしろ」
身体を激しく揺さぶり、赤い頬をぴたぴたとやるが、反応は希薄だ。唯一、眉間が小さな皺を刻む。額に手をやると、そこはやはり熱かった。
「ま、待ってろ、今病院に連れていってやるからな」
激しくドアを叩くような鼓動が、リビングの固定電話に救いを求める。
熱だけではない、階段から落ちて頭を打っている可能性もあるのだ。予想だにしない現実が、ズボンのポケットにある携帯電話の存在を消しさる。
「みー、くん……?」
意識の戻った花穂が小さく身体をみじろぐと同時に、公博は妹を抱きかかえた。
ソファーに置いてあったタオルケットで彼女を包むと、大丈夫だからなと何度も繰り返しながら、庭にとめてある軽自動車に乗り込んだ。
職業柄、車で移動することはあまりなかったが、公博は一応運転免許は持っていた。
しかし車のキーを差し込む直前で、反射的にその手がハンドルを叩く。
「くそっ」
鈍い痛みが、公博を責める。
さっきまで酒を呑んでいたのだ。酔ってはいないが、検問でもしていれば間違いなく飲酒運転で捕まってしまう。
「みーくん……?」
助手席の花穂が、その勢いでたじろぐ。
高熱のせいで虚ろな目が、最愛の兄を求めて潤む。
「い、今行くからなっ」
ややあってだが、彼の脳内天秤は確かに車を走らせる方へと傾いた。
鍵をひねると、エンジンは数回熱い咆哮をあげながら、夜の住宅街を駆け抜けていく。
零時を過ぎた道路は対向車もなく、運転手はアクセルをより強く踏みしめた。その表情はかつてないほどに固く、眼光は鋭い。ただただ、早くという思いをスピードメーターが指し示していた。
そもそもの始まりは公博が家を出る前、数時間前に遡る。
今日もそろって二人は、寝癖をつけたまま玄関で向かい合っていた。
「俺が出たら鍵、ちゃんとするんだぞ」
「分かってるよ」と了解の声には、こんこんと乾いた咳が交じる。
花穂は寝癖を兄に教えてやる余裕まではないようで、水玉模様のパジャマの袖を口に押し付けながら、
「本当に大丈夫だから」
と、空いている方の右手を申し訳程度にひらひらさせてみせた。
だが、逆にそれは公博の背中を押す結果になったらしい。前日に散々、「行くって決めたならそれを通すように」と花穂自身が説得したからだ。
「なるべく早く帰ってくるからな、ちゃんとふとんに入ってるんだぞ」
命令口調で念押しをした公博は、何度も後ろを振り返りたい思いで、風邪気味の花穂を残して我が家を後にした。
ところが車を走らせて十分もしないうちに、フロントガラスには無数の水滴がつき始めた。
長い赤信号がようやく青に変わった時には、ワイパーが激しくその身を動かさざるを得なくなっていた。
「こんな時にっ」
悪くなる視界が、よりいっそう公博の感情を高ぶらせる。
運転に慣れていないのだから、仕方がない。だが仕方がないことで終わらせてしまったら。
公博の脳裏に一瞬、両親の顔が浮かび、それを振り切るように真面目なドライバーは初めて、赤信号の道にアクセルを踏んだ。
出掛けたのは、中学時代の同窓会に出席するためだった。有志だけの集まりらしく、人数は多くはないらしい。
だが公博は成人式を、カメラマンになったばかりの多忙のために欠席していたから、少人数なれども出席したかったのであろう。
数年ぶりもしくは、それ以上の級友達との再会だった。
「あった、ここだ」
それなりの時間をかけて着いた目的地は、よくある全国チェーン店の居酒屋だった。油と酒が染み渡る使い古されたような店内は、意外にも静かで煙草の煙は少なかった。
店員の案内で店の一番広い部屋の扉を開けると、公博は懐かしい声に包まれた。
「博! やっときたなー」
「遅いぞ、このやろ」
「嘘、橘君!? 全然変わってないねー」
年月はたてど、人々の中での自分のポジションというのはあまり変わらないものらしい。
「みんな、久しぶり」
と、片手を挙げるやいなや、公博は部屋の中へ中へと押し込められてしまった。席に着くと、まずは乾杯。皆、色鮮やかなアルコールの入ったグラスを片手に和気あいあいとしている。
成人式に出なかったために、近況やら何やらを矢継ぎ早に質問攻めに合う。
これが戦なら兵糧攻めで落とすところだろうが、公博はやんわり笑い返すことで回避することが出来た。
それは皆が、彼の両親の死を知っていたからだ。噂話というのは、広がるのが早い。それが訃報や吉報であるなら尚更。
「たーさん。こっち来て呑もうぜ」
「おー、剛。この間ぶりだな」
談笑している人の脇をすりぬけて公博が隣に座った人物は、坂田剛。同窓会の前に電話をかけてきた、その人だった。
「たーさん、今日も寝癖つけたままなのな」
「え、嘘。ってお前こそ何だよ、その腹は。食べ過ぎじゃないのか」
「いいの、いいの。メタボリックじゃないから」
中学時代は野球にあけくれ、坊主頭で汗を流していた少年は今や、酒豪の坂田に変貌を遂げていた。髪は明るい茶色に染まり、ちょっと出たお腹がこれまでの数年間を主張している。
けれど彼と公博は親友さながらの長い付き合いだったから、お互い驚きはなかった。そこにあるのは信頼。
「花穂ちゃんは元気か」
「家で寝てるよ。急に暑くなったしな、風邪ひいたみたいなんだ」
お互いグラスは既に空だが、あまり飲む気配はない。
「相変わらず、かわいいんだろうな」と坂田がぼやくと「お前にはやらんぞ」と公博はすかさず待ったをかけ、似たようなノリでしだいに宴会はお開きとなった。
一緒に帰ろう、と坂田がレジの前まで来て、公博がトイレに立った。その際、坂田は近くにいた級友達の会話を聞いた。
「そういえばさ、今日鈴木さんに会ったか? 来てるって話だったんだけど」
「マジで。知らねー、早く言えよな。でも女は化粧とかで変わるからな、わかんねーかなあ。千鶴っち」
鈴木千鶴。
それはかつて、公博が初めて一度付き合ったことのある女性の名前だった。
「すみません! 急患なんです、お願いします」
着いた先の夜間病院で、怒鳴り込むように飛び込んだ公博に余裕などなかった。汗とも雨ともとれる滴が、髪に張り付いている。
だが、頭を打っているかもしれないことを告げると、
「今日は、専門の医師が不在ですね。青葉総合病院の方へ行ってください」
と眼鏡をかけた若い男性医師はそっけなく言い放った。
『あんた医者じゃないのかよ』
そんな身勝手な言葉が出かかり、公博は大きく息を吸った。
吐き出す二酸化炭素が、肩の力を抜き、冷静な思考を呼び戻してくれる。
「わかりました、失礼します」
ここには用はないと悟った公博は、素早く踵を返すと、背中に背負っていた花穂を再び助手席に乗せ、自身は新たな目的地へと車を走らせた。
そしてトイレから出てきた時、公博の前に立つのが、鈴木千鶴、その人だった。
「久しぶりだね、ひろ」
だがその時公博は、目の前の人物よりもその後ろにある、花瓶と折り紙のインテリアに目を奪われていた。千代紙の折り鶴が郷愁を誘う。
濡れたままの両手は無意識にぱたぱたとさせていた。
だが彼女は目線を合わせずにいたから、それには気付かない。反応を待ちきれないとばかりに、再び口をあける。
「あ、あれー。もしかして忘れちゃったとか? そう、そうだよね、博はそーゆーやつだったし」
そこで押し黙ってしまう。
ロングの色素の薄い髪。自然だけれど華やかさのある薄化粧が、形のよい目と口元を演出している。たれめの眉と頬の赤みがほどよく幼さを表していて、かわいい雰囲気の女性だ。
毛先をくるくると人さし指で持て遊んでいる。どうやら彼女の癖らしかった。
「すみませーん。この鶴、どなたが飾ってらっしゃったんですかね」
「ちょっと」と千鶴はようやく本人が気付いていなかったことを理解したが、背中に声をかけても写真家、橘公博は気付かない。
「あ、それですか。バイトの田口君の趣味なんですよ。よかったら、持って返ってくださっても構いませんよ」
「どうせまた持ってきますから」と大学生風の愛想のよい店員はスマイルを見せる。
「あ、そうですか。ありがとうございます」
それでは、と慌てて持ち場に戻っていく店員には目もくれずに、公博はその鶴を大事そうに上着の胸ポケットにしまった。
「もう、博! 聞いてる!?」
「わあっ」
飛び上がる公博。
それはどこか懐かしい声。姿は変わっても、記憶の片隅に残るもの。
「なんだ、鈴木さん−−あ、千鶴か。久しぶり」
「その久しぶりの再会でシカトとはやってくれるじゃない」
「い、いや。わざとじゃないんだって」
「ほーお」とまだ怒りが鎮まらない証拠に眉が少々釣り上がっている。両腕を組むと白のブラウスのしわが深くなる。
「とりあえず、外で話さない」
ここだと人が気を使うし、と千鶴は今さらながら周囲を気にしはじめた。忘れていたが、ここはトイレの前である。
「あ、駅まで送るよ」
付き合っていた当時と似たセリフを口にした公博。駅までの道を遠い昔に重ねながら、二人は坂田も加えて駅を目指して歩いていく。
未だ人のたたない居酒屋の店内で、相方を失った花瓶の中の名もなき花が、一枚花弁を落として揺れた。