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作者: 毬藻

 ダン、ダン、ダン…。

 巧みにバスケットボールを操る手の動き、とても滑らか。

 スピードを増すドリブル。

 彼は体格の良い体を素早く動かしながら、バスケットゴールへ近づいてゆく。

 と、シュッと彼の手から放たれたボールは、一気にゴールへ吸い込まれた。

 ダンッ…。

 落下したボールは一度だけバウンドし、再び彼の手へ戻る。

 その一連の動きに、あたしは思わず見惚れていた。

 何て美しい。

「吉川先生」

 あたしは静寂を切り裂いて声を掛けた。

 吉川は再びボールを操ろうとした手を止めて、体育館の入り口、つまりあたしの立っている方を振り返る。

「お前は…」

「2-Aの今井です。先生、バスケなんてやるんですか?」

「ああ、見てたのか。まあな、学生時代少しやっていた程度だが…」

「すごい、何か…びっくりしました」

「ああ…、放課後、内緒でやってるんだけどな。言うなよ。…つーか、お前、何でこんな所にいるんだ?用がないならさっさと」

「あ!あの、体育の時体育館シューズを置き忘れたっぽくて」

 吉川の小言が始まる前に、体育館に立ち寄った本来の目的を思い出して咄嗟にそう告げる。すると吉川は、ゴールの下に置かれていた紺色のシューズ入れを手に取ってあたしの方へやって来た。

「2-A、今井…これだな。後で忘れ物の届け出をしに行こうと思っていたんだ」

「コレです、ありがとうございます!」

 吉川がシューズ入れを差し出す。大きな手。ふと顔を上げると、額に汗を浮かせてあたしを見る吉川と目が合った。

 ドキドキする…。

 高鳴りだした心臓に気づいて、あたしはサッと目を逸らし、それを受け取った。

「…先生は、まだ帰らないんですか?」

「いや、もう片付ける。それより、次は忘れ物するなよ」

「は、ハイ」

 そう返事をした時には、吉川は既にあたしを見ておらず、背を向けて歩き出していた。あたしはぼんやりと、まだ若いその後ろ姿を見つめながら、先ほどの綺麗な吉川のシュートを思い出していた。




「今井、今井」

 朝のホームルームが終わり、しばしの休憩時間。後ろの席からあたしを呼ぶ声がする。

「なあに?」

 振り返ると、友人の安田がコソコソと、秘密話といった感じで話しかけてきた。

「知ってるか?今日6限抜き打ちで生活指導やるらしいぜ」

「マジ?ってことは、服装チェック?」

「マジマジ。クラスごとに回ってくるらしい。しかーもその担当が吉川と楠田っていう、冷酷コンビッ。ありえねーっしょ」

「…吉川」

 何だか最近、吉川の名前に反応してしまう。

 吉川は校内の生活指導部長だ。特に服装にはかなり厳しく、生徒内での評判は決して良いとは言えない。加えて愛想も悪いときている。

 どちらかと言うと、あたしも苦手な部類の先生だった、はずだ。それでも、今のあたしは、それだけじゃない吉川の姿を知ってしまった。

「何。今井、そんなに吉川嫌いだったっけ?」

 あたしが黙り込んだのを見て、安田はそう勘違いしたようだ。

「ううん、違うの、そうじゃなくって…」

「何よ?」

「…や、何でもない」

「はぁー!?」

 思いっきり変な顔をされた。

「うんと…、いっそ最高にスカート短くしたら、どうかな?」

 あたしがそう言うと、ノリの良い安田はウハッ!と笑って、

「いいねチャレンジャー。俺そういうの、嫌いじゃない!」

と喜んだ。バカみたい。つられてあたしも笑う。

 それでも胸の奥では、放課後を楽しみにしている自分がいることにも、ちゃんと気がついていた。




 とはいえ、実際にそんな格好で服装チェックを受けるわけにもいかず、真面目に膝下までスカートを下ろし、髪も縛ってきちんとした校則スタイルで6限を迎えた。

 時間中は、ソワソワしながら窓の外を眺めていたが、あたしのクラスにやって来たのは吉川ではなく楠田だった。何だか気が抜けて、物足りなくて、吉川に会いたいと思った。

(こんなのあたし、恋してるみたいじゃない?)

 確かに、あの日の放課後、体育館で、あたしは吉川のバスケ姿に目を奪われてしまった。

 あれから、気が付いたら吉川のことを考えてしまう。

(恋なの?)

 たったあれだけのことで?

 …誰かを好きになるのに、そう大した理由なんて無いのかもしれないけれど。あたしの場合は、いわゆる『一目惚れ』ってやつなのかもしれない。

 そう思うと、この妙なドキドキに対しても、何だか納得できてしまう気がした。

 吉川のあの姿が、頭から離れない。

 もっと吉川のことを知りたいと思った。あの時の吉川の姿は美しく、綺麗だったのに。なぜだろう。それはどこか、寂しそうに見えた。




 放課後、再び体育館を覗いてみる。

 あたしの学校には2つ体育館があり、一つは体育の授業だけで使用されている小さめのもの、もう一つは学年集会や部活動で使用されている大きめのもの、と区別されている。その中であたしが覗いたのは、前者の方だ。

 ダン、ダン、ダン…。

 音が聞こえてくる、この前と同じような。

 ゆっくりと、ばれないように重たい扉を開けた。動いている人影…吉川だ。

 相変わらずキレの良い動きである。自由自在にボールを動かして、慣れた手つき。

(吉川はバスケが好きなんだろうか)

 何となく疑問が浮かんだ。でないと放課後たった一人でこんなことするはずがない。バスケ部の顧問でもなかった筈だし、体を動かす機会もないからこんな所で密かにやっているんだろうか。

 勝手に想像を巡らしながらも、あたしの目は吉川に釘付けだった。

(やっぱり、格好良い…!)

 ジャケットを脱ぎ、シャツにネクタイという一見不釣り合いのような姿でバスケに打ち込んでいる吉川の姿は、不思議にもこの体育館の中に一体化して馴染んでいるようにも思える。

(もっと近くで見たい…)

 そう思い扉にかけた手に力を入れたとき。

「今井?」

「!!」

 ドキンッ、と心臓が大きく跳ね上がった。思わず叫びそうになるのを何とか堪える。

「や、安田!?」

 振り返ると、カバンを肩にかけて不思議そうに突っ立っている安田と目が合った。

「なーにしてんの?」

「い、いやっ…」

 マズい。いや、マズくは無いのだけれど、何だか焦った。別に悪いことはしていないのだが、嫌なところを見られたと思った。

 安田はツカツカとこちらへやって来て、扉の隙間からあたし越しに体育館の中を覗いた。

「…吉川?」

「そ、そう。バスケしてんの、偶然発見しちゃってさ~っ、意外じゃないっ?」

「へ~、結構、上手いジャン」

「でしょっ、あたしも、ビックリしてさ~」

 何とか誤魔化そうとして、そんな事を言った。安田も驚いているらしく、扉の隙間から覗き続けている。

「ほうほう、ナイスシュート」

「てか、安田今から帰るの?」

 早くここから立ち去りたくて、あたしは急いで話題を変えた。

「おう、そうそう。今井は帰んねーの?」

「あっあたしも今帰るとこ!途中まで一緒に帰ろうよ!」

「いいぞー」

 そうしてコッソリ扉を閉めて、何とかあたしはその場から離れることができた。安田はノー天気な奴なので、あたしの下手な演技にも気づかなかったようだ。

 駅で安田と別れた後、ゆっくり歩きながらあたしは吉川のことを考える。そうして、次第に胸がドキドキと高鳴りだすのを認識しながら、あたしは小さく呟いた。

「吉川のことが、好き…」




 言葉にすると、本当にもうそうとしか思えなくなってしまう。

 学校ですれ違うとき、遠くから姿を見つけたとき、それだけで嬉しい。あたしと吉川は、特別に仲が良い訳でもなく、何か理由がなければ話す機会なんて無いぐらい、本当にただの『教師と生徒』でしかない。それでもあたしは、他の皆が知らない吉川のバスケットをする姿を知っている、それだけで幸せだった。

 それからもあたしは時々、放課後体育館へ覗きに行って、吉川の姿を眺めた。

 客観的に見れば、あたしはただの変人と怪しまれて当然なのかもしれない。それでもあたしは、そんな事を考える余裕もないくらい、吉川に夢中だった。




 そんな生活がひと月程続いたある日。

 授業も終わり、教室の掃除も完了して帰ろうとすると。

「今井ー」

 いつものようにあたしを呼ぶ声。

「なあに?安田、帰んないの?」

 席に着いて、椅子をガコガコと鳴らしながら、安田は「まぁまぁ」という風に手招きした。

「そんなに急いで帰る必要もねえじゃん?まぁ俺に付き合いなさいよ」

 ヘラヘラッと笑う。

「別にいいけど。なぁに?また補習かかった?」

「あらっバレたの?」

「バレバレだよ」

 よくこんなことがある。あたしは再びカバンを置いて、席に座った。

「日本史」

 安田が出してきたプリント計三枚は全て日本史のもの。数学や化学の点数は良いのに、どうやら安田は暗記物が苦手のようだ。

「マージだるいよなぁ。一枚くらい手伝ってよ」

「いいけど。その代わり、何か見返りあるんだよね?」

「ゲッ、そんなこと言うなよぉ」

 そう言いながらも、あたしはプリントを一枚取って、教科書を見ながら書き込んでいく。その間に教室内に残っていたクラスメイトも数を減らしていき、終いにはあたしと安田の二人だけになった。そんな中、しばらく二人で黙々とそれに取り組んでいたが、ふと、安田が手を止めて呟いた。

「そういえば、吉川はまだ、放課後バスケやってんのかな」

「…え?」

 急にその名前が出てきたことで、すっかり勉強モードになっていた思考回路が一斉に急停止してしまった。

 突然何を言い出すんだ、こいつは…。

「や、何か、思い出してさぁ。吉川って、放課後のたびにあんなことやってんのかなーって」

「あぁ…」

 いつもやっている訳じゃないけど、あたしが時々覗きに行ったときは、そういう時が多い。

「まー意外だよなー。吉川って、確か38歳だろ?年の割には、よく動くよなあ」

「うん、上手かったし」

「それにも一個意外」

「え?」

「今井って、オヤジ趣味なんだな」

「!?」

 ギクリとして顔を上げると、安田は笑っているような、怒っているような、複雑な表情であたしを見ていた。

「何それ?」

「図星?だよなぁ、だってお前、よくあいつの姿覗いてるもんなぁ」

 思わず頬がカッとなった。はめられた。

「男の趣味悪ィよ、今井」

「趣味悪いのは、安田の方じゃん」

 あたしが吉川を見ていること。ずっと知ってて、黙ってた。それでこんな風にあたしをからかって。

「そう言うなよ。俺だって、確信があった訳じゃねーんだからさ」

 それでも、あたしは安田を睨みつけていた。恥ずかしさと腹立たしさで、何と言っていいのか分からなかった。

「…悪かったよ」

 あたしの視線に耐えられなくなったのか、安田は頭をガリガリと掻きながら呟く。

「でもあいつ…、結婚してるだろ」

 素朴な疑問。そう、吉川は結婚している。

「でも。好きなの」

 あたしは言った。安田には、きっと馬鹿だと思われるだろうけれど。

「じゃあさ。お前は、吉川のどこが好きなの?どうせ、見た目しか知らねえだろ。中身は?全部含めて好きって言える?」

 安田は至極全うな事を聞いてきた。その通りだ。あたしは吉川のバスケ姿しか知らないし、特別大した繋がりも無いのだから、吉川の中身なんて知りようが無い。

「…分からない。でも、あたしは吉川のことが気になるの。真剣なの。あたしは吉川の姿を見ていたくて、それだけで幸せだって、思えるの。…おかしいかな?」

 真っ直ぐ、安田の顔を見た。

「おかしく、ねぇけどさ。…それじゃ駄目だろ」

「駄目、か」

「…、駄目ってわけでもねぇけどさぁ。あー、何つーんだろ」

 安田は困った顔をして、また頭をガリガリと掻いた。

「俺としては、悔しいんだよな」

「?」

「あのさ、前に、俺が今井に告ったの、覚えてる?」

「え?あ、うん…」

 丁度一年くらい前だろうか。今程あたしと安田は仲も良くなかったが、クラスも同じで、知り合い程度の関係だった。

 そんな時に安田に告白されて。あたしは安田を振ったけれど、その後もなぜか安田は変わらずあたしに接してきて、気まずくなることもなく、こうして今でも付き合いは続いている。

「ずっと今井の近くにいてさ、あわよくばってチャンス狙ってた訳なんだけど。まさか、あんなオヤジに負けるとはなーって」

「何それ」

 思わず笑ってしまったが、安田は真剣だ。

「だからさ。そんな叶わない恋をわざわざしなくても、いいんじゃないかなーと思う訳。もっと身近な、例えば俺とかさ、いるわけだし、今井にはもっとそういうところを見てほしいんだよ」

 冗談みたいに軽く言っているけれど、安田は本心からそう伝えてくれているのだろう。だからあたしもこれ以上、笑って誤魔化すことなんてできなかった。

「あのさ、吉川のことだけどさ」

 少しの沈黙の後、安田が話し出した。

「うん」

「俺数学の木村と結構仲良いからさ、聞いたんだよ、吉川について。あいつの家庭事情みたいなもん。…今井があいつのこと気にしてるから、余計なお世話かもしんねーけど、俺も気になってさ」

 安田はバツが悪そうな顔をしてあたしを見た。あたしは無言で続きを促す。

「吉川には一人息子がいるって聞いたことあったから、俺は気軽に、吉川先生の子どもってどんな子なんですかーって聞いたら。木村、困った顔してさ」

 そこで少し、間があった。

「息子、半年前に交通事故で亡くなったんだって」

「!」

 一瞬、時間が止まったみたいな気がした。途端に心臓が、ドクドクと早鐘を打ち出す。

「話題になるとややこしいから、生徒には知らせてないみたいだけど。でも先生達にも、そういうことはあんまり聞くなって言われた。んでさ、俺何かピンときて、放課後吉川が一人でバスケしてることと、何か関係あるのかって、聞いてみたんだ」

「…まさか」

「木村は、そんなこと知ってたのかって驚いてた。木村も詳しいことは知らないみたいだけど、吉川は休日に息子とよくバスケしてたみたいだし、放課後バスケ始めた時期も、息子の事故の時期と重なってたから、きっと何か関係があるんだろうって。だから、放課後第一体育館って閉鎖されるんだけど、吉川には注意しないんだって」

「…そう、だったんだ」

 何とか返事をしたけど、突然のことで頭がパニックに陥っていた。胸が、苦しい。吉川にそんな事情があったなんて。

 分かっていたことだけれど、あたしは吉川のことを本当に何も分かっていなかった。今までずっと吉川のことを見てきた。けれどあたしが気づいたのは、吉川のバスケ姿が何だか寂しそうって事だけ。

 本当にそれだけだ。

 知らずにいたことが大きすぎて、あたしは自分が本当にどうしようもない女だと思った。

(こんなので何が、吉川の事が好き、だ!)

「今井」

「あたし馬鹿みたいだと思ったでしょ」

 何でもない風に安田の方を向いて言ってみたけど、泣き笑いのような顔になってしまった。

「馬鹿じゃねぇよ」

「馬鹿だよ」

 あたしは一人で盛り上がって、吉川の何にも見ようとしていなかった。だからこんな事が起こるんだ。

「あーもう、俺、そんなつもりで言ったんじゃねえんだよ…」

 驚いて顔を上げると、安田が頭を抱えて苦い顔をしている。

「安田、ごめん」

「いや、違、俺、今井困らせたい訳で言ったんじゃなくて、お前のために…、って、言い訳だな、コレじゃ」

「ううん。分かってる、…ありがとう。ちょっと、苦しいけど、この事聞けて良かった」

 チラ、と安田があたしの顔を見る。あんまり笑えないけれど、あたしは無理矢理笑顔を作った。

「…おう」

 安田はハァッと大きく溜息を吐いて、椅子の背に思いきりもたれこんだ。

「これ言えば、今井が吉川のこと諦めるって期待したら、俺馬鹿かな?」

 これ、というのはさっきの吉川の事情の事だろう。あたしは笑った。

「どっちにしろ、あたしは吉川とどうこうするつもり無いんだから」

「諦めるつもりもないって?」

「……」

 分かってる。吉川のことを好きでいたって、あたしには何の得も無いこと。吉川を見てるだけで幸せなんて言ってるけど、本当にあたし、それでいいの?この先も、それで満足できるの?

 あたしは何も知らなかった。今聞いたのはほんの少しの事情で、あたしはどうしたって吉川の全てを知ることなんてできない。吉川の中にある辛さや苦しみ、寂しさを本当に分かってあげられるのは、あたしなんかじゃないんだから。

「安田」

「ん?」

「あたし、今から体育館行ってくる」

「は!?」

 突然のあたしの宣言に、安田は文字通り目を丸くして、あたしを凝視した。

「今井、何をイキナリ…」

「吉川、いるかどうか分かんないけど、会ってくる。会いに行って、自分の気持ちにケジメつけたいの」

「ケジメって…」

「吉川の事見に行くの、これでもう最後にするの。…上手く、説明できないけど、今頭の中で考えてて、分かった。軽い気持ちで、誰かを好きなんて言っちゃいけないって」

「…それでいいのかよ?俺が言うのもなんだけど…、後悔しねえか?」

 安田の真剣な瞳。あたしの事をちゃんと考えてくれているんだって、分かる。

「当たり前だよ。大丈夫、今を逃すと、何か駄目な気がする」

 そう、今なら出来そうだ。吉川に囚われなくたって。

「そうか。…じゃあ俺、ここで待ってるよ、今井が帰ってくるの。だから、ちゃんとケジメつけてこいよ」

「うん。ありがとう、安田。じゃあ、ちょっと、行ってくるね」




 安田が少し、心配そうな笑顔をしながらも手を振ってくれたのを確認し、あたしは急いで教室を出た。いつもより時間が遅い。もう帰っているかもしれないし、今日はそもそもバスケなんてしていないかもしれない。

 会って何をするなんて、何も決めていなかった。ただ、あたしはいつも吉川の姿を覗いて見ていただけだったから、最後はせめて話をしたいと思ったのだ。

 第一体育館へ続く通路に出る。そこは校舎と体育館を繋ぐ、セメントの廊下でできている。屋根はあるが、周りを木々が囲んでいるため枯葉や砂が足元で踊っていた。

「寒…」

 風が強い。通路を走って通り抜け、体育館前の階段を一段飛ばしで登った。

 ダン、ダン…。

 聞こえる。吉川がいるのだ、と一安心したが、途端に心臓が早くなる。

 ドクドク、ドクドク。

 それでもゆっくり扉を開けた。吉川がゴールまでドリブルの加速を上げているところだった。

 ダン、ダンダン…!!

 体育館に入り、静かに扉を閉める。照明は必要最小限で、吉川はその中にハッキリと姿を浮かび上がらせていた。

(やっぱり綺麗だ)

 と、吉川はシュートに行く手前で、唐突に体育館の入り口に目をやった。動きが止まる。

「…何してるんだ」

 ボールを抱えたまま、そこに立ち止まってあたしを見ている。

「ええと…」

「またシューズでも忘れたのか、今井?」 

 一瞬あたしはポカンとした。今井…、って。

(名前、覚えてる?)

「俺は生徒の顔と名前は忘れんぞ」

 あたしの思考を読んだみたいに、吉川はそう答えた。それであたしは何だか可笑しくなって、つい笑ってしまった。

「何だ」

「あはは…、いえ、何にもないんですけど…。あと、今日はシューズじゃなくて、見物です。先生の」

「…はぁ?何言ってるんだ」

「まあまぁ、何でもいいんです」

「……」 

 吉川の不思議そうな視線を感じながら、あたしはバスケットゴールの近くに立って、上を指差す。

「シュート、見せてください」

 あたしがそう言うと、吉川はその場からほぼ動かずにゴールに向き直り、両手を振り上げた。

 ストンッ…。

「わぁ、見事なスリーポイントシュート!」

「お前もやりたいのか?」

 吉川がボールを拾いに近くへやって来る。

「いえ、あたしはイイですっ」

 運動音痴なあたしは焦って手を振る。吉川のシュートは完璧だった。きっと現役時代は結構な実力を持っていたんだろうなぁと推測する。

「そうか?」

「先生、そういえばどうして…」

 あたしはここへ来たときからずっと聞こうか聞くまいか迷っていたことを、つい口にしてしまった。

「どうして放課後、バスケしてるんですか?」

 ボールを拾った吉川が、あたしに背を向けたまま立ち止まった。

 さっきの安田の話は事実だろう。だからあたしは、何となくだけれど、この問いの答えを想像できる。吉川の口から直接真実を聞くことに、何か意味なんてあるのだろうか。

 言ってしまって後悔した。だけどもう取り消せない。

 吉川は後ろを向いたまま黙っていた。俯いて、バスケットボールをじっと見ていた。

 耐えられず話を逸らそうとしたとき、吉川の声に遮られた。

「息子がさ、バスケが好きなんだよ。自分と同じでさ。小さい頃から教えてたからな、随分上手になった。それで、俺は相手をしてやらなくちゃいけないから、俺も上手くないといけないんだ。だからこうして…、一人でこっそり練習しているんだ」

 そこで吉川は言葉を切り、また歩き出した。ゴールの前に戻る。

「そう、ですか」

 吉川にとっては、それが『真実』なのだろう。振り向いた顔は先程と何も変わらない、無表情だった。

「でも、もうやめようと思う」

「え?」

 驚いてあたしが吉川の方を見ると、吉川は手に持ったボールを弄びながらゴールを見つめていた。

「もう、な。あいつは俺がいなくても、十分やっていける気がするんだよな。だから俺はもう、こんなことをする必要は無いんじゃないかと思うんだ」

「……」

 これは、吉川にとってのケジメだろうか。吉川はもう、半年前の事故の事から…息子の事から、立ち直ろうとしているのかもしれない。

「…今井も。こんなとこで、俺と道草してたら駄目だぞ」

 吉川の真直ぐな目。

 その視線に射抜かれて、あたしはハッとした。

 もしかして吉川は、あたしがずっとココで吉川の事を覗いていたことを知っていたんじゃないだろうか。

 そしてあたしの、吉川への気持ちにも気づいて、いた?

 唐突に、吉川があたしにバスケットボールを投げてきた。

「わ!」

「一回くらい、投げてみろ」

 穏やかな声で、吉川が告げる。あたしは仕方なく、ゴールの一直線上の位置へと移動した。

 硬い、オレンジ色のボール。深呼吸して、ゴールの位置を確認しながらボールを放つ。

「え」

「ブッ」

 ボールはゴールに掠りもせず、その手前で飛ぶのを止めて力無く着地した。

 ダン…。

「アッハッハ、全然、駄目だなァ…」

 振り返ると、呆れたように笑いながらあたしを見る吉川と目が合った。

「その位置で外すか?」

「え、ええ?」

 頬が熱くなるのを感じる。そしてあたしは呆けていた。吉川の笑顔から、目が離せなかった。初めて見た。あたしだけに対して向けられた、吉川の笑顔。

 何て嬉しいんだろう。

 何て泣きたいんだろう…。

「見本、見せてやる」

 そう言って、吉川は錆付いた鉄カゴに積まれているバスケットボールを取りに背を向けた。

 あたしの投げたボールは転がったまま。

 そのボールを見つめながら、あたしはただぼんやりと、その場に突っ立っていた。

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