11枚目 秋彼岸
現実は汚くて残酷。
でも、本当にそうかしら。
□ □ □
世間一般の夏休みが終わりを迎え、学生も社会人も繰り返す日常へ踵を返していく。それが正しいのか楽しいのかなんて問題ではなく、当たり前であるからそうしているだけのライフスタイル。
次第に昼夜の比率が月に傾いで、南の魚のフォーマルハウトも秋の夜空に星を描く。その前に。
橘の双葉はそろって自宅を空けていた。いつもの私鉄電車で横浜方面まで出て、高速道路を走る東名バスでの一泊旅行に向かったのだ。
行き先は静岡県西部地方。両親の生まれ故郷だった。
「二人で出かけるの、なんだか久しぶりな気がするな」
「兄さんここのところ忙しかったしね」
新幹線を使うことを避けたのは、花穂が人混みを苦手とすることもあったし、公博が時間をゆっくり使おうと考えたためでもあった。
荷物は大きめのボストンバック一つだけ。必要なものは現地調達しよう、と前日の準備で言ったのは二人同時だった。
「それじゃあ着いたら起こしてね」
地図上ではほど近い県と言えども、乗り継ぎも含めると三時間程度。
花穂はそれを見越していたのだろう。シートを寝苦しくない角度に何度か調整してから、薄手のカーディガンを体に掛けると眠りについた。
公博は上着が体から落ちないよう調整してやると、車窓から見える過ぎ行く夏の景色に心を委ねた。
両親が幼年期を過ごした街は東京とは比較する対象さえないほどの田舎で、公博の記憶では生前に訪れたのは数えるほどでしかない。
だから思い出という名の郷愁に駆られることはないはずだった。
だがあの街には都会の夜空にはどれだけ目を凝らしても見つからないものがあった。それらはそこに在るだけのもので、人によっては道端の小石と等しく価値のない物かもしれなかった。けれど千差万別に同じものなど一つとしてないのだから、数なんかではかろうとしないで、ただ感じて。
街住む、生き急ぐことを知らない人たちが、これからもそれを知らずにすむようにと、身勝手な不変を公博は思った。
車内アナウンスで現実に引き戻された公博は花穂を揺り起こすと、JRに乗換をしてまた少し揺られた。ようやく降り立った駅で軽食をとり休憩をはさんでから、今度はタクシーで目的地へと向かった。
行先は善光寺。お盆を過ぎての遅い墓参りだった。
最初の石段を上がると正面に本堂があり、住居部分が右側から繋がるように建っている。左脇には先ほどの石段よりも傾斜の高いそれが上へ上へと伸びていて先が見えない。水道が石段の少し手前に設置してあり、桶などは使いやすいようきれいに並べてあった。
公博は駅前で買った菊を花穂に渡すと、自分は水を汲んだ桶を持ち先へ進んだ。
父の一成いはく、昔はこのあたり一帯は山だったらしい。登るたびに石段の表面が波打つかのように武骨な形に変わっていく。上がるというよりも登るという表現の方がしっくりくるような気がした。
ある程度進んだところで後ろを振り返ると、記憶で見た景色と目の前のそれが重なった。公博はその場から右手に曲がった一角の、端から三番目の墓石の前で足を止めた。
「父さん、ただいま」
花穂と二人で古い花を捨て、石を洗い、水を替える。久しく来ていなかったので周囲が雑草ですごいことになっているかと思っていたが、そこまでではなかった。お盆の時に近くの家の人がついでに掃除をしてくれたのかもしれない。両隣の墓石はきれいだった。
「しまった、肝心の線香を忘れたな」
「わたし、住職さんのところにないか聞いてくるよ」
「俺も行くよ」
ポケットをまさぐる公博を横目に、走る花穂。
「一人でも大丈夫だよ」
でもそう言われては出る幕のない気がして、公博はストライプのシャツの胸ポケットから煙草を取り出し、口に咥えた。坂田が吸っているのを気まぐれに真似ていたら、いつの間にか覚えてしまったのだ。
自分の行動が正しいのかどうか。疑問を抱きながらも歩みを止められないことに気付いている。まして自分と他人の評価はけしてイコールではないのだ。誰もが独りなのだから。
「住職さん、いい人だね。タダでもらっちゃった」
戻って来た花穂の久しぶりの笑顔に公博は安堵した。線香に火を付け、手を合わせると今も大切な人のために祈った。
空になった手桶は軽く、今度は逆に勢いよく駆け下りてしまいそうな石段ををゆっくりと降りていく。
この歩みだけは正しい。そう思った時隣にいた花穂がふいに口を開いた。
「ねえ、兄さん。ううん、みー君。私、アルバイトしたいの」
「急にどうしたんだ。欲しいものでも出来たのか」
「物じゃないの。やってみたいって思ったからやりたいの。それだけじゃ理由にならないかな」
口下手な花穂が目的がなく何かを始めるのは初めてだった。いつも明確な目標が先にあってそのために行動する、自分を奮い立たせるために。
「応援はしてやりたいけど、何かあって傷つくのはお前じゃないのか」
「そうかもしれない。でもそれって結局は、かもしれない、だよね」
「まあそうだな」
「だから傷つかない可能性だってゼロじゃないよね。私、そういう小さな可能性って捨てちゃいけない気がするの。出会える数は少ないかもしれない。けど、ちょっとだけ優しい人に会えたら。世界がきらきらするんだよ」
みー君も知っているでしょ、と花穂は少し唇をとがらせる。後ろに組まれた手にはごみの袋が握られているのだが、それさえ彼女の背中を押すものに見えてくる。
「あとね。あとね。兄さんを、みー君って外でも呼びたいの」
少し首を傾げながらでも、瞳はまっすぐに公博を見ている。自分によく似た双眸に覗き込まれていると、自分さえ知らない胸の奥底を見透かされそうで目をそらしてしまった。
「バイトはまだいいとして。それだと妹をやめるってことになるんだぞ」
「うん、わたしはそれでいい。本当は怖い気持もまだあるよ。それも嘘じゃない。でも妹でいたら、いつまでもみー君に守られてる私になっちゃうから」
いつの間にかお寺を離れ、バス停のある少し大きな通りまで来ていた。舗装された道だが田舎のため標識は少なく、人通りもあまりない。夜には真っ暗で、信号機の明かりだけになるだろう。
そんな道を、花穂が公博の先を歩く。段差はなくなったはずなのに。
「みー君。世界ってね、そんなに悪いものじゃないんじゃないかって、最近はそう思うんだよ」
「俺は、花穂が傷つくのはもう見たくない」
公博は歩みを止める。止まらなければバスに乗ってしまうから。
「世間が何言おうと関係ない。花穂は花穂なんだから。そんなに変わる必要なんてないじゃないか。どうしてお前ばかりつらい思いをしなくちゃいけないんだ」
「誰かに言われたとかじゃないよ。本当に私がそうしたいの」
振り返って花穂も足を止めた。腕時計を見ると次のバスの時間が近い。あまりのんびりと歩いてはいられなかった。
震える声が、それなら、と小さく囁く。
「それなら。みー君は私が今のままの私でいるから、写真を撮るのはやめてほしいって言ったら、やめられるの」
突きつけられたものの大きさに、公博は目の前に立つ妹を見た。
世間の悪意なき好奇心から彼女を守るため、兄という立場を演じながら生きてきたはずなのに、その妹が自分に牙をむいている。自分が演じてきた以上に、花穂にも妹という役割を必要以上に押しつけてしまっていたのかもしれなかった。
「それは、いくら花穂のためでも出来ない。ごめん、花穂。ごめん」
「私こそ、ごめんなさい。分かってて言ったんだ。でも私みー君には、あの女とちゃんと、幸せになってほしいから」
うなだれる公博の腕を花穂はそっと握った。ほらバスがきたよ、と手を引いてバスに乗り込む。予約したホテルまでは少し時間がかかる。
「みー君が来るの待ってるから。ずっとずっと。向こう側じゃない、こっち側で待ってるから」
それきりバスがホテルに着くまで花穂は口を開かなかった。
公博も花穂の言葉に応えなかった。
ホテルには一泊して翌朝チェックアウトをしたが、帰路についても二人は最低限しか言葉を交わさなかった。
翌々朝、公博は太陽が空を昇り切らないうちに書置きを残して家を出た。
日が完全に昇ってから、あくびをしながらリビングに降りて来た花穂がそれを見つけた。
『父さんの別荘へ行ってきます。しばらく帰りません。困ったことがあったら連絡してください』
私も出かける支度しよう、と花穂は呟くとまずは寝癖を直すために洗面所へと消えた。
リビングの窓から差し込む光はきらめいているのに、風は何度もその戸を叩いていた。また季節が変わってゆく。