頼まれるということ
最初は、
本当に些細なことだった。
「藤原、悪いんだけど」
昼休みの終わり、
席を立とうとしたときに、
後ろから声をかけられた。
振り返ると、西園寺由紀が立っていた。
手には、プリントが数枚。
「これ、職員室に出してきてほしい。
私、次の授業の準備あるから」
頼み事だった。
「いいよ」
即答だった。
彼女は一瞬だけこちらを見て、
「ありがとう」と言った。
その言葉が、
必要以上に胸に残った。
職員室までの廊下を歩きながら、
僕はプリントの角を指でなぞっていた。
——頼まれた。
それだけのことなのに、
足取りが、少し軽くなっているのが分かった。
次は、放課後だった。
「藤原、これ持って帰れる?」
重そうな画材袋を指して、
彼女が言った。
「今日、部活あるでしょ」
「うん」
「じゃあ、ついでに」
ついで、という言葉は、
なぜか気にならなかった。
むしろ、
自然な流れのように感じられた。
帰り道、
同じクラスの男子が、
その様子を見て言った。
「お前、便利だな」
「そう?」
「西園寺、
完全に使ってるだろ」
笑い混じりの言い方だった。
「別に」
僕はそう返した。
「小学校のころから、
こういうの多いし」
「へえ」
男子は少し考えるような顔をした。
「でもさ、
頼まれるのって、
信頼されてるってことじゃね?」
その言葉に、
胸の奥が、静かに反応した。
信頼。
家に帰って、
画材袋を玄関に置いたあとも、
その言葉が頭から離れなかった。
次の日も、
彼女は僕に声をかけた。
「藤原、
今日の委員会、先生にこれ渡しといて」
「分かった」
理由は聞かなかった。
聞く必要がないと思った。
昼休み、
彼女が友達と話している横を通るとき、
視線が一瞬だけ合った。
それだけで、
十分だった。
別の日、
彼女はクラスの女子にこう言っていた。
「それ、藤原に頼めばいいよ」
名前が出たことに、
胸が少しだけ熱くなる。
「藤原なら、やってくれるでしょ」
女子がそう言って笑う。
彼女は否定しなかった。
それが、
何よりの証拠のように思えた。
頼まれる回数は、
確実に増えていった。
プリント。
荷物。
連絡事項。
ちょっとした確認。
どれも、
特別なことではない。
それでも、
彼女が僕を選ぶ理由があるように感じられた。
ある日、
思い切って聞いてみた。
「……なんで、
いつも俺に頼むの?」
彼女は少しだけ驚いた顔をして、
すぐに首を傾げた。
「近いから」
それだけだった。
「それに、
断らないでしょ」
その言い方は、
悪気がなく、
ただ事実を述べているだけだった。
「……まあ」
そう答えながら、
胸の奥で、別の言葉に置き換えていた。
——断らない。
——任せられる。
——頼られている。
それは、
誰にでも向けられる態度じゃない。
そう思いたかった。
夜、机に向かい、
日記を開いた。
今日の出来事を、
箇条書きのように並べる。
頼まれたこと。
「ありがとう」と言われたこと。
名前を呼ばれたこと。
最後に、
一行だけ書き足した。
「必要とされている」
その言葉を書いた瞬間、
胸の奥が、
静かに満たされていくのを感じた。
この時の僕は、
まだ知らなかった。
「使われること」と
「選ばれること」が、
全く別の意味を持つことを。
そしてそれを、
自分から区別しない限り、
誰も教えてはくれないことを。




