01 : Day -44 : Zōshiki
朝帰りしてみると、家にはだれもいなかった。
そもそも人の気配すらしない。いつものことだ。
父子家庭、2人暮らし。
仕事人間。
父親を表現する言葉は、それ以外にない。
もはや父親の顔すら忘れた、と思い込んだ。
「めんどうが少なくていいやね」
よその家は言い訳が大変だろう。その点、うちは気楽でいい。
そんなことを考えながら眠りにつき、起きたのは昼前だった。
ナノマシンが快調に目覚めを支援してくれている。
最少の睡眠で最大の効率。
おそらく他のメンバーも、この恩恵は受けている。
「しかしナノマシンって、いったいなんなんだろうな」
いずれその謎にも切り込むことになるにちがいないが、いまはやることが多すぎる。
まずは、ジャバザコクのジャミラコワイ先生から出された「宿題」のクリア。
お使いRPGにありがちな課題も多いようだが、いっぱしの悪魔使いとして、やっておかねばなるまい。
それだけではない。
室井さんに報告に行ったほうがいいような気もすれば、足立の母に会っておきたい気もする。
仲間たちは、東京を代表する占い師、港のチャカコに会いに行っているらしい。合流したほうがいいのだろうか。
そういえばサアヤだけは、なんか用があるとか言っていたが……。
「まあとにかく、できることから片づけるでヤンスよ」
茫洋としたセリフをつぶやきながら、いつもの電車に乗り込むところから一日をはじめるところは、鉄ヲタらしい。
ただ、きょうはいつもと異なり、左回りに乗り込んだ。
目指すは東京の南側──。
休みの日に「電車に乗って遊びに行く」という習慣は、大正時代にはじまった。
小林一三の箕面有馬電気軌道、のちの阪急電車からだ。
ちなみにチューヤの場合は「電車に乗る遊び」という、ごく特殊な趣味・性癖の世界なのだが。
京急蒲田で乗り換え、六郷土手を目指す。
「さっすが、各停は空いてんね」
京急が快特の混雑緩和を目的に、各駅停車に乗ったらポイント付与、というキャンペーンを展開するくらいだ。
いつも通り、穴の開くほど車窓を眺めるチューヤ。
全身全霊で電車を楽しんでいるわけだが、きょうの目的はそればかりではない。
「六郷土手、ろくごうどてです」
いつもどおり、先頭車両の運転士右側の窓後ろに陣取り、目前の青いトラスを凝視する。
ドアが閉まる。タイフォンが鳴り響く。橋梁やトンネルなどのまえに警笛を置くのは通例だ。
──六郷土手は、文字どおり多摩川の土手に沿ってあり、今朝まで見せられていたものがただの夢でないとすれば、8.7万年まえの同じ場所をよく知っている。
しばらく駅周辺を眺めたが、当然、面影などあろうはずもない。
川の流れを眺めながら、解かれよ呪い、とつぶやく。
考えてみれば、あの運命の鬼女たちには、翻弄されてばかりだ。
「つぎは京急川崎です。大師線はお乗り換えです」
車掌のやる気のないアナウンスが遠くに聞こえる。
モーフィングのようにゆがんだ映像が、似たような風景に重なる。
川崎からやってくる同胞に、運転士があいさつの警笛を短く送る。
……川崎から?
先頭の行先表示にハッとする。
普通、浦賀……。
「浦賀!?」
あわててふりかえる電車が、そのさき、ほんとうに浦賀を目指しているとすれば?
自分が向かっている駅を終着駅にしている電車が、なぜすれちがうのか?
「六郷土手、ろくごうどてです」
さっきと微妙にちがう声で、さっき出発したばかりのはずの駅名が告げられる。
──23区から出られない。
あと43日間は。
東京から出られないという呪いは、いぜんとして強く彼を桎梏していた。
「くそ、京急なのに行っとかないダイヤかよ……」
唇を噛むチューヤ。
おそらくこの「ルール」は、JRだろうが東急だろうが西武だろうがメトロだろうが、関係あるまい。
東京から、出られない……。
しかたない、このまま都心を目指すか、と頭を切り替えるチューヤ。
せっかくだから京急の運用を楽しもう、と思った彼の目が、車窓から見つけたもの。
「……リョージ!?」
以前も「チューヤの車窓から」、ヒナノやサアヤを見つけたことはあった。
必ず窓の外を凝視する、という彼の癖は、たまにこうして役に立つ。
高架から一瞬だけ見えた街路を歩く人物まで特定できる動態視力は、彼がいずれ運転士になったときにも有用だろう。そのとき、まだそんな職業があれば、だが。
閉まりかけたドアから飛び出し、たたきつけるように改札をタッチして駆け出した。
しばらくガード脇を走り、目的の道で迷わず曲がる。
街路の入り組んだ都市でも、むしろ入り組んでいればいるほど、的確に目標物を割り出す立体把握能力。この人間GPSに発見されたら、逃げ切ることはむずかしい。
大声で呼びかけると、遠目でもはっきりわかる巨躯が、ゆったりとふりかえった。
「よう、チューヤ。なにしてんだ、こんなところで」
彼に会うと安心するのは、その力強い体躯ばかりが理由ではない。
リョージとパーティを組むとすれば、チューヤはバックアップに徹すればいい。非常にシンプルな生き方ができるわけだ。
「リョージこそ。ケートたちと港のチャカコんとこ行ったんじゃないの?」
「そのはずだったんだが、なんかみんな蒲田の店に集合してるって……グループチャット飛んでこなかった?」
ポケットからケータイを取り出すまでもない。
おそらく「リョージ・グループ」の親しい会話がくりひろげられているのだろう、と予測しながら首を振る。
「いや……みんなって?」
「ケート、マフユ、それにお嬢」
「たしかにみんなだね……。で、どこに集合?」
「蒲田の中華屋。老先生の店だよ、なんで知ってんだろうな、あいつら」
どこか釈然としないものを感じているような物言い。
それでもあまり疑うことをしないリョージは、仲間たちと合流することを約束して、その場所を目指しているらしい。
チューヤはしばらく並んで歩きながら、
「俺も行っていい?」
「むしろ、いまさら帰るなよ。さみしいだろ」
遠慮がちな問いに、あはは、と笑ってくれるリョージのことが、好きになりそうだった。
いや、最初からリョージ好きだし、とわけのわからない意識を新たにする。
リョージは勝手知ったる大田区の道を、すいすいと進んでいく。
「中華屋って、どこにでもあるよね」
駅周囲には、たいてい中華料理屋があるものだ。
「西武沿線はとくに多いよな。おかげで仕事に事欠かない」
高校最寄りの石神井公園を含め、そういう印象を持つひとも多い。
「リョージはどこでも仕事あるでしょ……」
チューヤがそう言ったとき、リョージは足を止めた。
話す間に、目のまえには、おそらく目的地である中華料理屋。
看板にはシンプルな書体で「中華大万」とある。
ここに、リョージの師匠である「老先生」がいるらしい──。
不敵な面構えで中華料理を食っている面々を、チューヤたちはよく知っている。
「よう、遅かったじゃないか、リョージ」
フカヒレに箸を伸ばしながら言うのは、ケート。
「なんだよ、チューヤもいるのか。おまえの分はないぞ」
隣に座っている人間の分も食うマフユの健啖は、きょうも全開だ。
「ごきげんよう、東郷くん。いいお店ですわね」
ヒナノが、チューヤに目もくれないのは、いつものこと。
「よう、みんな。今朝ぶり。なんでこの店に?」
案内されるまでもなく、空いた椅子に腰掛けるリョージ。
「てか、港のチャカコはどうなったのよ。いや、飯を食うなと言ってるわけじゃなく」
チューヤは、その横に座っていいのかどうか迷っている。
リョージにうながされチューヤが椅子に腰かけたところで、鍋部の5人が集合した形となった。
考えてみれば、ほぼ全員集合の局面にサアヤだけがいない、というのは非常にめずらしい。仲間外れになりがちのチューヤがいないことは、しばしばあるかもしれないが。
右奥のテーブル席で、中華料理を頬張っていた3人は、まだ昼食モードを抜けていない。
「これうまいな、ホイコーローか? こんどつくれよ、リョージ」
肉を頬張るケート。
「もうすこし行儀よくなさったら? 高級食材の食べ方をご存じないわけでもないでしょう」
言いながら上品に口元をナプキンで拭い、ご存じないにちがいない女に視線を移すヒナノ。
「老酒はまだか? 口の脂を流し込みたいんだが」
注文を通そうとして、学生服のお客様にはちょっと、と断られているのはマフユ。
「それで、どういうことだ? これからみんなで、港のチャカコのところか?」
「どうでもいいだろ、そんなこと」
リョージの問いに、ケートの答えは要領をえない。むしろ話題の方向を修正するヒナノ。
「それより、東郷くんの先生は、どちらにいらっしゃるの?」
いろいろ訊かなければならないことも多いが、とりあえず状況がこう固まってしまった以上は、それに沿って考え、動くしかないと決める。
「なんだよ、みんな欧陽先生に会いにきたのか?」
「世界の縮図を、一度この目で確認したいと思いまして」
世界の半分を背景に、ヒナノが俯瞰したい地図はどんな形なのか。
「中国とインドのどっちが強いか、って話だろ? おもしれーから見にきた」
マフユがよくわからないことを言うのはいつものことだが、
「もちろんボクが強いに決まっているさ、なあリョージ」
なぜかケートが乗っかっていることに、そこはかとない違和感がある。
待って、整理させて、とチューヤが右手を伸ばして言った。
これは、今朝のつづきというより、根本的な立場の確認に近い。
過去で確認した「はじまり」を認めるとして、これは未来の「行く末」を占う会談だ。
中国を背景にするのはリョージだし、ケートの背後にはインドがいる。
情報が錯綜している感も否めないが、異なる背景をもった人間が一定数集まっているのだから、強い弱いの話にはなる。
チューヤにとっても、ある程度、確認しておきたいところはある。
リョージの背後にいるゼネコンと中華街、それからケートの背後にいるITとインド多国籍企業。
ある種、これは東洋一の決戦だ。
「よし、おまえら。これを商品にやるぞ、奪り合えーっ」
やおらマフユがヒナノを担ぎ上げ、3人の男たちのまえに差し出すようにする。
「ちょっと北内さん、飲みすぎですよ?」
常ならざる取り扱いに、ヒナノの声も上ずっている。
「あー? こんなの飲んだうちにはいらねーって」
げらげら笑うマフユ。どうやら、ほんとうに飲んでいるらしい。
彼女なら、どんな非常識もおどろきはあまりない。
なにしろ人肉を食う女だ……。
「ふん。サアヤなら、三国一の花嫁として、ボクがもらい受けるところだが」
いらないよ、とひらひら手を振るケート。
彼は、どちらかというとヒナノを嫌っている。
よく意地悪をする理由として、好きだから、という小学生のようなはにかみも存在するが、彼の場合は単純に、嫌いだから意地悪をしている。その点、すなおといえばすなおだ。
どうやらエサがわるいようだ、と理解してマフユはヒナノから手を離した。
そもそもこの女たちじたい、仲がいいわけではない。
むしろ、ケートとリョージをしのぐほど、互いに両極端であるヒナノとマフユ。
彼女らが同じ部活に所属していることじたいが、ほとんど奇跡といえる。
両者をつなぐ接着剤として欠かせないサアヤがいないことも、この場での話題の展開を左右する可能性がある。
チューヤはごくりと息をのみ、状況の変転に注意を集中する。
サアヤはいまごろ、なにをしているのだろうか……。