作者を消せ!
小説を書いていて、いつも自分に言い聞かせていることがあります。
『作者を消せ!』
どういうことかというと──
たとえば三人称の書き方で、次のような文章があるとします。
『女が立っている。痩せた女だ。その姿は寂しそうで、まるで誰かを待ち続けているように見えた。』
ここで私は引っかかるんです。
誰の目に寂しそうに見えたんだ?
作者の目に?
私の目から見たらもしかしたら楽しそうに見えるかもしれないぞ!?
あまのじゃくですみませんm(_ _)m
では次のようにしてみたらいかがでしょう?>私
『女が立っている。痩せた女はタカシの目にはあまり魅力的には映らなかった。しかし寂しそうに見えたので、タカシは傘を差し出すと、雨の駅前ということもあり、「誰かを待っているんですか?」 と声をかけた。彼女があまりにも長くそこにいるような気がしたのだった。』
これだと作者が消えて、タカシにそう見えたということになります。これなら私も納得します。
私はどうも作者の語ってる顔が見えてしまうと質問したり反抗したりツッコんだりしたくなるので、このほうが作品世界に没入できます。
また、何かの主張みたいなものを作品内に入れる時──
『いじめはいけないことである。いじめる側が100%悪いのだ。そんなことは誰でもわかっているのだと信じたい。しかし、録嗚未は言った。「いじめられる側にも原因はある」と。なんと慈悲の心のない人間がいたものであろうか。』
これだと作者の主張がそのまんま作者の主張として作品になっていて、それに同意できないひとは何も言わせてもらえません。
私みたいなあまのじゃくはここで読むのをやめてしまうかもしれません。
次のようにしたら、どうでしょう?
『「いじめはいけないことなんだ!」
タカシは言った。
「いじめる側が100%悪いんだ。そんな当たり前のことは誰でもわかっているのだと信じたい!」
録嗚未はそれを聞くと、真面目な顔をして、自分の意見を口にした。
「いや、いじめられる側にも原因はある」
なんと慈悲の心のないやつだとタカシは思った。
こんなやつがこの世にいるなんて、信じられない──と。』
作者が実際にタカシのような考えをもっているとしても、この形だとそれを主張してるのは作者さんではなく、タカシです。
このほうが押しつけがましさがなくなっていいと私は思います。また、物語ももしかしたらタカシの主張に反して意外な方向に進むのかな? などと興味をもってしまいます。
一人称小説でも『主人公の言うこと=作者の主張』みたいなのが私は苦手です。色んな登場人物がそれぞれに主張することが違って、どれが一番正しいというわけでもないみたいなのを私は書きたいです。
とにかく──
作者を消せ。
おまえなんかただのバカなんだから!
おまえの目に見えるものがすべて正しいわけじゃないんだぞ!
私はそう心がけています。
そう言っといて、私は作品の中に自分を出すことがよくあります。
登場キャラの一人として、あるいは『作者がツッコんだ』みたいなメタ形式で。
でもその場合でも作品の『神』としての作者がなるべく偉そうにでも全知全能でもないように出します。作者はその場合、作品を書いてる存在ではなく、作品の中に放り込まれる存在なのです。
だって作者なんて消えたほうが、みんなのびのび動けるやん。