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ファインダーの向こう側  作者: 森野青葉
4/11

4枚目 霞幕

 二人の賢人の出会いは、良い関係を築くこととなった。

 だがもう一つの糸が絡まる時、何が起こるか。

 未来を予測しうる者は、そこにいる貴方と耳聡いあの少女のみ。



    □  □  □




 時は流れて、六月某日。和泉蘭は写真家、橘公博の豪邸の前に立っていた。

「橘先生、こんなに稼いでいらっしゃったの」

 蘭は目を丸くして目の前のお宅の扉を仰ぎ見る。

 今日も決まって着物だが、自分の名前と同じ蘭の花が描かれた薄緑の着物に、帯は黄色を合わせたもの。皺も少ないうえに、その布が放つ光沢から新しい物であることは間違いない。

 だが、その着物もそれ以上に価値のある物の前では霞んでしまう。

「あはは、この家買ったのは俺じゃないですよ。父です、橘一成たちばないっせい

「お父さまが?」

 鸚鵡返しに聞き返し、『あ、あの事件』と呟いたところでしまった、というように蘭は口を押さえた。

 公博の父、一成かずなりこと橘一成は写真家であった。事故があった二年前の当時、蘭は師範の資格を取得した頃で、その衝撃的なニュースを鮮明に覚えていたのだ。

 だがポストの中に手を差し入れ、封書やハガキに目をやっていた公博は気にするそぶりなど欠片もなく、それらを手にいつもと同じ様子で自宅の扉を開けた。

「さあ、どうぞ」




 それより少し時計の針を巻き戻して、三十分ほど前。

 外はもう日が昇っているというのに、花穂は目を覚ましてベットの片隅で丸くなっていた。

 睡魔はとうに降りてきていて理性との格闘にも敗北しているのに、一向に瞼が落ちる気配がないのだ。羊も数え飽き、難しい実用書は内容が頭に入らず万策は尽きた。あとはこのまま一日を過ごす、その選択肢のみだった。

 身体の向きを右へ左へと変えては、沸騰し始めたお湯のように胸の奥から湧いてくる何かを鎮め振り払う。あれを見つけた時からだ。


 その日は身体の調子がよくて、今なら何でも出来そうな心境だったから、洗濯をしたのだ。主婦なら毎日していることだろうが、花穂にとってはそれだけでも賞状ものだ。

 鼻歌を口ずさみながら上着やらTシャツやらを放り込んだところで、ヒラリと何かが宙を舞った。

 すかさず手に取ったそれは名刺だった。

 −−仕事で大事なものかもしれない。そう思ったのだろう、花穂はそれをよく見ないで公博の部屋へと急いだ。

『何やってんの、兄さん』

 ノックをして部屋に入れば、公博はごみ箱をひっくり返しているところで、見渡すとベットの上にクローゼットの中の洋服やスーツが散乱していた。

『あぁ、花穂。名刺知らないか? 大事なものなんだ』

 その時こちらを振り返った公博の、カメラを構えた時のような鋭い眼差し。真一文字に引き結ばれた口。

 とくん、と胸が張り裂けそうな衝動。分かりたくないのに、分かってしまった。


 結局、花穂はそれを返せずに読みかけの本の間に挟んでしまった。以来、記された名前が浮かんでは消える。まるで激しい恋のよう。

「どんなひと、なのかな」

 知らないうちに声に出していた花穂は、喉の渇きを覚え、仕方なくベットから起き上がり部屋を後にした。窓の外で響く、女性の笑い声を背中で聞きながら。




 針を戻して、部屋の中。

 蘭は公博の家の広さに開いた口が塞がらなかった。両手を伸ばしてもまだ広さのある玄関の次に通されたのは、二十畳ほどのリビングだった。

 足袋越しから伝わるフローリングの艶やかさはそのままスケートができそうなほど。木で統一された家具は一般家庭の雰囲気と変わらないものの、その重厚で繊細な装飾はとてつもない価値があるに違いない。お洒落なライトを目で追うと、天井はどこまでも高く、自分の一番大きな作品を吊してもまだ余裕がありそうだった。

「ちょっと待ってて下さい。冷たいもの持ってきますから」

「え、ええ」

 肯定を示したが、おちおちソファに座る気になれず、蘭は居心地の悪さに一つ息を吐く。

「帰ったら、我が家は犬小屋かと思うわね」

「ははっ。犬小屋はないでしょう、和泉さん。それに金魚と猫の置物があれば、犬は放っておかないだろうし」

 リビングからダイニングキッチンへと消えた公博が、お盆を持って戻ってきた。自家製の緑茶を前に『うん、うまい』と早くも口をつけ、自画自賛。客人の蘭より先にソファーでくつろいでいる。これでは喫茶店にいる時と変わらない。

「写真はないのね」

「飾ってあればいいってものじゃない」

 −−と、父が言ってました、と公博。

 またも踏んでしまった、見えない地雷に蘭は激しく自分を責めた。公博ともっと親しくなりたい、そんな安易な理由で訪れるべきではなかった−−薄く引いた口紅が落ちるのにも構わず蘭は強く唇を噛み、そして振り返った。

「橘先生? カメラを見せてくださるのではなくて」

「そうでした! 座ってて下さい、取ってきます」

 何か忘れてるなって思ったんですよー、と間抜けな声が長い廊下の向こうに吸い込まれていった。

 上手く話題をすり替えたことに蘭はほっと胸を撫で下ろし、一人気合いを入れ直してから、緑茶で喉を潤した。




 −−そして時は重なる。

「うわっ」

「ぶ」

 公博がカメラを片手に一階まで降りてきたところで、花穂と出会い頭にぶつかった。かなり痛いのか、花穂は鼻を押さえたまま。

「酷いよー、兄さん」

「わ、悪い、悪い。まさか花穂が起きてるなんて思わなかったから。そういえば、今日は調子いいのか」

 まるで我が子を労る母親のような手つきで、公博は妹の頭をぽんぽんと撫でた。

『え、う、うん。今日はね、げん『橘君?』

 言い終わる前に、少し高い女性の声に遮られた。公博はすぐそれに気付き、『和泉さん』と彼女のもとに向き直った。公博がなかなか戻って来ないから、不信に思って見に来たに違いない。

 花穂の低い目線では公博の身長で隠れていた、声の主が視界に現れた。

 その立ち姿、凛とした笑顔が花穂の小柄な痩躯を貫く。森の中の熊に出会ったかのように居竦み、全身は身動き一つとれない。

「すみません、和泉さん。花穂がーあ、妹なんですけど」

「こんにちは、お邪魔しています」

 反射的に、蘭は幼少の頃より叩き込まれた慣例で、丁寧に礼をした。

「可愛い妹さんですね」

 誰もがその形容詞をつけてしまうくらい、花穂はそれの象徴だった。身長145センチの小さな妖精。

「でしょう! 俺が写真以外で自慢できることは、花穂のことくらいなんですよ」

 花穂は廊下に立ち尽くしたまま、二人の会話をどこか遠くで聞いていた。あんなに知りたかった相手を前に、自己紹介することもできない。餌を待つ魚のように口をぱくぱくさせるばかりだ。

「仲がよろしいんですね」

 だが、次に発せられた言葉の奥に、花穂は言葉以上の何かを感じたのか強く両手を握った。

「……じゃないわ」

 談笑していた公博と蘭には、うまく聞き取れなかった。二人の表情に浮かぶは、困惑の色。

「妹なんかじゃないわ! あなたは年の離れた兄妹だって思ったかもしれないけど−−学校だってちゃんと行ったし、お酒も飲める、もう大人よ!」

 きっ、と花穂は初対面の女性を見据えていた。レンズを引き絞るように、捕らえたまま離さない。

 だが、『あ、あの』と蘭が口を開いた途端に、憑き物が落ちたかのように我に返った。耳までその白い肌を朱に染めて、すぐさま階段を駆け上がっていってしまった。




 目のやり場というよりも、心の置きどころに困る雰囲気。

「妹さんに、嫌われてしまったみたいね」

 努めて明るく振る舞った蘭。彼女には花穂の言葉の奥にこめた意味が分かるだろう。『今日は帰りますね』と着物の裾が翻って風で膨らんだ。そのせいか蘭は次の瞬間、危うく転びそうになった。

「まったく、しょうがないやつだなあ。そんなに鼻が痛かったなら言ってくれればいいのに」

 廊下を抜けて、玄関で蘭が草履を履き終えたら、ようやくお互い落ち着いたようだ。パチリと目が合った。

「花穂が八つ当たりして、すみません。でも根はいい子なんですよ」

 腰は低いままの彼の笑顔がなんだか滑稽で−−もしかしたら私の気持ちも気付いてないのかしら、と蘭は帰り道をうつむいて考えずにはいられないのだった。




 その夜。

 向かい合う一つの扉が静かにノックされた。

「花穂、入るよ」

 返事はなかったが、躊躇することなく公博はするりと部屋に入った。暗闇の中、壁に右手を這わせるとスイッチに当たり明かりが点いた。

「ごめんなさい」

 ベットの脇で膝を抱いて花穂は座っていた。左手の指の間には、返しそびれた名刺。

「そんなに鼻が痛かったなら、言ってくんなきゃ分からないぞ。大丈夫、俺は怒らないから」

 公博は明るく言った。実際、それほど怒っていたわけではないのだ。和泉さんは喫茶店の方が落ち着くのかもしれない−−今日を振り返りそう考えたのか、公博はまた瞳に穏やかな光をたたえた。

「違う、そうじゃなくて」

 眉に皺を寄せる花穂。突然の光が眩しいのか、兄の鈍感さに呆れているのか、あるいは両方か。

 その間に、公博は彼女の指に挟まった捜していたものに気付いた。

「お、なんだ、見つけてくれたのか。ありがとう」

「みー君。ちが……!」

 公博が部屋を出ようとしたので、花穂はそれ追おうとしたが足に力がうまく入らず、その場で見事に転んだ。

「花穂ちゃん大丈夫?」

 苦笑を噛み殺す兄。

「う、うん。覚えてたんだね」

 はにかみながらも、つられて笑う妹。

「ああ、真似してみた。なつかしいな」

 公博が右手を差し出すと、花穂はその手を掴みふらつきながらもその足で立った。大きな手に、小さな手。それは幼い頃に二人が呼び合った名前。

「ご飯、冷蔵庫にあるからな」

 思い出に後ろ髪をひかれつつ、ドアノブに手をかけた。

「あのひと。兄さんのこと、きっと好きだよ」

 後ろから想いの矢に討たれた。その矢はどこに刺さったのか、公博はそれを隠そうとし、口角を思い切りあげた愛想笑い。

「そう、かもな。でも俺には、分からないよ」

 自室に戻った拍子に、公博はずるずるとその場に座り込んだ。硬い扉が今は支えだ。

 さっきと同じ暗闇の中、ポケットで携帯が震えた。明滅する光で顔だけが浮かんだ。

『もしもし。なんだ、お前か。ああ、見たよ。必ず行くよ』

 電話を切っても公博は床に座り込んだままで机の上の一眼レフだけが、彼の姿を捉えていた。

 ベット脇のサイドテーブルには、同窓会のお知らせと書かれたハガキが二枚、暗闇の中ぼんやりと光を放っていた。





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