75 : Day -37 : Sakuradamon
価値観の崩壊するような出来事を、間近で見た。
目のまえで悪魔が跳梁跋扈し、人間が、これまで暮らしていた世界とは別の価値観で、殺戮を受けた。
中谷は高層階から、生き残っている人間たちを集め、救いながら地上を目指した。
そうして、ほんの数人ながら、2階まで引き返すことに成功した。
そこで待っていた生存者には、警視庁の知り合いが多い。
多くの声が中谷をたたえ、歓迎してくれている。
──彼らが日本を支えている。
世界一の「民度」といわれる日本だが、じつは役人の能力も非常に高い。
世界が転倒するような出来事を目のまえに見ても、多くの公務員は、これからの非常出番と休日調整の話をしている。
どうやって生き残るかではなく、生き残ったあとの話をする。
ある意味、これは逃避の一種かもしれない、とも思う。
とはいえ、わるいことではない。もっぱら行なわれる「仕事」の調整は、目先の仕事をやっつけるリソースの確保にもつながるからだ。
第二次大戦、敗戦国のほとんどで国家行政機構が麻痺していたのに対し、終戦時、日本の役場にはたくさんの役人が出勤し、日常の業務をこなしていたことに欧米人はおどろいたという。
ここにいる人々は、そういう国民の血を引いている。
この国にどんなことが起こったとしても、最低限の秩序を保つために必要な両輪は、文字どおり「公民」、すなわち公僕と民度なのである。
大震災が起こったとき、情報の周知や避難誘導のため最後まで現場に残って津波に飲まれた役人が、どれだけいたか。
混乱のなかでも最前線に立って働く「公僕」たちが、ここにはそろっている。
彼らの精神、能力はきわめて高い。彼らに最大限「シゴト」をさせることで、見えてくる未来があるはずだ。
「ここから逃げる。中谷、加わってくれ」
「待て。上にもまだ生存者が残っているんだ。そちらを救出したい」
視線を交わすヘッドクォーター。
現状、警察官が中心となって爾後の方途を議論している。
民間人が多く含まれるが、全員を守りきるのは困難だ。
離脱するにしろ防御に徹するにしろ、現有戦力を最適化しなければならない。
「……むこうにいるよ、あんたの息子。すげえな」
知り合いの刑事にうながされ、中谷は部屋の一隅に視線を向ける。
見たことのある制服。
彼が高校生になったことを知ったのは、入学式からしばらくたってからだった。
──仕事をしているのだ、文句を言うな。
中谷の態度は、すくなくとも世間的には、父親として正しいとは評価されないだろう。
いつのまにかこの国は、ただ働くことに価値を見出さなくなった。
お役人の醜態も、あちこちで聞かれる。個々のケースには残念な事例もある。
だが、予算編成の時期に家に帰ってこず、天災に際して現場から離れることのない、責任感の塊のような公務員が多いことも、また事実と認めなければならない。
彼らがこの国を支えるなら、世界が滅びるとしても、最後まで残る国のひとつになるだろう──そう信じられる。
もちろん、滅びる世界に残ることが、しあわせなのかはわからないが──。
「シンヤ」
チューヤは、ゆっくりと目線を持ち上げた。
ボロボロの背広で、仕事しかしない人間が、めずらしく自分の名前を呼んでいる。
猛烈に働くこと、家に帰ってこないこと、がデフォルトとなっている中央官庁のお役人。
他人は彼のことを、生物学的な父親と呼ぶ。
「オヤジ……」
「あれが、おまえの力か」
さきほど、悪魔たちとの小競り合いがあった。
先頭に立って撃退したのは、ニシオギのアクマツカイ。
上階から避難してきた父親たちを助けたのは事実、彼の息子のもつ「戦闘力」だった。
「百聞は一見に如かず、ってね」
常識と現実と仕事しか見ていない父親に、新しい世界の現実を納得させるための最短距離をとった。
チューヤは今回の顛末を、そう理解することにしている。
「先々週の件。あれもそうか?」
「ああ、矢川先生の遺体の一部が発見された、っていう」
この手で矢川を殺したことは、事実だ。
チューヤの手には、まだその感触が残っている。
「裁きのルールは知っているな?」
たとえどんな世界になろうとも、中谷の常識を根っこで支える信念は揺るがない。そりゃそうだろうね、と息子はすぐに了解した。
──殺す者は、殺されなければならない。
近代国家がそれを代行することを選んだ以上、定められた法理は厳に守られるべきだ。
一国民がそのために払える最大の努力は、刑事警察機構、なかんずく司法警察員──刑事になることだった。
裁きのルールのために、殺人者は必ず捕らえられなければならない。
チューヤは静かに父親を見つめた。
「刑法199? それとも、殺す者は殺されるってやつ?」
「おまえが、殺したのか」
「やらなきゃ、やられていたからね」
殺し合いだった。
そんな説明は、するまでもない。この殺戮の巷を見れば。
「……そうか。それならいい。殺そうとする者が殺されるのは、当然だ」
意外にあっさりと納得されて、チューヤは拍子抜けた。
たしかに「殺す者は殺される」として、それは「正当防衛」を否定するものではない。なにもしなければ殺されていた、という状況では、当然に「殺し返す」ことが認められる。
──という法理で、FA?
「殺し合いならいいってことか」
言い方はわるいが、理屈としてはそういうことだ。
たしかに考えてみれば、そうでなければ「戦争」はできない。もちろんすべきではないのだが、すくなくとも現状、戦場における兵士どうしの殺し合いを否定できる国はない。
殺し合いじたいを防ぐ努力はすべきだが、それが無効になれば、つぎの段階に移る。
現状、正当防衛は、かなり広い範囲で認められるべき法理となっている。
法執行機関としては、かなりの手つづき簡略化を経てはいるが、パラダイムそのものをシフトしているわけではない。軍法会議という即決裁判も、世の中にはあるのだ。
殺そうとする者は殺される。これを正当防衛と呼ぶ。
「おまえは、この世界のなにを知っている?」
「それほど多くはないよ。ただ、こういう世界線が、俺たちの世界に重なって存在し、それが近づいているという事実はある。──政府は、知ってたんじゃないの」
こんどは中谷が考え込む番だった。
多くの情報は、たったいま仕入れたばかりだ。まだ冷静に咀嚼できていない。
しかし、ここ数週間に警察全体として、気になる点がなかったわけではない。鼻で笑ってはいたものの、出し抜けに知らされた慮外の事実、とまでは言えないのだ。
管内で起こる膨大な行方不明はもちろん、断片的に異世界線の色を帯びる事件そのものにも、猟奇性と不自然さがつきまとった。
ただ、上は上、現場は現場と割り切って、仕事だけしていればいい、と自分に言い聞かせていた。
いま思えば、スポイルしていただけかもしれない。
「政府が考える最重要事項は、混乱を避けることのようだ。不安定要因を最低限に抑え、危機をやり過ごすことを、まず考えるだろう」
「可能かもしれないね。悪魔の言葉を信じるなら」
異世界線は近づいているが、ある時点をピークとして、それは遠ざかる。
それまでに、互いに必要なことをやろう。
具体的にどんな決め事があったかまではわからないが、そういう交渉の席がもたれていたことは、どうやら事実らしい。
上の部屋で交わされていた会話が、脳裏をよぎる。
中谷は眉根を寄せた。
交渉の結果、日本は有利な立場を得たんだよ。われわれの努力だ。
だから、侵食の順番は最後のグループにまわされた。
アメリカはもっと早く戦いはじめていたし、第三世界なんかは秋分の日からずっと、地獄のさなかにある。
まあ、後進国のやつらは、そのまえからずっと地獄だった、とも言えるがね。
──上層階にいた政治家は、まるで自分の功績のように、得々とそう語った。
その方向性に批判的な政治家もいたようだが、そういう派閥は、悪魔たちによって消されるのかもしれない。
現に、世界を見まわしたとき、日本の静けさは異様ともいえるらしい。
部分的に侵食が起こり、境界化した空間に暮らしていた数人から数十人規模で、人間が消える。
これは世界中で起こり、証拠がないという理由で当初は閑却されていたものの、現在では規定事実のように受け入れられるようになった。
ほとんどの国の人々はヒステリックに慨嘆し、無能な政府の対応をなじっている。
アメリカの一部では、ついにはじまった「携挙」の黙示録がまことしやかに広がり、国内を二分する議論が巻き起こっている。
国内に向けてヘルファイアを放つ大統領、というカリカチュアとも思えるような事実が、次期大統領選の争点にまでなっている。
だが日本では、そういう混乱が(まだ)ほとんど起こっていない。
「永田町は、やるべきことをやった、と言えるのかもしれんな」
役人としては安堵すべきなのか。
しかし喉の奥に刺さった小骨のような違和感まで、取り除くことはできなかった。
「永田町ってか、信濃町だよね、今回は」
ぴくり、と中谷は反応した。
わが息子ながら、なかなか切れる。中谷自身、捜査線上に浮かび上がっている信濃町の影のせいで、ドツボにハマっていることは事実だ。
「この国の法律じゃ、国政に宗教に絡むのはご法度だ」
欺瞞を口走る中谷に、
「学校では、そう教わるね」
見透かしたように応じる息子。
「政教分離の講義は必要ないらしいな。おぼえとけシンヤ、学校で教わるような教科書どおりには、国は動かねえんだよ」
永田町と国をニアイコールにする表現自体はともかく、その介入が果たした影響はけっして小さくない。
たしかにこの「侵食」には、政治家のあるグループが絡んでいる。
共明党だ。
であれば、党の支持母体である本部の所在地、信濃町の存在感は強烈だろう。
彼らにとって都合のわるい内部分子をパージしようとしているのか、あるいは。
──すくなくとも、日本政府の選択が現時点で「最善」ではなかったとしても、「最悪」でないこともまた事実だ。
「世界中が被害を受けているなかで、日本だけがマシだ。そう思わせることが、むしろ策略だったりしてね」
「……生意気を言うな。だが、否定はせんよ。どうも俺は、知るべきことを知らずに長く過ごしすぎたようだ」
「お役人の常套句でしょ」
「記憶力が弱いのは政治家のほうだ。いや、まあ役人もそれに劣らずか」
中谷は決然と立ち上がり、上を見た。
チューヤは眉根を寄せ、
「……おい、オヤジ、まさか」
「まだ上に残っている人間がいる。もどると約束したのでな、行ってくる」
「へえ、意外だな。あんたは人命救助より、犯人逮捕が優先だと思ってたよ。いや、そもそも警察ってそういうとこだろ」
警察官は事故現場など、生命の危機に瀕した状況に臨場するケースが少なくない。
当然、それなりに高度な救急救命の技術講習を義務づけるべきだ、という意見に対し、多くの警察本部は、一応の人命救助の訓練はしている、それ以上は消防と赤十字の仕事だ、として「救命」より「捜査」を優先するという姿勢を明確にしている。
父親は、そんな息子の皮肉を無視して、いつもの決定論的口調。
「おまえはここを頼む。分裂だけはまずい。コントロールしろ」
「……はあ?」
「非常事態だ、父親を手伝え」
猛然と巻き起こる、ツッコミどころの渦。
父親らしいことを一瞬でもやったことがあるのか? 非常事態くらい家族を守れよ。
いろいろ言うべきことがあるような気はするが、なぜかチューヤの口には、それに類する言葉が出てこない。
むしろ父親から「頼られている」と感じて、すこしうれしかったくらいだ。
「わかった。こっちはなんとかする。……気をつけろよ。むこうのほうがやっかいだ。ミカエルってひとがいる。国連の職員らしい、背の高い白人。いっしょに頭のクリッとした少年がいるから、見ればすぐにわかるよ。味方だから頼れ」
「ふん、おぼえておくよ。──安心しろ、俺が殉職すれば、生活の面倒は国が見てくれる」
彼は、自分自身が心配されている、という思考そのものを妻が死んだ瞬間から失ってしまった。
息子には、生活の安定さえ残しておけば、妻も許してくれるだろう。
彼が考えているのは、その程度だ。
「そのとき〝国〟なんてもんがあればね」
皮肉な物言いの息子に背を向け、父親は無言で部屋を出た。
ホテル半蔵門ロイヤルアークの戦いは、佳境を迎えつつある。




