時間逆行
「……ど、どうして……」
アナトリア・エーメレ・ユプラーシャは姿見を前に、体を震わせていた。
腰まで波打つ銀色の髪に、琥珀色の円らな瞳。ふっくらとした頬は薔薇色に色づく。
(どうして私、子どもの姿なの……)
記憶ではつい昨日までアナトリアは二十歳の大人の女性。
それも、流行病にかかり、何も食べられず、飲むことさえできず、死の淵にあったというのに、鏡にうつるのは健康的な少女。
(夢? 夢なの?)
しかし頬を抓っても痛い。
起きなきゃ、起きなきゃと目を閉じて念じ、恐る恐る目を開けてみても状況は変わらないまま。
その時、扉をノックする音に振り返った。
「お嬢様、起きていらっしゃいますか?」
「……」
「お嬢様?」
アナトリアは「え、ええ」とぎこちなく返事をした。
「おはようございます、お嬢様」
メイドたちがしずしずと部屋に入ってくる。
「間もなく朝食の時間ですので、身支度を調えさせて頂きます。すでにお風呂の準備も整っておりますので、こちらへ」
ぎこちなく頷くアナトリアはメイドに連れられ服を脱がされ、風呂へ入らされる。
髪や肌の手入れをしっかり行い、風呂から上がると幾つものドレスを見せられた。
アナトリアが選んだのは、子どもの頃にお気に入りだった黄色いドレス。
(このドレス、間違いなく私が子どもの頃に着ていたものだわ)
見た目の装飾も、肌触りさえも、記憶にあるのと寸分違わない。
ドレスを着せてもらい、それから髪に櫛を通される。
「……今年は何年?」
「はい?」
「今年よ。何年なの」
メイドはいきなりの変な質問に少し困惑しつつも、
「帝国暦六五〇年の四月十日でございますが」
と答えた。
アナトリアはごくりと唾を飲み込んだ。
間違いない。アナトリアが生きていた時代の十四年前。
つまり、アナトリアはなぜかは分からないが六歳になった――いや、正しくは時間を遡った、というべきか。
どうしてそんなことが起きてしまったのか分からず、全身から血の気が引いてしまう。
「お嬢様、顔色が……。大丈夫ですか? お医者様に来て頂きますか?」
「い、いえ。大丈夫よ。ちょっと嫌な夢を見ただけだから」
アナトリアはぎこちない笑みを浮かべた。
メイドに手を引かれ、二階の自室から一階の食堂へ降りていく。
食堂の扉が開かれた瞬間、逆行前ではほとんど交流の失われた家族の姿があった。
父のジギスムント、母のユリア、そして兄のグレンである。
グレンは一つ年上の七歳。父親譲りの短い銀髪に、母と同じ青い瞳の小利口そうな少年。
「おはよう、アナ」
グレンが声をかけてくれる。
「お、おはよう……ございます……」
アナトリアは家族の視線を受け止めきれず、目を伏せた。
家族たちを見ると、心臓がバクバクと嫌な音をたて、全身から冷や汗が吹き出し、足が竦んで動けなくなってしまう。
兄が突然立ち止まった妹を心配して顔を覗き込んでくる。
「どうしたんだ? 顔色も良くないし、風邪か?」
「え……」
グレンの言葉に、アナトリアは耳を疑った。
グレンだけではない。
その場に同席した両親も心配そうにアナトリアを見つめてくる。
「たしかに顔色が悪いな」
「いけないわ。すぐお医者様を……」
(みんなが、私を心配……?)
逆行前ではありえなかったことに困惑していたが、すぐに自分がまだ六歳であるということを思い出す。
「へ、平気。ちょっと怖い夢を見ちゃって」
アナトリアはぎこちない笑みまじりに、使用人に話したことと同じ事を口にする。
「なあんだ。びっくりさせるなよ」
グレンがほっと息をつく。
「やっぱり六歳で一人部屋はまだ早かったかもしれないわね」
ユリナが笑顔を浮かべ、頭を優しく撫でてくれる。
温かな家族たち。
しかしアナトリアは知っている。
四年後、家族たちの笑顔が失われ、もう二度と見ることがないことを。
十歳。それは貴族に生まれた者にとって重要な年齢。
その年に、教会で魔力量の測定が行われる。
魔力が多ければ多いほど将来の展望は大きく、そこで人生が決まってしまうと言っても過言ではない。
アナトリアが生まれたユプラーシャ公爵家は新興貴族。
三代前に天才と謳われた魔法使いが国内の災いを退けた英雄と讃えられたのを機に、爵位を授かり、高位貴族の仲間入りを果たしたのだった。
魔法使いとは、超常の力──魔法を使役する特別な才覚を有する存在である。
魔法とは空気中に含まれる、マナと呼ばれる力を体内に取り込み、魔力へ変換、それを力として顕現させ、現実世界へ干渉する力のこと。
当然、アナトリアにも相応の期待が寄せられた。
しかし結果は、ゼロ。アナトリアは家族で唯一、魔力がなかったのだ。
それまで大切に大切に育てられた生活は一変し、家族からは無視され、使用人たちからは邪険にされた。
挙げ句、軟禁状況に置かれる羽目になる。
(まだ四年もあるとはいえ、このままじゃ……)
前世と同じ苦しみを抱えることになってしまう。
(どうしてこんなことになっちゃったの? 家族から見放される地獄をもう一度体験しろということ? 誰がこんなことをしたのか知らないけど、私はそんなに悪いことをしたの!?)
これはきっと悪魔が、アナトリアを苦しめようとした所業に違いない。
もう十分すぎるほど苦しみ続けた人生だったというのに。
魔力量が足りないだけならば、技術を磨けばどうにか生き抜くていくことは可能だ。
そもそも魔力があるということだけで、この世界は特別なことなのだから。
しかしそもそも魔力が存在しなければ、努力も無意味だ。
「……お父様、やっぱり休みます」
気分が悪くなり、とても朝食を食べる気分にはなれなかった。
「すぐに医者を」
ジキスムントは家令に命じた。
※
公爵家の専属医の診断を受け――もちろんどこも悪くないから、しばらく様子を見ようと言われただけ――、部屋で休んでいる。
こうしてベッドに横になっていると、逆行前のことを思い出す。
逆行前、無能者という貴族としての最底辺の評価を受けたアナトリアは家族に邪険にされ、物置のような部屋で閉じ込められ、過ごした。
食事はどれもこれも粗末で、いつもお腹が空いていた。
食事が傷んでいても飢え死にするよりはマシだったから、何でも食べた。
泣いて暮らし、やがて涙を流す気力さえなくなったアナトリアにもたらされたのが、突然の縁談。
アナトリアが無能者であるということはすでに社交界で有名なことであり、そんな人間を娶る物好きなどいるはずがなかった。
さらに聞かされた名前に、耳を疑った。
ルキウス・アルプ・クラウディウス。
グリプス帝国の建国者の弟を先祖に持つ、クラウディウス大公家の嫡男。
目の覚めるような美しい金髪に、燃えるような紅い瞳の貴公子にして、わずか六歳にして魔力に目覚めた『妖精の愛し子』。
妖精の愛し子というのは、強い魔力を持つ子どもの総称で、ルキウスは百五十年ぶりの愛し子だったらしい。
そもそも魔法という力は、もともと人間に備わってはいなかった。
伝説によれば、賢者トロイアと森に住まう美しき妖精シュラクが恋に落ち、その二人の間に生まれ落ちた人の外見と妖精の特別な力を持つハーフリングが、全ての魔法使いの源流であると言われている。
そして稀に先祖であるハーフリングに匹敵するほどの力を持つ子どもが生まれ、それを妖精の愛し子と呼ぶようになった。
そのルキウスが、アナトリアを娶ろうと言うのだ。
ありえないことが起きた。
無能者を娶った大公家の嫡男。前代未聞の貴賤婚。
両親は奇跡が起こったと大喜びした。
そしてそれまで使用人部屋よりもずっとひどかった部屋から、公爵家の娘に相応しい部屋と場所を移された。
そして結婚前に少しでも健康に見えるようにと十歳以前と同じ暮らしを送らされることになった。
作品の続きに興味・関心を持って頂けましたら、ブクマ、★をクリックして頂けますと非常に嬉しいです。