1枚目 二人の世界
ゆっくりと深く頭をたれて、揺れる枝垂れ桜。太陽に恋をした、盲目の向日葵。花開いたまま、その身を地に落とす椿。化粧好きの、おしゃれな紅葉。
春夏秋冬、それぞれのそこにある自然。それ以上でもそれ以下でもない。
これらは全て、ある一人の男が撮った写真だ。
世界を切り取ることは、その男にとって呼吸をするのと同じくらい当たり前なことらしい。いや、だからこそ男には人ならざぬ世界が見えるのだろう。
男はそれを仕事にしていた。誰もが、その男と映しだされた景色を賞賛してくれる。
そう、たった一人を除いて。
□ □ □
三月下旬の春の夜風はまだ冷たく、黄色の月も雲の隙間に隠れてぼんやりとしている。空気が眠っているから、こんな日はきっとうさぎも餅をつかずに、夜桜を肴に宴会でもしているのだろう。
こういうのもいいなあ、と大げさなくらい空を仰いで月を見ていた公博はそんなことを考えていた。そんな家までの帰り道。自分の写真のモチーフは花など自然を撮ることが多いが、誰にそれを押し付けられたわけでもない。両手の親指と人差し指でL字を作ると、即席のファインダーから朧月をとらえ、うん、と一言呟いた。
それを最後に、かけ足で我が家の茶色の屋根を目印に走り出す。アスファルトの大地には自然の姿はどこにもないけれど、鼻歌でも歌いたい気分で公博は地面を蹴った。
それから五分ほど過ぎた後。まだ若い公博の持ち家にしては大きすぎる自宅のドアを開けた。
「……お仕事、終わったの?」
久しぶりの展覧会の初日を終えて帰宅した公博を、ちょうどリビングに降りてきた花穂が出迎えた。
お気に入りらしい、袖が少し長い緑のチェックのパジャマは深い草原のようで、それを着ている花穂は文字通り一輪の花のようだ。小さくてもそこにいるだけでよく映える。
仕事のある日はいつも帰宅時間の遅い公博が、今日に限って早いことに花穂は目を丸くしながら言った。おかえりなさい、と。
水晶体の奥に兄の姿を捕らえたから、全てのものの輪郭が急にはっきりしてきたらしい。頬を赤く染め、落ちつきのない様子で自分の格好を確認し、朝からパジャマのままでいたのを恥ずかしがるように、襟元をきゅっとつかんで上目づかいに公博を見上げた。はずみで両耳にかけたサイドの髪がさらりと零れる。まるで花が風にそよぐよう。
「ただいま。今日は何が食べたい?」
苦笑を噛み殺して、ストレートなはずの髪を撫でつけてやる。四方八方にはねた黒髪が、寝相の悪さを無言で語っていたからだ。
公博は早く帰宅できた日には必ず、自分が料理を作ると決めていた。二人で相談して決めたルールではないが、それくらいのことをしてやるのが自分の役目だと思っていた。うまくできた例はひとつもないし、自己満足にすぎないのだが。
花穂は嫌がるそぶりは少しも見せず、静かにまぶたを閉じていた。
「……なんでもいい。兄さんがいてくれれば」
まぶたは開かれず、長いまつげが震えるだけ。凜とした声の奥にあるものは、一体何なのか。公博は花穂の言葉には明確には答えず、とりあえず着替えてこようか、と首を締め付けていたネクタイを緩めながら二人で一階を後にした。
公博にとって、妹が最愛なのには訳がある。
それは、家族と呼べる存在が花穂だけだからだ。二年前、両親が交通事故に遭ってから、それ以来ずっとだ。もっとも、それ以前からちょっと内気な可愛い妹であることに変わりはなかった。しかし両親の死は二人の絆を強めずにはいられなかった。花穂にとっても、公博は唯一無二の存在であったから。
「花穂、お皿取って」
着替えを済ませ、冷蔵庫に残っていた野菜やら肉やらを適当にぶちこんだシチューを前に、準備を頼んだ。うん、という返事に重なるように椅子が引かれる音と、食器棚のお皿がぶつかる音が公博の背中越しにも届いた。
いささか具がおそまつだが、こういう場合味は関係ないのだろう。公博はどこか楽しそうに鍋をかき回している。そこへ、ひょっこり花穂が顔を出す。兄さんお手製のなんでもシチューに目を輝かせつつも首を傾げ、おもむろに人差し指をつっこんだ。
「あ! こら花穂!」
危ないじゃないか、とぼやくが花穂はそ知らぬ表情でシチューの味を吟味している。
「兄さん、これ……ちゃんとルウ入れた? 薄くない?」
「ん、そうか?」
つられて公博も指を突っ込む。味はともかく、見た目よりも液体化していたシチューに顔をしかめる。
「買いに行くか?」
「ん、いいよ。今度がんばろう」
さりげなく花穂を外に連れ出そうと試みたが、やはり一蹴された。しかし自分でも買いに出るのは面倒だな、と思い直しやっちまったぞシチューを食すことにした。ご飯を花穂が盛り、シチューを公博が盛った。食卓の話題は終始、お互いの調子やらなにやらでくだらない事柄も含まれていたが、二人の表情に笑顔が絶えることはなかった。ちなみに結局、公博がおかわりをしたので二人で三杯をたいらげた。残りは朝、昼の分になるのだろう。
片付けも終え、一息ついてお茶をすすっているところで公博が言い出しにくそうに重い口を開いた。
家族の象徴でもある、湯のみ茶碗は二つ並んでいた。緑は公博で、薄い赤は花穂のもの。本当はあともう二つ色の違うものがあるはずだが、それはもう使われることはない。もう二度と。
「花穂、あ、あのさ」
「なあに?」
もう何度も繰り返した言葉だが、結果は違うのではと考えるたびに、喉が緊張してうわずった。テーブルの下で握っている封筒に手のひらの緊張が伝い、熱がこもった。他の誰かなら、こんなには緊張しないのに。でも他の誰かでは意味がないのだ。
「こ、これ今度の写真! ここに置いておくから。気にいったのがあったら言って」
そう言って、木目調のテーブルにパンパンに膨らんだ封筒を置いた。公博の言葉を受け止めるように、封筒の白はテーブルの木の色とよくなじんで見えた。
引き伸ばしてあるものは展覧会で飾られているものだけだから、中に入っているのは普通の写真と同サイズだ。簡単に手に取って見ることができる。しかし、言葉をかけられた少女はそれを拒否した。一瞬のためらいもなく。
「そんなの、ない」
まるではき捨てるような言葉。いや、それはどこか諦めているような口調でもあった。彼女の視線はそれを一瞥しただけ。ごちそうさま、と何かが鳴くような声で椅子から立ち、自室へ戻っていく。公博からは後姿しか分からなかったが、花穂の顔から笑顔は消えていた。ただ眉に皺をよせて、考え事をしているのか不機嫌なのか、誰にも読み取れない表情をしていた。
「そうか」
ただ、その一言だけ公博は絞りだすことができた。ゆがんだ顔は誰にも見られたくなくて、右手を額にあて頭を支えた。目前にちらつくのは、時間をかけて撮った四季折々の自然。公博はその衝撃に耐えられず、自分が愛する向こう側の世界を思った。
そこで、トントントン、階段を上る音がふいに止まった。
「おやすみなさい、兄さん」
「あ、ああ。おやすみ」
そこでようやく顔をあげた公博は気づいていなかったが、口もとは自然と上がっていた。段の途中で振り返り、兄の返事を聞いた花穂の口角も少しだけ上がっていた。
公博も自室に戻った頃。
誰もいない暗いリビングの食器洗い機の中では、色違いの湯のみ茶碗が二つ。音もなく寄り添っていた。濡れたままのそれらは、するりとひとしずく涙を流した。
初の連載、三人称、男性視点と初めてなことだらけです。更新はスローペースかと思います。しかし作品の雰囲気はこれまでとあまり変わらないかなと思います。
お気に召しましたら、どうか最後までお付き合いください(^−^)