91 : Day -35 : Shin-otsuka
文京区立大塚公園。
ちょうど真下を丸の内線が走る石畳のうえ、中谷は冷たい表情で、目のまえの黒いジャケットの男を見つめる。
──渡部ロキ。
即座に逮捕したい悪党だが、彼から中谷に「会いたい」とコンタクトしてきた以上、まずは話を聞かねばならない。
中谷は病院から抜け出すとき、即座にギプスやら包帯やらを自己抜去した。
いっさい弱みを表には出していないが、全治3週間の重傷であることはロキも知っている。
松葉杖も車に置いてきており、平然とした表情でベンチに腰掛け、足を組んでいるさまは満身創痍とはとても思えない。
歩くだけで激痛が走る身体に敬意を表し、ロキはやや距離を置いて、もってきた書類の束を中谷に差し出した。
しばらくそれを眺めていた中谷の表情が、目に見えて変わる。
こんな内部資料が……これがあれば──。
なるべく表情には出さないように気をつけたが、成功したとは言い難い。
ロキもとくに表情は出さなかったが、自分がもってきた物の価値は彼自身もよく知っているだろう。
中谷は複雑な表情で、ロキを眺める。
──半グレ出身で、いまは東京北部のヤクザを束ねている「実業家」。
息子の友人の腹ちがいの兄にあたり、いくつかの事件の関係者として捜査が進んでいる。
「どうですか、中谷の旦那。これで幹部クラスが何人か、挙げられますよね?」
ロキの問いに、中谷は渋面で応じる。
「なぜだ、なぜおまえが教団を売る? 商売敵というわけでもあるまい」
「純然たる社会貢献の思い、なんて言っても信じちゃもらえませんか」
「ふざけるな」
ベンチからやや腰を浮かす中谷に、ロキはあいかわらず離れた距離で、
「ヤクザとオマワリは、昔から手を取り合ってきた仲じゃないですか。──手先、目明し、八州廻りの博徒たち」
ロキの口から出てくる古式ゆかしい単語に、なぜか違和感がない。
たしかにこの若者のなかには、それら博徒の系脈を感じさせる「風格」がある。
希代のトリックスターでありながら、伝統的な演劇作法も熟知している。
いや、古典を踏襲する知恵にすぐれているからこそ、魔術師のごとき手管で東京の半分のヤクザまでを膝下に組み敷いていられるのだ。
この国の闇の半分、いや、全部まで呑み込むつもりか、この男は──。
「八丁堀の軍門に下るかよ。……狙いはなんだ?」
19世紀初頭、国定忠治、大前田英五郎をはじめとするヤクザ組織(上州博徒)は強力すぎて、関東取締出役ごときではとても制圧できなかった。
没落農民や浪人が無宿者としてアウトロー化する現象も多く見受けられ、治安の悪化が懸念された。
そこで江戸幕府は、有力な博徒の一部に十手を預け、手先とすることで治安を守った。
「ある程度の治安は、むしろ都合がいいんですよ、われわれにとってね」
競合他社だけを取り締まってくれれば、たしかに都合はいいだろう。
だが、広域暴力団と宗教法人の利害が相克する場面とは、奈辺にあるか。
「……狙いは桜田門の下かよ」
中谷も確信があるわけではなかったが、
「あまり目がよすぎると、長生きしませんぜ。いや、釈迦に説法ですか」
相互理解を達したとばかり、不気味に笑うロキ。
──ヤクザが共同体の治安をじっさい担っていた時代は、たしかにあった。
部分的に、治安警察機構の末端にも組み入れられていた。
だが、いまはそういう時代ではなくなった。
これは純然たる、パワーゲームだ。
それ以上、よけいなことは言わない。踵を返し、立ち去るロキ。
あまり長居すると、中谷が動けない。そのあたりに配慮したのか、あるいはそもそもいそがしいだけか。
すくなくとも現在、こうして動いた事実から、何事かを類推しなければならない──。
中谷がわざわざ大塚にいることには、もちろん理由がある。
むしろ警視庁の人間が大塚にいる理由は、それ以外にないと言っていい。
──東京都監察医務院。
東京23区で発生したすべての不自然死について、検案および解剖を行なう、東京都の行政施設である。
「また来たのかよ、中谷」
うんざりしたように言う老人は、この無機質な建物で30年、死体を切り刻みつづけてきた妖怪のような大ベテラン。
大塚のオヤジといえば、泣く子も黙る法医学者だ。
「死者の代弁者の見解は、なにより貴重なんでね。……また出たんでしょう、脳みそ空っぽ死体」
眉根を寄せるオヤジの名は板垣。
拒絶しても意味がないことを知っているので、冷たい光に沈む廊下を、中谷がついてくるのに任せる。
「そんなことより、ロイヤルアークで大事故あったんだろうが。何人も、お仲間がいなくなったんだろう? そっちの捜査でもしてやったほうが、供養じゃねえのかい?」
「行方不明者を供養してどうするんスか。……まあね、そっちも考えましたよ、いろいろ。貫地谷とも一晩、よく話し合って決めたんです。とにかく俺たちは、自分の仕事をするしかねえ。もっとデカいところで動いてる話も、そりゃあるだろうが、そっちはそっちで動かしてもらって、こっちはこっちの仕事をしよう、ってね」
「結局、思考停止じゃねえのか。まあいいや、てめえらクソデカどもの都合なんざ、知ったこっちゃねえ。……おい、中谷が代わってくれるってよ。手が足りねえところだろ? あとで報告上げっから、帰っていいぜ」
待っていた所轄の刑事の手から、鑑定処分許可状をひったくって歩き出す板垣。
──司法解剖は、所定の手つづきを踏み、裁判所の発行した令状にもとづいて、司法警察員の立ち会いのもとに行なわれることになっている。
気の弱い新米警察官の登竜門のようなところもあるが、現状、手が足りない警察組織においては、解剖に立ち会わせている余裕もあまりない。
顔見知りらしい中谷と目くばせを交わし、そそくさと建物から出て行く所轄の刑事。
どんな刑事も、できれば解剖には立ち会いたくない、と考えているのだ。
板垣と中谷は手慣れた所作で、ディスポーザブルガウンを羽織る。
生きた人間を扱うわけではないので、消毒などは必要ない。
むしろ執刀医自身を守るための装備だが、その扱いもぞんざいだ。
板垣は定位置に立ち、決まり文句を並べてから、執刀を開始する。
「助かるねえ、さきに脳みそ開いてくれてんだから」
四谷署の管内で、立てつづけに発生している猟奇殺人事件。
今回ばかりは「死体が出ている」おかげで、全力で捜査を進めることができる。
警視庁からも一課が出張っているはずだが、気配がない。ロイヤルアークの顛末で、本庁もてんやわんやなのだ。
その意味では、傷病兵として員数外に置かれている現状の中谷のほうが、むしろ自由に動ける向きもある。
中谷は黙って、板垣の手の動きを凝視する。
肺、心臓、胃、腸、腎臓……。
重要な証拠として、つぎつぎ記録されていく。
と、流れるような板垣の手の動きが、ピタリと止まった。
──第3段階、消化器の解剖中。
「十二指腸のさき、小腸の入り口あたりだな」
赤黄色く染まった手袋を抜き出し、トレイにぶちまける。
粘液に混じって出てきたものは──本来、人間の腹のなかにはないものだ。
「いつものアレじゃないんですか、ドラッグのはいったコンドームとか……」
「だったら触った瞬間にわかる。こいつは……ほう、またかよ、おもしろいな」
マスクをしているのでわからないが、おそらく、だれもが目にしたら気分がわるくなるような酷薄な笑みを、板垣は浮かべているのだろうと中谷は知っている。
──それは、魔法陣を描いた麻布らしき繊維。
狂信者か、悪魔崇拝者か。
「また、ですか」
「ああ……まえに科捜研にまわしたやつは、どうだったんだ?」
「胃酸に溶けなかった理由は、素材ですね。わら半紙のように見えるが、要するにプラスチックですよ」
「最近は悪魔も化学のお勉強かい。……二重の円のなかに六芒星。周囲に魔法の記号たちってか。むかしは羊皮紙に刻んだもんだがな。──どんな大悪魔にささげられた生贄なんだい、おまえさんは」
その瞬間、ふっ、と明かりが消えた。
かたかたかた、と解剖台の横のトレイが音を立てている。
地震か? いや、ちがう。
空気が変質している。この気配、感じたことがある。
中谷は全身に力をこめ、死体を注視する。
動くはずのない死体が、動くとすれば……。
まさか、またあの世界へ──。




