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ファインダーの向こう側  作者: 森野青葉
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2枚目 月暈と雨

 あらゆるものが美しく見える目をもつ男を兄とする少女は、胸にあるものを抱えていた。

 それは果たして淡く儚き恋心か、漆黒に濡れる闇か。

 いずれにせよ、誰の知るべきところではなく−−。



    □  □  □



 地上で生活する人々の大半が寝静まり、夜空の星さえも眠りにつく頃。

 今宵も春月は茶色の屋根の一軒家を照らしていた。舞い上がる光の粒子は煌めきながら二階の出窓を貫き、柔らかな桃色のカーテンの隙間をすり抜け、少女の額を鮮明に映し出している。

 そこは掌を置いたら、すっぽりと包まれてしまいそうなほど狭く、顔立ちからも綺麗なだけでなく何者にも染められていない幼さが見える。

 寝苦しかったのか、一つ右に寝返りを打ったところで、花穂は目を覚ました。彼女の体内時計はいつもこうした時間に動き出す。最も、活動を始めるまではその日の体調に大きく左右されるのだけど。

 視界とは反対に、鮮明に彼女の鼓膜を穿つのは静寂の音。虫たちの息遣い。そして稀に、人の声。深夜という時間帯だからこその囁きで、人によっては心地よい音空間だろう。

 しかし花穂はそれらを気にする様子はなく――まだ意識が戻っていないからかもしれない、瞳が焦点を合わせるのと同じ速度で、ベットから這い出した。

 枕元の乱雑に置かれた本やら何やらを掻き分け、所在なさげにあくびを二回。長時間の睡眠による筋肉の緊張をほぐすため、肩を大きく回した。それだけの動作に十分以上時間を要したことから、彼女にはそれだけでも億劫なことだと解る。

 脳を覚醒させるが如く頭を振り、部屋を後にした。向かう先は一つ、リビング。




「うぅー……気持ち悪い」

 悩み顔で胸元を強く握ったまま、リビングの食器をあさる。行動がスローなのは、公博を起こしてはいけないという配慮以上の理由があるようだ。

 今、花穂の身体を支配しているのは警笛のように響き渡る頭痛と目眩。それに伴う吐き気だけだったから。

 パジャマの裾をずりながら、食卓につき昨日の夕食をゆっくりと一人で片付け始める。花穂にとっては珍しいことではなく、ここ二年の間に何度も繰り返されたことだけれども。胸に違和感を覚えずにはいられない。

 虚ろな黒瞳は目前の皿すら捕らえてはおらず、当然のことながら食事を楽しんでいる様子は微塵もない。むしろ胃の中に食物が蓄積されるほどに、眉間の皺は深くなり右手の上下運動は散漫になっていく。

「もういらない……」

 そう呟いたが、テーブルの端にある封筒が花穂の心と意識を捕らえて離さない。脳裏に浮かぶのは、兄の笑顔。心に爪を立て、再びスプーンを口に運ぶ。

 −−しかし、同時に喉を駆け登ってきたのはすえた臭いの胃液。逆流。ゴボゴボと鳴る水の濁音とともに、マーブル模様のそれがフローリングの床に大量に吐き出された。

「ぅああぁぁっ、はぁ、はっ……っっ」

 なおも唇の端から滴り落ちるそれは、花穂のお気に入りのパジャマをも汚しシミを作る。落ちたのは本当にそれだけなのか、窺い知り得るのは身体中に浮かぶ玉のような汗だけ。

 続く哀咽に、冷たい床に座り呼吸を調えようと試みるが、狭まった器官は酸素を強く求め荒い息を繰り返す。目尻に浮かんだ涙が、ギリギリのところで睫毛に張り付いている。震えるだけじゃ嫌なのに。

「おふろ、はい、ら、なきゃ……っ」

 自身を鞭打つように奮い立たせるが、おぼつかない足取りは壁という支えを必要としてしまう。一人でも立てるのに、立ちたいのに。それは一体、誰の叫び?

 壁につかれた指は汚れたまま、ずる、ずる、と一定のテンポで引きずられていく。白壁は自由のキャンバスとなり、指先は鋭利に孤を描く。空間までも引き裂くそれは、まさしく軌跡。立てられたのは絵筆か、爪か。

 ガラガラっとくぐもったお風呂場の扉の開閉の後には、廊下の白い右壁に長く四本の爪痕が残った。



    □  □  □



 その日の朝。

 おとといから新宿の某ビルの四階を貸し切って開催された、写真展会場からは賞賛の声が次々と湧き上がっていた。

「嗚呼! 今回の写真もどれも美しいですわ……」

「息を飲むって、こういうのを言うんだな。俺、知らなかったよ」

「まるでヤマトナデシコのようダ! ゼヒこのサクラある場所ニ行ってみタイ!」

 その声が絶えることはなく、人々の目や表情からも輝きばかりが溢れていた。

 会場は季節に合わせるように写真を分けて、四つの区画から成り立っていた。写真に限らずこうした展覧会では、レイアウトや演出も『美しく見せる』ための大切な要素の一つだ。

 公博はそれらのスペースのうち、入口から見て一番奥の冬の会場にいた。スーツは昨日と同じ黒だが、ネクタイとシャツは色合いがけんかしないものを選んで着ていた。

 けれどその姿はどこか滑稽だった。公博の後頭部には自身を主張するような寝癖。出かける前には、洗面所にあったパジャマを手洗いしていたし、電車にも慌てて飛び乗ったのだから、鏡を見る余裕はなかっただろう。しかし、寝癖ひとつで公博を嘲笑するような人はここにはいない。むしろ微笑ましく思っただろう。

 写真展を開くにあたり、お世話になった方々への挨拶回りが一通り終わったところだった。人付合いが苦手なわけではないが、それでもふう、と溜息が洩れた。そんな時。

「よう、博。今度の写真もさすがだな」

「平井さん! お久しぶりです」

 疲れも忘れて、公博は口髭を生やした長身の男性へとかけよった。

「わざわざ来てくれたんですか!?」

「まあな。元気そうじゃないか」

 平井は公博と同業者だった。三十代の平井はがっしりとした体格で、日に焼けた浅黒い肌は、実年齢よりも逞しい風貌を醸しだしている。

 平井は公博を上から下までよく眺めてから、豪快に笑い公博の背中をバシバシ叩いた。

 その少し過剰な再会の仕方に、公博は疑問を感じつつも思考をやめた。

「エジプトでしたよね? どうでした!?」

「よかったよ。やっぱり日本からは見られない景色が多いな。まあ、暑かったけどな」

 苦笑いをしつつも、その満足げな口元。さぞ綺麗な写真が撮れたのだろう。公博の好奇心に満ちた目は、さらに光を増す。

「今度お邪魔させて下さいね!」

「お前も来いよ。日本にいないでさ」

「平井さん……」

 公博の心を貫き蘇る、映像。吐瀉物のこびりついたパジャマ、壁の鋭線。

「冗談だ。分かってるさ、お前の心配の種ぐらい。それより、今度ちょっと時間あるか」

 しかしそれは一瞬で。

「二十日以降なら平気ですけど」

 当然のように現実の髭の男へと戻る。

「紹介したい人がいるんだ、お前の写真のファンでな」

「はあ……」

「ま、詳しいことはまた電話するよ。じゃあな」

 ポンと肩を叩き、平井は一方的に話を打ち切って行ってしまった。

「あ、ちょ、平井さん!」

 その広い背中は長身だから見つけやすいはずなのだが、公博にはもう見えなかった。

 そんな適当な、とぼやくが笑いも混じっていることに公博は気付いていた。両親の死以来、自分が振り回される存在はそう多くはなかった。そんな貴重な友人の来訪に感謝した。

「橘先生!」

「うわっ、は、はい?」

「お昼はどうされますか?」

「あ、お昼。もうそんな時間ですか、そうですね……」

 過去と現実の狭間を行ったり来たりしているところへ、職員の声で公博の意識はあるべき場所へと押し戻された。

 外では春の陽気はどこへやら。空には不気味な暗雲が広がり、午後からは土砂降りの雨が降り始め、その雨は夜になってもやむことはなかった。






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