3枚目 一葉蘭
出会ってどうなるか。
結果なんて少しも考えてはいなかっただろう。
願わくは二人の巡り会いが良き縁とならんことを。
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じりじりと肌を焼く紫外線が一際強く、地球温暖化は本当だったんだと普段は気にもとめない話題に花が咲くような、そんな暑い日。
「おっかしいなぁ……」
公博は地図を片手に、ある喫茶店を目指して道の往来を徘徊していた。
事の始まりは展覧会の最終日。紹介のことで平井から電話を受けて詳細を聞けば、相手は彼の親戚らしい。
『お前らにとって、プラスになるからよ』
そんな一言を残して、平井は変わらずのペースで電話を切った。後には取って付けたように、ファックスで喫茶店の名前と地図が送られ、それは今公博の手元で汗を吸っているというわけだ。
「だめだ、分かんねえ」
暑さで麻痺した思考と身体が悲鳴を上げ、額から流れる汗を手で拭った時だった。
「橘先生」
女性特有の柔らかな声が公博の身体をくるりと反転させた。
視界の先には、白の日傘を差した着物姿の女性が小さく右手を挙げていた。逆光で顔だけがちょうど見えないが、彼女が件の人物であろうことは何となく分かった。
「す、すみません!迷ってしまいまして」
「いいえ。それよりも室内に入りましょうか。ここは陽射しが強いですから」
慌てて駆け寄った公博に、女性は少しも態度を崩さずに、自分が向いている方向を指差した。公博はどうやら店を通り過ぎてしまっていたらしい、その先には求めていた扉があった。
喫茶店は個人経営の店らしく、客席は静かでこじんまりとしていた。木材を自然な形で使用したテーブルと椅子。橙色の柔らかな光源を包むように天井から下げられた照明。そのひとつひとつが、訪れた人の心を癒してくれる。
「改めまして、和泉蘭です。今日はお忙しいところを、ありがとうございます」
店の一番奥の二人席に通された二人は同時に腰を下ろすと、彼女の方が先に丁寧に挨拶をした。今更ながらも、公博も自己紹介。
外では顔が見えなかった目の前の人物を、そこで公博はまじまじと観察した。覚えているかは別にしてそれが公博の癖なのだ。職業病とも言うべきか。
耳の下あたりで揃えた黒髪に、切れ長の同色の瞳。着物は赤帯と黄色の腰紐で渋い臙脂の物を締め、まるで日本人形のような気高い気品が漂う。しかしすらりと伸びた背筋は凜としていて、ちらりと覗くうなじは温かみのある白さで冷たい感じは微塵もない。
「先生? どうか?」
「はっ! いえ、大丈夫ですっ」
何が大丈夫なのか、ずいぶん長く凝視していたらしい公博はかぶりを振った。その仕種がおかしかったのか、和泉は小さく笑みを零した。
「私のこと、平井の叔父さまには何と聞いていますか?」
「親戚としか……あ、おじさんということは、和泉さんは平井さんの姪なんですね」
「ええ、幼い頃から可愛がってもらいました。でも、叔父さまらしいですね。今日のことも突然でしたし」
「そうなんですよ! こんな適当な地図で、辿り着ける人いないですよ。全く何を考えているんだか」
いかにもな盛大な溜め息をついたところで、二人の失笑。共通の話題をネタに盛り上がるのは、緊張しているよりいいだろう。
『お待たせ致しました、アイスコーヒーです』
そこへタイミングよくグラスが運ばれてきた。よく冷えたその茶色の液体は氷の硬質な音をたて、二人は同時に口をつけた。
「和泉さんは俺の写真、平井さん経由で見たんですか?」
「いえ、展覧会で直接拝見しました。私も出展していましたので」
「出展、と言いますと」
「私、書道塾を経営しているんです。個人でも活動しておりまして、それで」
「それじゃあ和泉さんも先生じゃないですか!」
「生徒からは確かにそう呼ばれていますけど。まだまだ日々精進ですわ」
和泉は謙遜するでも否定するでもなく、ただ事実と目標を口にした。
名前の蘭より、その立ち振る舞いから凜と言った方が彼女には当て嵌まる気がしていたが、やはり女性は強いらしい。
コーヒーにミルクを注いだ時のように、公博の胸に何か温かいものが優しく溶けていった。
それからも談笑は、グラスの中の氷が液体に変わるまで続き、会話が途切れることはあれど二人の表情から笑みが絶えることはなかった。
喫茶店を出た時、外の陽光はだいぶ柔らかくなっていて、少し肌寒さを感じる程だった。駅までの道もちゃっかり聞いて、さあ帰ろうと公博が踵を返した時。思い出したように和泉はそれを公博に手渡した。
「私の名刺です。お時間ある時に連絡して下さいな。お待ちしていますから」
それには確かに彼女の名前と、パソコンのメールアドレスが記載されていた。右隅にはワンポイントに簡略化した蘭の花。
「それでは、また」
話の合間でなく、わざわざ去り際に手渡した意味に公博は気付けただろうか。
些細なことにも、人の気持ちというのは現れるものだ。悩むべきはそれが自分に対して良いものでも悪いものであっても現れてしまうことと、良いものである方が他人はそれに気付きにくい場合が多いことだ。本人も気付かないケースも含めて。
「あ、和泉さん。ちょっと」
「はい?」
呼び止めた時には懐に手を伸ばし、それを構え、こちらを伺った瞬間にシャッターを切っていた。趣味用の小型のタイプを使う機会はそうなかったが、持ってきてよかった−−そんな手つきで大事そうに公博は銀色のそれをしまった。
「それじゃあ、また」
その日から公博は決まって木曜日に、ある喫茶店を訪れるようになった。頻度は毎週ではなかったが、和泉書道塾の休みであることが少なくとも関係しているらしかった。そこの師範も決まって同じようにその喫茶店を利用していたからだ。
橘公博に和泉蘭に関してのインタビューをしたら、大半が即答で返ってくるだろう。着物と料理が好きなこと、苦手なものは電子機器。公博より二歳年上であること、コーヒーはブラックで飲むことなど、諸々だ。
ある日の会話ではこんなことがあった。
「橘君の、仕事部屋が見てみたいな」
「紅蘭先生に見て頂けるようなところじゃないですよ」
「先生はもうやめましょう? お互いキリがないもの。それに私の仕事してるところは見たのに、ずるいわ」
「分かってますよ、和泉さん。冗談です」
敬語も笑いの種になり、呼称も変化したのが親しさの表れかどうかはともかく。
かくして公博は書道家、和泉蘭を自宅兼仕事部屋に招待することとなったのだった。