02 : Day -44 : Kōjiya
リョージとケートの視線が交錯する。
冗談抜きの気配が徐々に強くなっていく。
どうしてこうなったのか、チューヤにはまだまったく理解できない。
──東洋文明といえば、中国とインドに代表される。
そして中国、インドともに、それぞれおどろくほど独自に発展した。他の2大文明、エジプトとメソポタミアが、互いにかなりの影響を与え合っているのと対照的だ。
中国は、インドから仏教を輸入はしたが、それ以外の面ではほとんど影響を受けていない。
みずから文明を創造し、もって「中華」であるという思想を築き上げるだけの根拠がある。
一方、インドもまた独特だ。
ほかから影響を受けるということが絶無であり、隣接する巨大な文化圏である中国からも、文字はもとより歴史の観念や儒教や道教を輸入することは、ついぞなかった。
両者の影響関係の乏しさこそ、むしろ研究されるべき歴史の謎といっていいだろう。
両者の文化はほとんど正反対であり、非常に対照的で、それがゆえに現在も仲がよくはない。
中国的な特徴といえば、始皇帝によって築かれた「ひとつの中国」というスローガンであろう。
現在の国家指導者たちまで連綿と受け継がれているこの思想は、中国という国家を強烈に桎梏している。
一方、インドは最近までごく「大雑把な集団」だった。
カーストという制度によって区分され、王族や部族が互いに小競り合いをくりかえす状態、それがインド本来の姿である。
インド亜大陸が統一されることも、まれにはあったが、それが永続的な状態になるなどとは、だれも思っていなかった。
──中国とインドには、おおよそ類似点がなく、互いに嫌い合っている。
だから、リョージとケートが互いを敵視するのも、ある意味では当然のことと言えるのかもしれない。
「いや、オレはべつに敵視してないぞ」
現実の中国はともかく、リョージはいつも冷静だ。
「眼中にないかのような物言いはよせ。きさまは黙って負けを認めておけばいい」
まだケートも冷静だ。
「そう言われると、戦いたくなるなあ。あいかわらず煽るのがうまいじゃないか、ケート」
腰を浮かすリョージ。
「ふん、必ず認めさせてやるぜ。カレーこそ、完全食であると」
人差し指を立てるケートに、
「バカ野郎、ラーメンに決まってるだろ」
だん、とテーブルをたたくリョージ。
──カレーVSラーメン戦争。
矮小化すると、そういうことになる。
「くだらない……」
「スシとテンプラを持って参戦しろ、チューヤ」
「いや、カレーもラーメンも日本食だから」
チューヤの結論はすべてを包含する。
こうして、酒も飲んでいないのに(ひとりを除いて)盛り上がるテーブルを、周囲の客たちは不思議そうに眺めている。
なかでも樽のように膨らんだ女性客がひとり、楽しそうにこちらのテーブルを眺めていることにチューヤは気づいたが、「こっち見んな」と言えるほど社交的ではなかった。
どこかで見おぼえがあるのだが、思い出せない。
「てかさ、リョージとケートが喧嘩した理由って、ウサギとカメだったよな?」
メタファーに満ちた問いだ。
チューヤにそのつもりがなくても、ピンポイントに要点を突いている。
「リョージの視点は近視眼的だが、ボクは巨視的に世界を見ている」
「言ってしまえば、立ち位置のちがいでしかない?」
「いっしょにするな。ボクたちが上位文脈なんだ」
ひとくくりにされるのが不快だ、とばかりインドを代表するケート。
ケートの理想とする世界は、一見、雑駁なインド社会とは合致しないように見えるが、高度な数学的体系に基づき、最高の科学と秩序だった文明によって、あらゆる自然・宇宙をも含めた体系的支配状態を到達点とする。
ひと昔まえのSFが理想としていた世界に近いが、その破綻や蹉跌の歴史を閲したうえで、なお追求すべき高次科学の文明社会があるという。
「地球を、人類の創りだした秩序で埋め尽くすのが、おまえの目的なのか、ケート」
昔からチューヤも、ケートがそういう考えをもつことは知っていた。
リョージは首を振り、めずらしく強い口調で彼の思想を否定する。
「ろくでもない結論だよ。強すぎる力に達した人間は、もう引くべきなんだ。ほとんどの地平を自然にもどし、委ねるのが正解なんだよ」
中国がそういう思想のもとに国家を運営しているかは別として、その一端に根差す民族信仰・道教は、たしかに自然との調和・陰陽の和合を理想とする。
虚無的な理由もあるが、基本的に、あるがままの自然体系に必要以上の改変を加えない。
リョージの混沌は、おそらく道教の延長線上にある。
「半端なカオスなんざ捨てちまえよ、リョージ。自然な生物とやらに、もう価値はほとんどない。あったとして、それ以上の価値で塗り替える力を、すでにボクたちはもっている。謳歌せよ、人の春、だ」
場合によっては、環境に適応した生物を新たにつくりだして、利用すればいい。
すべての生産と消費がコントローラブルであり、その範囲は全地球から月へ、火星へ、そしてダイソン球が包み込む太陽系へと広がっていく。
「人の春は、都市で完結する。それ以外の土地は、自然に返せ。そのためのゼネコンであり、都市計画であり、オクテート建設だ」
リョージの父親が勤務する、オクテート建設。
東京を究極に開発しようとしている、地下開発のパイオニア中堅企業だ。
そうやって東京を極端に開発し尽くすことで、その他の土地を地球に返すことができる、とリョージは考えている。
おそらくオクテート建設の企業理念も、そういうことなのだろう。
この思想には、多くの「自然保護団体」が調和する。
やっかいな問題だ、とチューヤはいまさらながら気づいた。
昔のゲームだと、混沌はすべてを破壊する暴力的な力、秩序はすべてを神に委ねる全体主義、という「同調しにくい」思想にまとめている。
ゆえにニュートラルが正解であり、他のシナリオは「オマケ」のようなものとも思われがちだ。
しかし現在、その対立はより高次に洗練されている。
「人類は都市に集まって、その他の土地はすべて自然(混沌)に返せ」という主張は、多くの人類が同調して支持するだろう。
一方、「科学技術の発展がすべてを塗り替える。地球は箱庭であって、もはや地上には、人為的な自然しかないことを理解すべきだ」と達観し、支配できる場所をすべて支配したうえで、循環可能な状態で維持することに注力すべきだという考えもある。
企業的思考といってもいいし、現にここまで発展した人類が地球を掌握して「当然」と考える人々は、統治(経営者)階級において主流を占める。
現代的な文脈における「秩序」と「混沌」は、人類を二分して対立軸を形成するに値する論旨に立脚しているのだ。
「地方から人間を全部、東京をはじめとする大都市に集めて、あとの土地は全部自然にもどすってことか」
「それが可能になった以上、人類はその道を選ぶべきだ。地球を混沌に返せ。オレたちはもう、そうするしかない。それが、オレたちを生み出してくれた自然に対する、最後の恩返しなんだ」
チューヤの問いに、しっかりと答えるリョージ。
「だけど、それやられると、地方再生とか、ローカル鉄道とか、なくなっちゃうよ……」
「わるいな、なくなってくれ。中途半端な支配は迷惑なんだ。自力で生きられもしなくなった地方都市にカネをばらまくより、効率的な都市で死ぬまで生きたほうが、いろいろと幸せなはずだぜ。もしそれが幸せでないなら、他人を頼らず自力で生きてくれ。自力で自然と共生できない寄生虫みたいな人間は、都市から出てくるんじゃねえよ」
こういうところで、リョージは厳しい。
彼が「カオス」な人間であると、あらためて認識した。
とにかく人間が「人間として」ぬるく文化的に生きたいなら、都市に集まって暮らせと。
それ以外の土地はすべて自然に返し、そこで自由に生きたいなら、文明から離れて自力で生きる力をもってからやってみろと。
「そんな都市を、オクテート建設がつくってくれるわけだ?」
「オクテートの意味は、億の民が住める帝都だ。オレはそれを支持するし、そんな仕事をしている父親を尊敬しているよ」
「ふん、その帝都に引きこもって、他の場所は野生動物に返せ? おためごかしの自然主義者ヅラはやめろ。多様な生物という混沌が必要というなら、秩序のなかにつくりだしてやってもいい、混沌の箱庭をな」
満を持して、ケートが割り込んだ。
自分たちの秩序(混沌)のなかに、相手の「箱庭」くらいは容認してやってもいい。彼らは正反対の立場から、まったく同じことを言っている。
「おまえの秩序は、オクテートという箱庭で追及してくれや、ケート」
「調子に乗るな。ボクたちが上位文脈なんだよ!」
だん、とテーブルをたたき返すケート。
にらみ合う、混沌と秩序。
チューヤにも、ようやく得心がいった。
ウサギとカメも、カレーとラーメンも、この対立に行き着くことで満足しただろう。
そのくらい、両者の思想は近いようで遠い。
これが21世紀のカオスとコスモスというわけだ。
「折衷すりゃいいのにな」
とは思うが、この話は結局、主導権争いの話に帰結する。
混沌の箱庭か、箱庭の秩序か。
しかし議論は、そこまでだった。