08 : Day -43 : Ōji
都電荒川線および南北線との乗換駅でもある王子は、明治16年に開業した歴史ある駅だ。
チューヤは一瞬、三ノ輪橋方面へ向かう都電を一瞥したが、まだアルシエルとコトを構える勇気は出ない。
都電の悪魔は、あらかた恐ろしい種族とレベルで固まっている。
もちろん例外もあるが、できれば乗り倒すのはもうすこし先延ばしにしたいところだった。
じつは、いま彼がここにいることじたいに意味があるのだが、それは「ハエの王」だけが知っていればいい……。
「なんか、すんごい乗った気がするけど、240円しか引かれてないよ」
改札に一瞬表示される金額に、目を疑うサアヤ。
「大回り乗車の効用だね!」
チューヤとしては、うまくやった、というつもりのようだ。
二子玉川では改札を出ていないため、適用された料金が北綾瀬(千代田線)乗車の王子(南北線)下車という、東京メトロ単独の激安コースとなっている。
鉄道会社が本来想定していない乗り方のため、合法的かどうかは疑問である。いや、本来は乗車分をすべて支払うのが正しいのだが、川の手線が普及のために当面採用している乗継ぎ割引を適用すれば、許容範囲である可能性は微レ存だ。
「ふーん、ここが王子かー。はじめて降りたよー」
歩き出すチューヤの背後に、ぴたりとくっつきながらつぶやくサアヤ。
一歩でもその行路を踏み外したら、二度と家に帰れないと確信しているかのようだ。
「だろうな。高尾山とか言ってたし」
「もう、しつこいよチューヤ! ……あれ? けど駅から出ちゃっていいの? またホームを往復して、悪魔を呼び出したりするのかと思ったよ」
「ああ、本来ならそうなんだけど、今回はツテがあるからな」
言ってチューヤは駅前通りを歩きだした。
先刻、ネコマタから仕入れた情報によれば、「王子の狐」は駅前の飲み屋を拠点に、情報屋のような仕事をしているという──。
その真偽を確かめる間もなく、予想外の人物──あるいは想定の範囲内といっていいのかもしれない──見たことのある顔が、チューヤの視界をよぎった。
相手のほうが、発見は一瞬早かったようにも見えた。
特殊な職業らしい鋭い視線は、どのような雑踏のなかからでも、記憶にある顔を瞬時に見分けられなければならない。
そのような能力を必要とする職業──刑事だ。
「こんなところで、なにをしている?」
息子にかける言葉ではないな、などとチューヤはもう思いもしなくなった。
彼はただ遺伝的な父親というだけの同居人、いやほとんど同居すらしていない、顔見知りにすぎないような感情だった。
「こ、こんにちは、おじさん。ちょっと買い物に、チューヤ借りてますー」
言い訳じみたことを言いだすサアヤを制して、チューヤの言動は直接的だ。
「ジャーナリスト崩れの私立探偵が、産業スパイみたいなことしてるってよ。このあたりの飲み屋をショバにしてる情報屋、知ってるか?」
ぴくり、と父親の眉が跳ねた。
日曜日の朝っぱらから、靴底をすり減らして地どり捜査をしている彼にも、目的はあるはずだ。
「情報屋は、それぞれの刑事がもっている。簡単に教えられる話じゃない」
父親の口から内部情報がリークされるなど、チューヤも期待はしていない。
とりあえず答えが得られそうな質問を選び、
「『深井酒場』って飲み屋、知ってるか?」
「……そこは、まだ営業時間外だ。しかし常連なら、はす向かいの喫茶店『フォックス』にいることがある」
それだけ言って、父親はくるりと背を向け、歩き出した。
意外そうな表情で、チューヤはそれを見送った。
父親の踏んでいるヤマと関係ないからなのか、それとも親族として親切心を出したのか。
おそらく前者だろうな、と思いつつチューヤは反対方向に向けて歩き出した。
「もう、あいかわらずなんだから」
冷えきった関係を知悉するサアヤは、軽く嘆息しつつチューヤのあとにつづいた。
通りの向こう側、ふりかえった中谷は息子たちのうしろ姿を静かに見つめた。
その目は親ではなく、刑事のものだった──。
「クルマ、止めてきました」
若い声に、中谷はふりかえった。
「おう、ご苦労さん。……生活臭のないマルガイだな」
ぼやくように、捜査内容をまとめる。
現在、中谷は、とある殺人事件の被害者となった男性の住所を訪ね、いわゆる地取り捜査中ということになる。
相棒の若い刑事は、やや眉根を寄せ、
「それ一課のヤマですよね。うちとは関係ないんじゃ? 勝手に捜査範囲を広げると、また」
怒られますよ、と言うまえに、
「こっちに関係ないとはかぎらねえよ」
怒られるまえに片づけてやる、という勢いで飄々と言い放つ。
中谷たちは並んで王子の街路を歩きながら、穿つような視線を周囲に注いでいる。
王子は北区(第十方面)だが、荒川区・足立区(第六方面)に雰囲気が近い。
警邏中の制服警官とすれちがい、気づかれて敬礼され、しかたなく返す。
私服(刑事)に制服が必要以上に絡むのは、あまり褒められた行為ではない。
「新米は困ったもんだな」
ぼやく中谷に、
「顔、知られてるだけすごいですよ、中谷さん」
敬意を表す相棒。
──5万人近い職員数を誇る警視庁。
たしかに警官は顔を見分けるのが仕事のようなところもあるが、異なる部署の人間をそうそうおぼえていられるわけもない。
一見、性格のきつそうなただのオヤジの中谷だが、警視庁ではそれなりに知られている。
警察署に住んでるようなもんだからな、とは息子の弁だ。
「人殺しが安心して暮らせる国にだけは、しちゃならんのだよ」
中谷の信念だ。
彼が刑事になったのは、そもそも「コロシを挙げる」ためである。
人を殺す者は、殺されなければならない。
その鉄壁のルールから逸脱して、逃げつづける者を許しておくわけにはいかない。
「まったく……死体なんか残すから、めんどうなことになるんだ」
相棒の言葉に、中谷は眉根を寄せた。
「おまえもかよ。トンデモ陰謀論」
休憩時間に相棒が読んでいた雑誌を、中谷も軽く斜め読んだ。
「ああ、いや……売れてるみたいですね、月刊『ヌー』とその関連。後追い記事もかなり見かけるようになりました」
信じてないですよ、という言葉を期待したが待っても無駄だった。
「まあ『ヌー』はおもしろいからな」
「あれ、中谷さんも読むんですか、あんなトンデモ陰謀論」
「それとして読んでいるかぎりはおもしろいよ。だが」
「政治家は悪魔と契約して、国民の何割かを売り飛ばし、自己の保身と代金を受け取った」
「便所の紙だろ、そんなもん」
この時点ではまだ、中谷のような現実論者が多数派を占めている。
日本への「侵食」が、他国に比べてゆっくりである、という政治的勝利に支えられてもいるかもしれない。
かつて起こった世界的なパンデミックでも、いつも日本だけは最良の結果で切り抜けてきた。
この「パンデモニック」とやらも、前回同様、うまく切り抜けてくれるにちがいない。そんな無言の信頼があるとしたら、日本政府も捨てたものではない。
あるいはペシミズムと思考停止がもたらした、一種の諦念にすぎないのかもしれないが。
「根拠がないってわけでもないですよ、事実、いそがしくなっているところもある」
「はっ、地球の危機は生活安全部に守ってもらおうぜ」
もちろん中谷も、隣り合う部署が仕事量を増やして困っているという話は、小耳にはさんでいる。
当該部署は、たしかにてんやわんやであった。
一年分の行方不明者が、ここ1~2週間に集中して出てきたのだ。
それも、相互に関係なく、かつ集中して起こっている場所もある。
「じっさい生安はパニックみたいですよ」
担当部署は、警視庁・生活安全相談センター・行方不明相談係だが、昨今その相談件数が「尋常ではない」らしい。
行方不明といっても、もどってくることも多いので、必ずしも「二度ともどってこない」という悲劇的な受け止め方をする必要はない、という説得も最近は空しい。
彼らは「悪魔に喰われた」のだから……。
「バカらしい。うちのガキどもはもどってきたぞ」
中谷の言葉に、首をかしげる相棒。
「行方不明でした?」
「らしいな。3日ほど。だがもどってきたよ」
「らしいって……あいかわらずですね。ガキども、というと?」
「息子の友だちの親から電話がかかってきてな。娘をしばらく見かけないって」
「たいへんじゃないですか」
「で、うちの息子はどうかと訊かれて、まいったよ」
「自分の息子の所在くらい確認しましょうよ」
「どうやら見かけないと伝えたら、それならだいじょうぶかな、と」
なかば憮然として、それでも事実である以上、中谷はすなおに吐いた。
なおさら意味のわからない相棒は、首をかしげ、
「どういうことですか。……いや、信頼されてるってことか」
「さあな。結局、部活動だったらしいぞ。その後、都内で合宿をやっていると、校長から報告があったらしい」
「校長? 学校公認だったわけですか?」
「どうだか。国津石神井高校も、キナくさいもん振りまいてやがるからな。そのうち調べにゃならんだろう」
警察が国津石神井高校の部室棟にキープアウトを張ったのは、たしか先週のことだった。
中谷たちはまったく関与していない事件だが、捜査が進んでいるという話はまったく聞いていない。
「で、息子さん娘さんたちは」
「さっき会ったよ。家出なんてそんなもんだ。いや、部活か」
「妙な絡み方ですね、学校か……」
「まあな。ともかく単に行方不明ってだけじゃ、騒ぐ必要はないってことだ。俺たちは警察だ。証拠がなきゃ動くわけにはいかねえよ」
「けど今回は、ほんとに規模がちがうみたいですが」
平時における日本の「行方不明者」数は、年間およそ8万人。
人口10万人あたりの行方不明者は約70人で、東京などの大都市圏ではその率が上がる。
首都警察である警視庁が受理する「捜索願」は相当数であるが、その数がここ1~2週間に「激増」している。
世界各地でも同様の事象が頻発しており、平和ボケの日本人の上にも世界を覆う「パンデモニック」とかいう影が、ひしひしと押し寄せはじめている。
とはいえ、この時点ではまだ、日本は急増する行方不明者というパニックの端緒についたばかりだ。
懐で鳴った携帯電話に向けて、中谷は当たり散らすように言った。
「つかまったのか、大塚のオヤジは」
単刀直入で無駄がない。
相手の回答も同様だ。
「向かってるそうだ。午前中には着くだろう」
中谷は安堵したようにビルの壁に手をついて、短く吐息した。
電話に向け、やや語調を砕いて言う。
「そうか、助かった。週明けまで待つわけにいかないからな」
「監察もだいぶ煽られてるようだな。担当者がひとり行方不明だし」
行方不明。
そんなあやふやな責任感のない言葉に、中谷はうんざりしている。
「それでも声が届くのは、さすがキャリアだよ。監察じたい、そもそも数が足りてないわけだし、最近やたら駆り出されてオヤジもたいへんだろうが」
「不機嫌このうえなし、だったぞ、気をつけろよ。昨夜はだいぶ深酒したらしい」
中谷は、ぐるりと街並みを見わたしながら、
「王子の路上にゃ転がってなかったぜ」
「ほんとに行ったのかよ、中谷。日曜だってのに、あいかわらずだな」
電話の向こうからは、なかば呆れたような声。
「おかげで、よけいなもんと会っちまったがな。……いや、こっちの話だ。ああ、すぐに向かう。助かったぜ、貫地谷」
通話を切り、歩き出す中谷の脳裏には、昨夜からの事件の顛末が想起されている──。