49 : Day -39 : Nerima-Takanodai
計算は完了した。
あとは魔術回路の構築だ。
床と、四面の壁は、ケートのへたくそな血文字で、数学なのか魔術なのか、あるいはその折衷なのかわからない文字で埋め尽くされつつある。
各文字は、いろんな数式を経由してつなげられ、ケートの読みづらいノートの内容が、そのまま具体化したかのようだ。
血文字で巨大なプリント基板の設計図を引き、それじたいが半導体に代わる、という状況のようだった。
「つぎは天井だ。おい」
青白い顔で言うケート。
絞り出している血液はそれほど多くないが、もともと小柄であることと、天才がどれだけ脳髄にエネルギーを必要としているかは想像に難くない。
「はいはい。……よっこらしょ」
チューヤはケートを肩車しながら、やっぱ「情報」って重さがないんだな、と思った。
そのまま部屋の中央に立つが、
「届かんぞ」
「えー? あとどのくらい? うーん、背伸びとかいうレベルじゃないね。悪魔が呼び出せれば、飛行系の悪魔の力で簡単に問題解決なんだけど」
ぶつぶつ言うチューヤの後ろからマフユがやってきて、ひょいとケートを持ち上げた。
そのまま自分の肩に載せ、チューヤを蹴転がす。
「さっさと踏み台になれ、グズ」
マフユも身長的にはチューヤよりやや高い程度なので、高さを増す台は必要だ。
「ちょ! それが人にものを頼む態度!?」
苦言を漏らしつつも、自分の役割を受け入れるチューヤ。
サアヤが横からマフユを支え、バランスをとる。
「えらいよ、フユっち! こういう状況では、やっぱり力を合わせないとね!」
「言うな、サアヤ。この記憶はすぐに消し去る。……さっさとしろ、クソチビ。失敗したら許さんからな、きさま」
「黙れ、クソヘビ。失敗したらボクだって死ぬんだ。こんなところで死んでたまるか」
股間で罵言を吐くマフユをいまいましげに見下ろしつつ、システィナ礼拝堂に天井画を描くミケランジェロのように作業をつづけるケート。
床に描いた計算式を参照しながら、血文字の回路を慎重につないでいく。
ナノマシンを含む血液は、それ自体が魔力回路の半導体素子になる。
チューヤが駅で境界への扉を開くときに血を使うのも、そのためだ。
チューヤの場合は空間そのものが境界化している状況なので、空間に魔法陣を描けばそれで済むが、今回の場合は壁面からむこう側のみに境界のルールが適用される。
バタくさい方法だが、こうして血文字で回路を描くことが、どうしても必要だった。
──ほどなく、6面に描かれた数式の回路が、つながった。
あとは回路にエネルギーを流し、起動するだけだ。
しばらく検算をしていたケートは、ふりかえって言った。
「よし、準備はできた。ここにお嬢がいれば、こう言ってやるところだ。お金持ちが天国へ行くことは、ラクダが針の穴を通るよりもむずかしい、ってな」
「なんなんだよ、ケート。疲れてんだから、結論から言えよ」
「キミこそ、聖書くらい読んだらどうだ。だからお嬢にきらわれるんだぞ」
「ほっといて!」
「ふん。──最初に抜けるのは、細くて速いやつだ。概念的にも、たぶんフォームもな。そいつに引っ張らせるのが最適だろう」
さきに針の穴を通った人間が、糸を通して引っ張ってくれれば、抜けられる。
そういう算段らしい。
「めんどくせーけど、サアヤのためにやってやんよ」
さして駄々をこねることなく、請け負うマフユ。
「よし、サーキット1。ここに立て。サーキット2、そっちだ。魔力が流れたらすぐに、全力で増幅しろ。サーキット3はここ、キミはトランスだ。流れの安定化に努めてくれ。アンカー、ボクがやる。──合図したら、もぐれ」
マフユ、チューヤ、サアヤの順に、壁の四方に立たせると、ケートが最後に所定の位置に立って、準備は完了した。
ごくり、と息を呑む一同。
先日チューヤも、似たような状況に遭遇したばかりだということを思い出した。
マフユは単騎で先行し、敵陣を撹乱、あるいは殲滅するという戦い方に向いている。
いわゆる「一番槍」タイプだ。
リョージは、その後に到着する「本隊」として、最大の戦果を出すだろう。
そのために活躍するのが「軍師」ケートであり、「医療」班サアヤや「爆撃」隊ヒナノも彼の采配によって最適化されるだろう。
……そして、チューヤは? もちろん三等兵だ。
「ちょ! 自分の想像にゾッとしたよ。せめてもうちょっと出世させてくんねーかな!」
「うるせえぞ、なんなんだ、てめーは」
突撃の集中を妨げられたマフユが当然の苦言を漏らす。
ブレイクハートしたチューヤは意味不明。
「やめて! これ以上、俺のギザギザハートを傷つけないで!」
「なんも言ってねーけど」
「いいからケーたん、はじめちゃって!」
たまにアホになる幼馴染のことを知悉するサアヤが言うと、ケートはうなずき、マフユに合図を送った。
壁に向かって魔力を流す。
マフユ、チューヤ、サアヤ、そしてケートへ、魔力が循環しながらその効果を積み重ねていく。
典型的な「魔術回路」が走り出す、と。
マフユのまえに現れたのは──渦。
なかば呆けたように、その自分の描いた魔力回路の結晶を眺めるケート。
「数学者にとって、渦ほど美しい図形はない。中心から放たれる曲線は一定の間隔で渦を巻きながら、つねに同じ構造を保っている。夜空に広がる渦巻銀河の美しさは、ボクなどが言うまでもあるまいな」
ロマンチックな感情を抜きにしても、渦には秘められた力がある。
惑星をつくる力から、昆虫がホバリングする力まで、すべては渦なのだ。
期せずしてその最先端に立たされたマフユは、しばらく壁の向こうから要求される「概念」の把握に時間を費やしたが、すぐに理解すると「変身」を開始した。
にゅるり、と蛇のような体躯が、壁に吸い込まれた──ように見えた。
「おおお、さすがケート」
「ふん、ヘビの本能ってやつも、まあまあわるくない」
「それで? どうなるの、ねえ?」
つぎの瞬間、3人の触れていた壁から吸引力。
吸い込まれる感覚の直後、視界が明るく開けた。
「さっさと片づけんぞ、オラァ!」
他の面々が状況を確認するまえから、マフユは戦闘開始していた。
井戸に垂らされたロープに釣られる形のキキーモラを、別のロープでとらえて引きずりおろすマフユ。
彼女の「友達」のはずだが、いろいろあって、だいぶ不機嫌になっているようだ、と一同は理解した。
戦闘に参加するチューヤたちも、それなりに援護はしたが、今回は基本的にマフユが片づけた。
フロッピーディスクの力で「分身」した2匹目のキキーモラも、かなりの強さではあったが、その身体から2枚目のサイバネティクスを支えるモジュールを取り出すのに、それほど時間はかからなかった。
ふつう、分身は本体の力には及ばないものだが、キキの場合「強化された分身」をつくりだすことができる。
それが彼女の強さであり、弱みでもある。
2匹目を倒した瞬間、弾き飛ばされたキキーモラの肉体が古井戸の底に吸い込まれて消えた。
ゴゴゴ……と地鳴りが響く。
「崩れるぞ!」
だれの叫びかは判然としない。
ただ、この空間を支えていたエネルギーの大半が失われ、境界の境界が破綻して、通常空間へとスライドしたことだけはまちがいなかった。
さきほどのような「罠」ではない、正真正銘の脱・境界だ。
「どうすんだ? 井戸、崩れちまったじゃないか」
なかば瓦礫に埋もれ、ぼやくチューヤ。
「──いや、空気が抜けている。出られるぞ」
上を見て言うケート。
崩れた壁を伝うようにして這い上がる。
たしかに縦方向へのルートは切り開かれていて、這い上がれば這い上がるほど、死者の空気から遠ざかっていることを実感する。
上方を覆っていた古板を蹴り開けると、そこは──学校の怪談にあるとおり、用務員室だった。
「喰い尽くしやがったか……」
マフユのつぶやきの意味を、後続のメンバーが順次、理解する。
室内には、キキと宇多田の死体が折り重なって倒れている──。
「どゆこと? フユっち」
「脳みそを食うと、そいつの知識が得られる。心臓を食うと、そいつの心が得られるんだってよ。ま、あたしが欲しいのは栄養だけだけどな」
不敵に言い放つマフユの姿に、チューヤはカマキリを見た。
子孫繁栄のためには、オスはメスに食われるのが最後の役目なのだ。
「これが、そのカマキリーモラって悪魔の末路か……」
悪魔に取り憑かれた少女の身体は、老婆のように痩せ細っていた。
その口元は赤黒い血で汚れている。
折り重なる男子高校生の皮膚はまだ若々しく、死体なりに青白くはあったが、問題はその部分のいくつかに顕著な損壊があることだった。
すくなくとも彼の脳と心臓は、食われている──。
「キキーモラってそんな悪魔だったか?」
首をかしげるチューヤに、
「最近多いね、その手のえぐい展開」
辟易気味のサアヤ。
「おい毒蛇。おまえがどこにサイバネティクスの情報を流してるか、よく自覚しろよ」
ケートが厳しい口調で言うが、
「おそロシア、ってか」
鼻先で笑うマフユ。
──ココムやメッセナー取り決めなど、旧共産圏への輸出規制という歴史が、20世紀にはあった。
21世紀にも、主要なプレイヤーは多国籍企業に切り替わったとはいえ、いぜんとして国家というカテゴリーは大きな影響をもたらしている。
ウクライナ戦争でも顕著になったとおり、ロシアの選択はしばしば経済合理性を無視する。中国、北朝鮮などの専制国家にも、類似の傾向がある。
そんな国に情報を流すことで、世界情勢はさらに混迷の度を深める可能性がある。
「むずかしいことはロキ兄が考えてんよ。あたしはただ、友達にプレゼントしてやっただけさ、ちょっとした道具をな」
サイバネティクス・カリキュレーター。
総体としては、人間と機械を合体させるモジュールだが、部分的に使えば悪魔を強化する用途にも用いられる。
演算子を変更して逆算すれば、異なる意味で男と合体する女にも、あるいは境界の境界に深みをもたらす可能性もあった。
すべての合体は、境界領域において引き起こされる。
極端な分離を引き起こしたければ、そのロジックを利用するにしくはない。
「自覚しろよ、おまえのせいだぞ」
「うるせえ、あたしに話しかけんな。あたしの耳はつねに、かわいい女子の声しか聴きたくないんだ」
「どこのオッサンだ!」
「もう、フユっちったら、私がかわいいのはしょうがないけどぉ」
サアヤは言いながら、生々しい死体から遠ざかる。
現場では刑事の息子が実況見分に立っている。チューヤはフロッピーディスクの残骸をぷらぷらさせながら、
「この計算機をもっていけば、バカな男のハートもがっちりゲットだぜ、ってか。たしかに、もののみごとにイートゲットされたわけだな、ハツ(心臓)からブレンズ(脳)まで」
「数理部のやることだから必ずしも不自然ってわけじゃなかったが、それにしても高度すぎる特殊な計算が含まれている事実に、もっと早く気づくべきだった。──人間やめさせやがったな、ヘビ」
ケートの視線を追うように、一同はマフユを見つめた。
人々から睨まれること、悪意を向けられることに慣れきった女は、平然と言い放つ。
「当人が望んだんだ。いいからどけよ、終わらせる」
見まわせば、境界が薄れはじめている。
このまま現世にもどれば、目のまえの死体を猟奇死体として届け出なければならない。
そのまえに、マフユは両者を持ち上げて、井戸の下に投げ捨てた。
「な、なにすんだよ、マフユ」
「闇から出たものを、闇に返すんだよ。どうせ人間なんか、この国だけで百万単位で消えてんだ。ひとりやふたりの生き死にを、ことさら暴き立てて楽しんでる暇なんかねえだろ」
それがマフユなりの優しさなのか、それとも単なる証拠隠滅を企図したものかは、チューヤには即断できない。
ただ、ここでまた二件の行方不明事件が迷宮入りしたらしいことだけは、理解しなければならないと思った。
最後のエサを呑み込んで満足したかのように、境界が一気に晴れていく。




