03 : Day -44 : Keikyū Kamata
「先生、いらっしゃいませ」
店の入り口のドアが開いて、店員がそう声をかけた瞬間、一同の動きが止まった。
一斉に集中する視線のさき、どこかで見たことのある顔。
チューヤはそれが、原始世界で一瞬だけ見た老人だ、と気づいた。
同時に、店内に視線を走らせて太った女を探したが、もうその姿は見えなかった。
──原初神。まさか。
チューヤは老人に視線をもどす。
中国風の衣装をまとってはいるが、半白のざんばら髪と生えそろった特徴的なヒゲは、みまごうはずもない。
両手を背中に組み、小柄な老人は、ゆっくりと店内に足を踏み入れる。
その身体全部が、店内にはいった瞬間。
ピィン──と、空気が硬直した。
「うぃーっ。飲めば飲むほど、強くなる、ってか」
と、その緊張をぶちこわしにするような声に、ハッとしてふりかえる。
マフユが老酒らしいビンをラッパ飲みして、にやにや笑っている。
厨房から勝手に持ち出してきたのか、と不安をおぼえたが、どうも一連の状況に対する違和感がさきに立って、チューヤはうまく言葉を選べない。
さらに引きつづく状況は、彼を混乱の極に陥れた。
「好き」
ヒナノがリョージの肩に頭を載せ、言ったのだ。
「はあ? おまえまで酔っぱらってんのか、お嬢」
リョージはいぶかしげに、自分の肩に載った金髪を凝視する。
一瞬、リョージ以上に混乱したチューヤだったが、
「……ちがう?」
それが、だれの声だったのかはわからない。
あるいはただの希望的観測か、それとも本能が発した期待にすぎないのか。
だが、彼はたしかに「ちがう」と思った。
なにが、どうちがうのかは、まだわからない。
「なに言ってんだよ、チューヤ。めでたいじゃないか、カップル誕生だ」
そういうことに興味がないはずのマフユが言う。
「そうそう。披露宴はこの店でやれよな、リョージ」
煽るケートの口調もおかしい。違和感は募るばかりだ。
「結婚しよ?」
ヒナノが顔を上げ、言った瞬間、
「泥沼のねーさんか、あんた」
間近で何度も「体験」しただけあって、リョージが気づくほうが早かった。
その瞬間、ヴン……ッ、と空間にノイズが走った。
3人の友人の表情が、仮面のように固まり、そのうえにヒビがはいっていく。
「ほんと、姉さんはいつもそれだから。欲求不満ってやーね」
マフユの殻を破って、下から泥酔幼女アトロポスが姿を現した。
「なによ、あたしのせいにする気? あんたがガバガバ酒飲むからでしょうが、このアル中」
ヒナノの殻から出てきたのは、毎度おなじみ恋愛の泥沼体質クロト。
「まあまあ、ようやく待ち人のほう、いらしたようですし──」
ケートの下からは、甘い香りを漂わせる次女ラキシス。
──銀座の時の3女神。
ぞわり、とチューヤの背筋に走る悪寒。
また、この3人か。
狂言まわしの域を超えてるぞ、と突っ込みたくなるが言葉が出ない。
「……時が、止まる」
チューヤは、その声がすでにみずからの発声器官を鳴動させていないことを自覚する。
「お久しぶりですね、太上老君」
ラキシスが一歩を踏み出し、老人に向け慇懃無礼に頭を下げた。
リョージが「先生」と呼ぶ老人の肉体も、ピクリとも動いていない。
ただ、その影のうえに重なる巨大な神威は、だれもが感じていた。
──魂の時間。
ここからさきは、肉体的な影響を与えることは不可能となる。
魂同士が情報交換などをするためだけの、圧縮された時間軸。
チューヤは慣れているが、リョージは対応に苦労しているようだ。
だが、彼らの適応を待っているほど、女神たちは悠長ではなかった。
「泥虫、おいで……! アン・ドゥ・チュルァ」
ラキシスが空中に魔法陣を描くと、そのうえに丸っこい緑色の影が浮かび上がった。
どうやら泥虫というらしい、それは言った。
「ハロー……」
ジジッ、と視界がモザイクする。
生まれたての彼、あるいは彼女。
「ワー、ルド……」
ぴちっ、と電子制御が一瞬、噛み合って視界はきわめて晴朗。
「ハロー、ワールド」
世界に向けて、泥の目が開かれる。
人類社会が開眼した日も、こんな日だった──。
泥虫は、魔法陣からつぎつぎと現れた。
しかしそれらは、どう見ても統制がとれているとは言い難かった。
無作為に空中を泳ぎ、店内の客たちに向かって吸いついた。
もちろん肉体への干渉はゼロだ。時は止まっている。
魂の時間をうごめく虫は、つまり「ただのデータ」ということになる。
ただし、この世界(This World)では、情報こそが最優先。
影響を受けた魂が、肉体から浮き上がり、死人のように青ざめていく。
「な、なにやってんだ、あんた」
チューヤは言いつつ、自分のまえにも飛んできた泥虫を、あわてて振り払った。
ラキシスは悠然とふりかえり、もはや興味を失ったチューヤたちが、そこに存在することをようやく思い出したように、言った。
「魂の価値に見合った状態にしてあげているだけ。人間の魂はエサであり、賭けの道具にすぎないから」
悪魔らしい物言いだと思ったが、そこにはさらに深い含意がありそうな予感もしていた。
現に、ぴくり、と「老先生」の肩が揺れた。
ここが彼の店だとすれば、ラキシスたちはたいへんな「わるい客」ということになる。
チューヤは厳しい表情でラキシスを睨みつけ、
「最初から味方だとは思っていなかったけど、それ以上やるなら、敵と認識するぞ」
ラキシスはさして興味もなさそうに、チューヤを顧みる。
「たいしたことは、やっていないわ」
「なんだと? だって、死んでるじゃないか」
チューヤは客たちを指さすが、
「いいえ。たしかに死んだようになっているけど、死んではいない。むしろ、しあわせに生きている。彼らの脳は、とてもしあわせなのよ」
言われてチューヤは、死人のような顔の魂たちを見つめる。
げっそりと痩せ細り、青ざめてはいるが、表情はどこか恍惚としてもいる。
瀕死の恍惚感──とすれば、たしかに、死んではいないのかもしれないが、
「だけど、これは、生きてるって言えるのか」
「鏡を見ろ。人類よ。おまえたちは生きているのか?」
女神たちの声が重なった。
その言葉がすなおに響いたのが、リョージだった。
彼は静かに首を振った。
すくなくとも彼の目に、人類の多くは、すくなくとも昔のヒトのようには生きていない。
チューヤの心にも、別の形で響きわたった。
それが新しい人類の生き方なのだ、と強弁もできる。
だとすれば、泥虫に感染され、しあわせな脳内に引きこもり、死んだように生きている彼らも、新しい生き方をしているだけなのだといえる──。
「泥虫に感染したら、あとは恍惚のなかで衰弱するだけ。それはとても、しあわせなこと」
餓死するまで、ネットゲームをしつづける少年もいるという。
チューヤには……否定できない。
はじめてやったゲームのおもしろさに熱中して、時間がたつのを忘れる気持ちはよくわかる。
──「楽しかった」のだろう? ならば「よいではないか」──。
女神たちの声の、なんたる説得力だろう。
「よ、よいよ。楽しいし。よいけど。だけどよ……」
うまい言葉が見つからない。
自分もそのなかに半分、浸かっているようなものだ。
当事者でありながら、同列にいる者を批判できるのか。
いや、当事者だからこそ、問題点を肌で理解できることもある。
「だけど、なんでだ? あんたらは、先生と……」
リョージは気力を振り絞り、女神と先生を交互に見つめる。
──泥虫の群れは、さすがに太上老君と思しき神威に近づくことはなかったが、どこかの一匹が誤ってふらふらと接近した瞬間、その姿は空間の彼方にかき消えた。
老人の周囲の空間が、たしかに歪んでいた。
「見るがいい、人間よ。あの年寄りは、深海の底からきた原初神だ。人間を死の安らぎに連れて行く闇の導き手だ。宵の明星と組み、おまえたちの種族を弄ぶものと知れ」
ラキシスが言った瞬間、ぐしゃり、と空間が曲がった。
空間そのものが引き裂かれたような感覚を、チューヤたちは味わった。
それは時の女神たちも同様だったようで、やや気圧されたように一歩、身を引きつつ状況を見定めた。
つぎの瞬間、時間は動きを再開していた。
店の入り口に、欧陽先生の姿はどこにもなかった──。