48 : Day -39 : Fujimidai
「まっくらくらすけー!」
サアヤの声に、シュボっ、と一瞬明るくなるマフユの顔の周囲。
明かりを照らすついでか、火をつけるついでか、おそらく後者だろう。
「ふーっ」
「フユっち、メッメ、未成年!」
あわてて駆け寄り、マフユのくわえているものを奪い取るサアヤ。
それがただのタバコならばまだしもだ。
マフユはしばし残念そうにそれを眺めていたが、サアヤに逆らうつもりはない。
「……L、E」
そのとき、ケートのつぶやきに反応して、壁に電撃らしき線が走った。
天井でその線がつながり、光を発する。
「おー、そーいやケートも魔法使えるんだっけ」
悪魔を召喚して明かりをつくろうとしていたチューヤが言った。
「ふん、これは知恵だ。理屈としてはライト・エミット、LEDのダイオード部分を置き換えて」
「なんか、変なところに閉じ込められたねー」
周囲を見まわすサアヤ。
──縦横3メートルちょっとの立方体の空間。
薄汚れているが、壁の組成は炭酸カルシウムを中心とする結晶構造。
石灰岩がマグマによる熱変性を受けて再結晶したもの、いわゆる大理石だ。
井戸の底という状況には似合わない材質に、違和感をおぼえる。
その四角四面の「部屋」に、本能的な圧迫感、息苦しさをおぼえる。
──いや、気のせいではない。事実、息苦しい。
シュボっ、といたずらにライターをもてあそぶマフユを、鋭く制するケート。
「つけるな! 酸素が減る」
「……どういうことだ?」
不安げなチューヤの問いに、ゆっくりと周囲を見まわしながら、
「どうやら、まずいことになっているようだぞ……」
「いてて」
と、腰を押さえてうめくマフユ。
回復魔法を執行しようとしたサアヤの動きが止まる。
「ぶつけたの? 待ってて、フユっち。……あれ?」
「またやっかいな牢獄に閉じ込めてくれたな」
ぼやくケートの意図に、チューヤもすぐに気づいた。
事態は……深刻だ。
「悪魔が召喚できない! なんだこれ、どうなってんの、ここ境界じゃないの!?」
一同、冷静に自己の状態を省察する。
ナノマシンは起動する。これは当然だ。過去に飛ばされたときも、そもそも使役する悪魔が存在しなかっただけで、ナノマシンじたいは機能した。
ただ、魔力空間に干渉できない。
要するに現状は、境界化が解かれている。
彼らが魔力回路にアクセスできるのは、あくまで空間が「境界化」しているからだ。
われわれが人類として進化してきたなかで、魔法使いが歴史の表舞台で火の玉や電撃魔法を駆使する姿を「物語として」以外に見たことがないのは、そのような力が行使できない物理空間に暮らしていたからだ。
現世側の世界線に立つかぎり、古典物理学の厳密なる測定空間の束縛から、逸脱することはできない。
「けど、チビのスキルは使えてるじゃねーか。なんかズルしてんな、てめー、白状しろ」
「バカが。壁をよく見ろ。床、壁、天井もそうだろうが、面それ自体を境界として、こちら側だけが現世側の世界線なんだよ。ボクたちは、境界という監獄に囚われているんだ」
彼らは魔力の監獄に囲まれた、現世側の世界線に立っている。
いつもは「境界から脱した」ことを、いわばミッションクリアの要件のように思っていたが、今回は、そうはいかない。
「て、ことは……ぐはっ! ちょ、なにすんのサアヤ!」
チューヤの横っ面を張り飛ばすサアヤ。
マフユは笑顔で腕をまくり、
「お、いいねサアヤ、八つ当たりなら手伝うぞ」
「ハウス! さあチューヤ、床をなめるんだよ」
チューヤに馬乗りになり、その顔面を床に押しつける、サディスティック・サアヤ。
「どんな悪魔に取り憑かれてんだよ、おまえは!」
叫ぶチューヤの頬から、瞬間、痛みが引いていく。
サアヤは早々に彼への興味を失って立ち上がりつつ、
「回復、執行。──なるほど。たしかに、壁とか床面に接した部分では、魔法が使えるね」
「最初にボクが壁を光らせることができたのも、その理屈だな」
うなずくケート。
要するに、壁に触れている面でのみ、境界の効果が作用する。
ここまでハッキリした「境界との境界」に投げ入れられたことは、かつてなかった。
いままでは靄のようなものに包まれ、なんとなく、ぼやっとした流れのなかで、境界に取り込まれたり、離脱したりしていた。
これはこれで、むずかしい状況といえる。
「もっと別の方法で確認しようっていう配慮は、サアヤさんには期待できないんでしょうかね!?」
「ちっ。しかし、そうなると……やっかいだな」
眉根を寄せ、ぼやくマフユ。
彼女にも、どうやら状況の深刻さが理解できた。
かろうじて「面」に対し魔力回路を行使できるケートのアビリティや、サアヤのマジックに比べ、「空間」を必要とするマフユの変身やチューヤの悪魔召喚は、かなり能力を制限されることになる。
「ところどころ魔法が使えなかったり、悪魔が召喚できなくなったりする、やっかいなタイプのダンジョンってことだね!」
「黙れゲーム脳。……さて、おもしろくなってきやがったな」
つぶやくケート。
酸素が尽きるまえに、問題を解決しなければならない──。
コンコン、と壁をノックしてみるチューヤ。
「掘れよ、モグラ」
「どう見ても、そういうレベルの話じゃないね」
マフユに煽られても、さすがに大理石の壁を掘る気にはならない。
肩をすくめるチューヤに、サアヤが明るく絶望的なことを言う。
「ピラミッドに生き埋めにされたみたいなもんだね!」
「問題は深刻だな。ここは、どうやら完全な密室だ。空気がまるで流れていない」
天井を見上げ、つぶやくケート。
数十トンもの巨石に閉じ込められた場合、解法などあるのか?
それも、酸素が尽きるまえに。
「それで、この密室の酸素がもつのは、どのくらいなの?」
「数時間ってところかな。厳密に計算してもいいが、脳を使うと酸素も多く使う。その価値がありそうか?」
「だったら考えるのやめてぶっ壊す?」
「ぶっ壊そうと、必死の努力をした痕跡なら、あちこち見ればよくわかるだろ」
それはある意味、凄惨な光景だった。
壁が薄汚れているのは、年月による汚濁だけではない。
ここに閉じ込められた人間を含む生物が無数にいて、それらが結局、二度と日の光を浴びることなくこの地下で朽ちていった歴史が見て取れる。
石の破片、同じカルシウム質の骨、エナメル質の歯、あるいは指先をボロボロにして、壁を掘ろうとした人々は、これまで何人もいたらしい。
ほんのわずか、掘り崩された壁は、絶望的な悲劇の痕跡だ。
「しょせん石だろ? そんなら叩けば壊れるし、水滴で凹むっていうくらいだし、がんばれば……」
ただの石灰岩であればそういうこともあるだろうが、大理石だとむずかしい。
石灰岩と大理石は同じ炭酸カルシウムを主成分とし、花崗岩などと比べればさほど硬くはない。そのため加工が容易で、古来から広く人類の役に立っている。
とはいえ、石灰岩が熱変性を受けて結晶化した大理石は、非結晶の石灰岩に比べてかなり傷つきにくい。もっぱら建築の材料として汎用されるのもそのためだ。
破壊できないわけではないが……。
「そこが悪魔の奸計だな。すこしずつなら削れる。もしかしたら、という希望を最後に残す。おそろしい連中じゃないか?」
「すこしずつだ? んなことやってられっか。はいってこれたんだ、出口だってあんだろ」
「たぶん、外側からしか開けられない出口だろうな。内側からはどうしようもない……だからこそ、こうしてこの場所には無数の屍が並んでいて、外に出た痕跡が一片もないんだろうよ。──チョークってのは、おそろしいんだ」
黒板に板書する道具として有名なチョークだが、これは原料である白亜を意味する。
通常、学校などで使われているものは、炭酸カルシウムや石膏を水で練り、成形したものだ。
ピラミッドの外壁には当初、チョークが使われていて、できあがったばかりのピラミッドは現在のようにゴツゴツしてはおらず、美しく瞬くばかりの、まさしく白亜の三角であったという。
それが現在のようにゴツゴツした三角になった答えは、時間だ。
雨、風、砂礫という、いわゆる「浸食」「風化」作用によって、美しい外壁はそぎ落とされ、堅牢な花崗岩による形骸のみが残された。
大量の石材を必要とした後世のイスラム教徒などが、建築素材として大量に転用した、という説もある。
しかし、たとえどれだけその外壁を削がれても、世界遺産として冠たる存在感だけは揺るがないのが、ピラミッドの恐ろしいところだ。
もうひとつ、ピラミッドには真の恐ろしさが隠されている。
その秘密を守るため、いくつかの遺跡において内部に「閉じ込められた」職人が、多くいたことだ。
みずから望んで人柱になったという説もあるが、理由はともかく閉じられたピラミッドから這い出すことは、どうあがいても不可能だった。
「ここはピラミッドじゃないでしょ。だれかは出たんじゃないか?」
「さあ、そこだ。ここに酸素があるってことは、出口はあるにちがいない。だが、その出口は、こちらから出ようとして簡単に出られるような仕組みだとは思わないほうがいい」
「そりゃそうだね」
場を沈黙が支配する。
それは、想像を絶するほど長く、重い沈黙だった。
いや、ほんとうは短かったのかもしれないが、彼らの体感では永遠にも感じられた。
その末に、乾いた喉から最初に声を絞り出してくれたのは、ケートだった。
「──こんな話を知ってるか? 人間は、10の14乗分の1くらいの確率で、壁をすり抜けることができる」
「あー、なんか都市伝説で、そんなやつあったねー」
細胞を形成している素粒子に、透過性があるからとかなんとか、もっともらしい理屈をつけて不思議ネタを披露する雑誌。
月刊『ヌー』の大好物だ。
「人間も壁も、原子レベルで見たらスカスカだから、たまにはそういうことも起きるとかなんとか、そんな話だっけ?」
「もちろん、まともに受け取るべき話じゃないが、理屈としてはおもしろい。このチョークだって、物質としてはスカスカだ。クォークとかの素粒子はつねに通り抜けているし、時間のオーダーを引き延ばせば水でだって穴が開くんだ」
「何百万年も待ってられませんけど」
ケートは壁に向き合い、うなずいて言った。
「わかってる。あとは概念的な作業だ。──液体ヘリウムって知ってるか?」
「すごく冷たそうな印象だけはわかるよ!」
「まあ、正解だ。あらゆる元素は冷却すると、液体になり、固体になる。われわれの知っているすべての気体も、例外はない」
「結論を言えよ、くそチビ」
「……相転位だよ。液体ヘリウムは、絶対零度近くなると、液体のままで固体の性質を示すようになる」
水は摂氏100度で気体になり、0度で固体になる。
同様に、すべての元素に融点と沸点というものが存在し、圧力にも関係するが、基本的に物質は温度によって、固体、液体、気体、という相に転位する、という決まりになっている。
液体ヘリウムは絶対零度近くまで冷やしても、見た目は液体のまま変わらない。だがじつは、内部の性質が変わっている。
それを証明する実験に事実、チョークが使われた。
「たとえば水は、水蒸気になっていれば暴れまわり、ぶつかり合って、それはもう大量の熱を発しているが、水になるとその動きは鎮まる。鎮まりはするが、揺らせば揺れるし、その内部では多数の水分子がぶつかり合って、それなりの熱を発している」
これを冷やし、固体にするとどうなるか。
分子のぶつかりは一気に減少して、ほとんどぶつからない状態になる。だがじっさいは、氷の状態でも内部の分子は振動して、微量の熱を発している。
チョークには、わずかに隙間があって、その隙間は原子1個分だ。ということは、動きまわらない1個の原子なら、そっと、その隙間を通り抜けることができる。
液体ヘリウムはどうか?
液体の状態で動きまわることによって、その原子は熱を生じ、原子1個分の隙間を通り抜けることができない。
これを絶対零度近くまで冷やしたとき、相転位が起こる。原子が動きまわり、互いにぶつかることをしなくなる。
すると、おどろくべきことに、液体のように見えるヘリウムは固体にはならないが、それに近い性質を示すようになる。
原子1個分の隙間を通り抜けるのだ!
「話が長いんだよ。それでどうすんだ」
「ボクたち自身が相転位するんだよ。温度を下げて、チョークの隙間を通り抜ける」
もちろん、文字どおりではない。
さいわい壁面からむこう側には、境界的な魔術回路が形成しうる。
そこに冷却系の回路を形成して、チョークの隙間を通り抜けられる「状態」をつくりだす。
それが可能かどうかは。
「計算するか」
にやりと笑い、チョークの破片を手に、床と向かい合うケート。
軽快なBGMが脳内で流れだし、踊るような動きで床に数式を描いていく。
「ケート先生、じつにおもしろそうっスね……」
派手なリアクションで、壁や床に数式を書き散らすキャラになりきる。
それが、じつにおもしろく、やってみる価値があるかは、彼の計算にかかっている──。




