70 : Day -37 : Kudanshita
「Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen」
契機は外からやってきた。
サキュバスの淫歌を圧するように、別の歌声が上書きされて響きわたる。
ハッとして視線を泳がす悪魔。
出口のほうから、異様なプレッシャーが近づいている。
「……この声は」
チューヤの不埒な手の動きを押さえつつ、顔を上げるヒナノ。
あと10秒くらいしたら、とりあえず彼を殺して誇りを守ろうと思っていたが、どうやらその必要はなさそうだ。
「おのれ、女か……っ、いや」
サキュバスは歌声の正体を見極める。
女のように高い声だが、女ではない。
これは少年──カストラートだ。
人類は、音波の振動数が倍になるまでの幅を1オクターブと定義し、便宜上、音階を12にわけて使っている。
ピアノの88鍵盤は、27.5ヘルツ(鍵盤番号1)からはじまって、つぎのオクターブは55.0ヘルツ。この幅を単に12等分しているわけではなく、隣り合う半音間では、周波数の比率が同じになるように増えている(等比級数的増加)。
55.0ヘルツのつぎのオクターブは110.0ヘルツ、つぎは220.0ヘルツ、というように増えると考えれば、直観的に理解されるだろう。
ちなみに鍵盤番号88の周波数は、約4186ヘルツである。
「Fühlt nicht durch dich Sarastro Todesschmerzen」
出口から、ゆらりと現れた小柄な少年。
背後には背の高い男の姿があるが、彼は目を閉じて、その歌声に聞き入っているようでもある。
「この……声は、くそ、ただの声ではない」
聖なる側の人間の耳には、ひたすらに美しい鈴のような声。
しかし悪魔の側にとっては耳を引き裂き、脳髄を攪拌する破壊的音響。
──人間が聞くことができる周波数は、年齢や個人差もあるが、一般に20~20000ヘルツとされている。15000ヘルツ以上のいわゆるモスキート音は、20代後半から聞こえなくなっていく。
逆に若者たちを寄せつけたくない場所(足立区)で、このモスキート音が実験的に利用されたこともある。
「meine Tochter nimmermehr. ha a a a ha ha ha ha ha ha ha ha ha」
歌いながら室内にはいってきた少年──ミツヤスは、まっすぐサキュバスに向かう。
歌声だけを武器に、堂々と悪魔とわたりあう姿は、神々しくすらある。
その恐るべき高音を受け、悲鳴をあげるサキュバス。
──人間の声の限界は、ソプラノ歌手の2000ヘルツあたりとされている。
1396ヘルツ(F6)を使うモーツァルト『夜の女王のアリア』は、世界的にも歌いこなせる者は少なく、ただ声を出すだけならば可能だが、うまいと感じさせるには、かなりの才能と訓練が必要とされる。
ただの高い声はイライラするが、ほんとうにうまい歌手の声は心に響くのだ。
ちなみに、いま彼が歌っている部分は、「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」という部分で、「聞け、復讐の神々よ、母の呪いを聞け!」だ。
非常に怖い歌詞であり、ふがいない娘に対し、高音を響かせながら叱りつけるという筋に乗っている。
「So bist du meine Tochter nimmermehr. AAAAAAAA」
そう、おまえはもはや私の娘ではない。ア、アアア、アア、アア、ア~。
──ようやく淫夢から覚めたチューヤは、うつろな視線で歌声のほうを顧みる。
美しい歌声……ああ、ミツヤスくんか。
超絶技巧のソプラノ声域を示すための楽曲であるため、通常、男性では歌えないが、ボーイソプラノであれば可能だ。
すさまじい声量で、たたみかけてくる部分。
高音域は、もはや楽器にしか聞こえない。
「ギィイヤァアァーッ!」
両耳を押さえたサキュバスは絶叫し、ミツヤスに背を向けて走り出す。
そのまま窓ガラスを突き破って地表へ、悲鳴の残響を残して──消えた。
戦闘終了。
これが神の鈴の戦い方。
部屋には惨劇の跡が濃厚だが、ミツヤスのおかげで全滅は避けられた。
脳内では感情のないナノマシンが、的確に戦後処理を進めている。
悪魔相関プログラムにうながされ、ようやく事態を把握しつつあるチューヤ。
自分がなにをしでかしたかを思い出し、ヒナノのほうを見ることもできない。
「ミツヤス……」
立ち上がって服の裾を払い、静かに弟を見つめるヒナノ。
「お待たせしました、姉上。呼ばれて飛び出て、サンキュウですぞ」
つやつやと輝く頭をサッと撫で、にこやかに笑うミツヤス。
「さすがは神の鈴、すばらしい」
感に堪えて拍手を送るミカエル。
彼はミツヤスの保護者であると同時に、一介のファンでもあった。
──ともかくボスは倒したのだから状況は変わる。
境界から離脱できる──かと思いきや、変わらない。
すでに状況がわるいほうに転がっていることを、彼らは理解しなければならなかった。
境界化が解けないということは、この境界を支配しているのは、さっき倒した中ボス程度ではない、さらに上位の大ボスがいることを意味する。
そんな状況ももちろん重要だが、チューヤにとっては、もっと重要なことがあった。
ふりかえり、とりあえず土下座する。
「ごめん!」
「いえ。わたくしの判断も、足りませんでした」
首を振り、短めに事態を収拾するヒナノ。
チューヤの行為は許しがたいが、悪魔の攻撃の結果である。
そもそも、状況が悪化した責任はヒナノにもある。
犯人(ナンバー2)は中央。
彼女はそう判断したが、じっさいは端のほうにいた。
チューヤは立ち上がりつつ、
「しかたないよ。そもそも犯人がどこに座っているかなんて、知りようがない」
「席次は、重要なのですよ。彼女が、この端のほうに座っていたことそのものが、動機の一端なのでしょう」
ウィーン条約ができるまで、各国の代表団のあいだでは、席次をめぐる争いが絶えなかった。場合によっては、決闘騒ぎにまでなったという。
外交特権を含む各国全般の規則を明文化した「ウィーン条約」は、1961年に採択された。席次上の紛争を解決することは、プロトコールの最重要事項のひとつだ。
チューヤは、気になっていた男の死体に向かう。
戦闘開始を告げた銃声の主。
殺されかけたのだから、反撃するのは当然だと信じている。
それでも人間を殺すのは、やはり気が咎める。
うつぶせになっていた死体を転がすと、ふところからパスポートが落ちた。
──翼を広げたハクトウワシ。
アメリカ合衆国の国章だ。
「……さて。海外の重要人物を殺害しました。国際問題ですね」
背後からそれを見つめ、さらりと深刻なことを言うヒナノ。
「えっと、その、正当防衛かと……」
しどろもどろのチューヤ。
「アメリカとは地位協定を結んでいましたね」
正式名称は、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定。
1960年に締結された。
「なに、俺、アメリカの裁判所で裁かれちゃうの?」
「あなたはバカですか。ここは日本国ですよ。あなたは日本の法律で裁かれるのです」
「どっちにしても犯罪者なんだね」
「……いえ、ここは日本ですらありませんでした」
死体とパスポートを眺めて、考え込むヒナノ。
重要なキーワードがいくつか、彼女には与えられている。
事実、すでに国際政治の力学に、片足以上を突っ込んだ状態だ。
泥濘は流砂となって、うねる世界の深奥に人間たちを呑み込んでいく。
「裏切りの天使、あるいは堕天使、それ自身」
ぽつりとつぶやくミツヤス。
南小路姉弟は、視線を交わし、短くうなずき合った。
最初から覚悟はしていたが、これは、大山鳴動というわけにはいかないだろう。
そんな表情を、ようやくチューヤも共有しつつある。
巻き込まれたと苦言を呈するのは自由だが、そのまえに適応と対処が必要だ。
国際政治のパワーポリティクス、その発露。
ヨーロッパ、日本に、アメリカも噛んでいる。
──ミカエルは、こめかみに指を当て、天使の通信を受信している。
あらゆる面で、最終盤御用達の大天使ミカエルは、チューヤのレベルから見れば「バランスブレイカー」である。
彼が加われば、現状、戦闘は問題ないだろう。
ヒナノにしても、ガブリエルさえいればチューヤごとき力を借りる必要もない。
「敵の正体が判明しました。上層階の殺人に噛んでいる可能性もあります。小菅以来、日本の警察ともども、われわれも追っていた敵です」
ミカエルの引っ張ってきた情報量は多いようだ。
「──アザゼル」
うなずくヒナノ。
シェムハザと組んで悪事をくりかえしていたとされる悪魔だが、どうやらシャバで聖遺物の売買という小悪事に手を染めていたらしい。
「外交ルートにも、そうとう深く噛んでいるようですね。アザゼルの仲間の動きも気になります。さきほどのご夫人もそうですが、かなりのレベルの要人を取り込んでいる。他人事とはいえ、この国の所管当局が心配になりますね」
ミカエルは言いつつ、冷たい目でアメリカ国籍の駐留武官の死体を見下ろす。
拳銃の所持が禁止されている日本で、外国人がそれを所持するということは、当然、武力行使を許可された職掌、あるいは超法規的組織(犯罪)を意味する。
チューヤを狙ったことに深い意味があったのかはわからないが、外交的に深刻な事態を想定するのは妥当だ。
「この国を思うなら、姉上が外務省に就職すればよいのですよ。先日、オルセーのほとりで外務卿にも勧められたではないですか」
ミツヤスが無責任なことを言った。
──フランス外務省はパリ7区のオルセー河岸にあり、第一次大戦のパリ講和会議の舞台になったことでも知られている。
英語、フランス語に秀でるヒナノは、たしかに外交官にはうってつけの人材だろう。
優秀な通訳は、外務省のエリート官僚に多い。
彼以外の通訳はダメだ、と名指しされるほどの人物もいる。
外務卿クラスに絶賛されるレベルとなると、それはもう単なる通訳ではない。圧倒的な素養、教養を備えた、第一級の紳士・淑女である。
どの国でも、外交のトップエリートのレベルになると、並大抵の能力ではなりえない。
日本の外務省は害悪のように取り扱われることもあるが、すばらしい人材が多数存在する事実は揺るがない。
当然、ヒナノにはその一員に加わる資格がある。
6か国語を流暢に操る国連職員ミカエルは、ヒナノの能力を認めて同意する。
「あなたがプロトコール・オフィサー(公式行事の責任者)として、外務省に入省してくれることを期待する人物は、とても多いでしょうね」
「わたくしが黒子に徹することを、世間が許してくれさえすれば」
薄く笑うヒナノの矜持には、根拠がある。
ミカエルは視線を転じ、横に立つ愛らしい小坊主の肩を抱いた。
謎の動悸が打った自分を、チューヤは大急ぎで恥じた。
「さて、ジュニア。われわれは敵を倒してくるとしましょう。最上位の大天使が下す天罰というものを、あなたには見せておきたい。──マドモワゼル、あなたはそちらのご学友と、民間人の避難を手伝ってあげてください。どうやら、かなり大量の悪魔が、ホテル中に放逐されております」
「……わかりました、ミカエル。頼みましたよ」
短い笑みを交わして、左右に分かれる南小路姉弟。
よろめくように歩きだしながらふりかえり、見送るチューヤ。
──大天使ミカエルの天罰。
おそろしい想像しかできない。
ともかく彼らの会話で、チューヤにも意味がわかったのはそのくらいだった。
それ以外、いまいち把握しきれなかったやり取りについては、おそらく日本語ではなかったのだろうと思い込むことにしたアホの子は、ヒナノのあとについて歩きながら遠慮がちに問うてみる。
「黒子やなぎ徹する子?」
「……しばらく黙って歩きなさい」
サアヤなら、ルールル、と歌いながら突っ込むところだが、もちろんヒナノが突っ込んでくれるわけはない。
アンバランスなパーティの冒険はつづく。




