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16 : Day -42 : Ōizumi-gakuen


 ぴちゃん、と水分の跳ねる音。

 轟く悲鳴。


「いやーっ! このうどん、跳ねるざますよ!」


 叫ぶチューヤ。

 鍋はついに「シメ」へと達した。

 本日は「麺」の日だ。

 サアヤは、動けば自分も同じ目に遭う、とばかり静かに答える。


「ラーメンでしょ、一応」


「コシの強い極太麺を仕入れてきたぜ」


 いい味を吸った残り汁は、どこまでも麺をすすらせてくれる。


「幾つカレーがありますて、黄色いうどんありますた」


「汚れつちまつた悲しいチューヤ」


 ポン、とオチをつけるチューヤンサアヤン夫婦漫才。


「もうナカタニチューヤに改名しろよ」


「いい詩が書けそうですわね」


 インテリたちもユーモアの悦に入る。


「カレーうどんめ!」


「詩人もうどんには勝てぬか」


 そういう物理法則が、地球にはある。

 チューヤは虚空を仰ぎ、涙目で笑顔をつくる。


「洗えば……いいと思うよ」


 すかさず乗っかるメロディアスなサアヤ。


「魂のソフラン♪」


「パターン黄、シミです!」


「カレーうどんめェ!」


「乾け、乾いてよ! いま乾かないと、あした着ていくものがないんだ!」


「風化するネタはよせ」


「中原中也は死後100年近く経ってるから、もう風化はしないだろ」


 エヴァンゲリオンもじゅうぶん歴史的作品ではあるが、中原中也に比べれば洗練の時間は足りていないかもしれない。

 すくなくとも本人たちが楽しそうなら、それでよいという雰囲気はあった。


「だれだよ、そのチューヤ」


 さすがに一同、マフユを注視する。現役で知らないのはまずい名だ。


「商業には現国の授業ありませんの?」


「中学で教わるだろ」


「どこで教わろうとアホの脳にははいらんのだろう」


「絞め落とすぞクソチビ」


「いててててて! 絞めてから言うな、レッドスネーク!」


「サブミッションは禁止だぞマフユ、とくにケートの首から上はな」


 しかたなく止めにはいるリョージ。

 盗賊スキル適性のマフユは、絞め技の切れだけはハンパない。


「心配するな、手加減はおぼえた」


「落とすギリギリで止めるやつな! なお始末悪……うっ」


「仲がおよろしいこと」


 冷たく笑うヒナノ。

 一見、つまらなそうに冷笑している、という印象だが、じつは心から楽しんでいる、という事実を鍋部の面々もようやく理解するようになった。


「わが部は恋愛禁止ですよ」


 さらっと部長風を吹かすチューヤに、


「恋愛すっ飛ばして結婚するんでしょ、ヒナノンとリョーちん?」


 サアヤが特大の反噬をくらわす。

 ぶっ、とお茶を吹く当人たち。


「だからそれは、例の泥沼ねーちゃんが化けてたんだって」


「まったく、ばかばかしい……」


 内心の赤面を感じさせないヒナノをいじるのが、なぜかサアヤは楽しい。


「いやー、なんだかんだお似合いだよー、よっ、おふたりさん!」


「恋愛禁止だっての!」


「なんだと!? 何様のつもりだ、チューヤのくせに生意気だぞ! 高校生が色恋沙汰に溺れなくて、だれが溺れるというのか? ふざけたこと言うやつだっちゃ、おしおきだっちゃ!」


 マフユに教わったサブミッションで、チューヤを締め上げるサアヤ。


「すまん、ギブギブ、わかってる、サアヤさんのノリは最高です!」


「でしょ。こういうラフランス・トークは乗ってかないとソンソン、なんだから。……でも、ケーたんとフユっちは、ノミの夫婦って感じでいいかもよ?」


「こんなクソチビとだれが付き合うか!」


「こちらこそまっぴらだよ!」


「そこだけ意見が合うのな」


「喧嘩するほど仲がいいものですわ」


「意外に相性よさそうだ」


「おまえら殺す!」


 ケートの鉄拳がチューヤとリョージを狙い、マフユの握撃がサアヤとヒナノを襲う。

 いつもの光景。いつもの日常。いつもの部活。




アブラ売りシフトは7人組 ひとりは店長であとバイト

みんな仲良く働いてる さあ稼ぎましょ


窓拭き(窓拭き) 灰皿(灰皿) バッテリ(バッテリ)

空気圧(空気圧) タイヤ(タイヤ) バック(バック)

オーライ!



 歌い上げるサアヤを、4人の聴衆は、なかばポカーンとして聞き入った。

 いつもはチューヤがコーラスを請け負うのだが、今回それを引き受けたのがケートだった、という点がめずらしいところだ。


 コーラスといっても、サアヤの言葉をくりかえすだけで、有名な楽曲でもあるのでさほどむずかしいことはない。

 サアヤのリサイタルはいつものことだが、この曲からは彼女が新たにはじめたらしいことの真実が、たしかに垣間見える。


「あーあ、言っちゃったな」


 つまらなそうにぼやくケート。

 せっかくサアヤと共有していた秘密が、全員に暴露されたことが不満なのかもしれない。


 ケートがなぜ知っていたのかはともかく、その発表がいつもの「替え歌」の形で周知されたのは、サアヤらしい。

 ──彼女の歌った『アブラハムの子』は、1970年代に外国曲として日本に伝わったが、原作詞者・作曲者が判明せず「原作家不明」のままでレコード販売されている(訳詞は加藤孝広)。


「なんのこっちゃ、サアヤ?」


「アンコール、サアヤ!」


「アブラハムの子……」


「もしかしてサアヤ、バイトはじめたの……?」


 本質に切り込むつもりもない部員たちに代わり、最終的に恐る恐る問いかけたのは、まさにその働かざる者──チューヤだった。

 サアヤは必要以上のリアクションで正解の鐘を鳴らす。


「ピンポンパンポコリンポコピーン! 大正解! 先週土曜日から、私サアヤさんは、油を売ってます! 人聞きわるいな! ガソリンスタンドでバイトをはじめています。勤労少女でーす、はーい、パチパチパチー」


 ひとりボケ突っ込みつつ、拍手するサアヤに、半数の部員が唱和する。

 あんぐりと口を開けるチューヤ。

 この大変な時期にバイトをはじめるヒロインがいるだろうか? いや、いない。


「なにを呑気なことぶちかましてんだ? サアヤ、状況わかってんの!?」


 さきに大人の階段を上がられたかのような嫉妬まじりに、チューヤが非難の言辞を漏らす。

 当然のように、おとなの表情で切り返すサアヤ。勤労は人間を成長させる。


「呑気もなにも、ほんとは先週ずっと働いてるはずだったんだよ。いろいろあって、先週の土曜からってことになってるけど」


「チューヤが甲斐性なしだからバイトするハメになったんだよな」


「労働者階級は大変ですわね」


「なんでケートは知ってたの?」


 キッ、と視線を向けるチューヤに、


「ボクは運転歴3年だぞ。ガソスタのバイトの面接にやってくる女子生徒など、みんな知っているに決まっておる」


「どういう理屈だよ……」


 飄々とうそぶく同級生に、納得はできないが理解はした。


「ま、そういうこと。バイトはね、火、木、土だから、鍋の日はだいじょぶだよー。火曜と木曜は夕方からで、土曜は午後からシフトはいるんだー」


 ダイコク先生の火曜・木曜の市民ミーティングの話で示したサアヤの反応に、チューヤもようやく合点がいった。

 もはや受け入れるしかないと認め、いろんな意味で感慨を新たにするチューヤ。


「まじか。サアヤも、ついにバイトデビューか……」


「いや、めでたい。これでサアヤも、オレたち勤労者の仲間だ!」


「うぇーい!」


 バイトの大先輩リョージと、パン、と手を打ち鳴らすサアヤ。

 勤労者に対しては、それだけでなにやら神々しいものを感じるのは、引きこもりのひがみであろう。


「先週から、なんか怪しいと思ってたけど、俺に相談もなく……」


「なんでチミに相談せねばならんのかね、労働を知らぬチューキチくん」


「あいつら働きもしないで無駄飯食ってる穀潰しを蹴散らしてやろうぜ、サアヤ!」


 サアヤばかりか、ただでさえ高いところから侮蔑的に見下すマフユに、地団太を踏むチューヤ。


「偉そう! たった1日、何時間か働いただけのくせに、無駄に偉そう!」


 サアヤは高笑いしてから、マフユに視線を移す。


「それはいいけど、フユっちのバイトなんだっけ?」


「キャバクラのバウンサーとか」


「暴力的な夜のお店、メッメ!」


「まあまあサアヤ、職業に貴賤はないぞ」


「うーん、ま、そうだね。これで、私たちは勤労者同盟組合登録患者だね!」


 両手にリョージとマフユを抱き寄せるサアヤ。

 チューヤには、もう突っ込む元気もない。


「しかし、まさかアブラ売りシフトとは思わなかったな」


「日本人はアブラ売りの子孫らしいよ!」


「サアヤ、だれに聞いた? ああ……ケート、変なこと教えるなよ」


「いや、ボクじゃないぞ、日本人はアブラハムの子孫だと言い張っているのは。おかしな新興宗教と月刊『ヌー』の連中だ」


「だからその月刊『ヌー』の陰謀論が問題なの!」


「アブラ売りシフトは7人組♪ ひとりはテンチョであとバイト♪」


 くるりとまわって頭に残るメロディを口ずさむサアヤ。

 重要なストーリーの展開点が、めまぐるしくやってくる。




 食後の休憩モードにはいってる鍋部。

 すでに知っていた事実の開陳に、あまり興味を示さなかったケート。

 その手元を、ヒナノがそっとのぞき込んで問うた。


「なにをなさっているの?」


「過去問解いてるんだよ。東大も意外におもしろい問題を出すな」


 ケートは手元から目を離さずに答える。

 後片付けの流れのなか、うしろを通りかかったチューヤが、たどたどしく問題文を読む。


「なになに? グラフG=(V,W)とは有限個の頂点の集合V……」


「すでに問題の意味がわかんねーな」


「解答の字も読めないけどね」


 肩をすくめるリョージに、最初から理解する気のないサアヤ。

 ケートの書いた文字列が、速記のようにクセのあるへたくそな字である点を差し引いても、もちろん、だれひとり理解できない。

 ──1998年後期の数学(グラフ理論)で、過去最高にむずかしく、予備校が解答速報を出せなかった難問として、一部で話題になった。


「心配するな。かなり人間やめた領域に踏み込んでいる、と揶揄される理系特進ですら、これが部分的にも解けるのは数理部のやつくらいだ」


「そーいや数学……数理部って、廃部になったんだよね」


「あー。先々週、部員全員、失踪ってことになっちゃったもんね」


 一同の視線が、部室棟の奥のほうへ流れる。

 ヒナノはケートが解いている難解な数学の問題を一瞥してから、


「日本の大学の試験問題くらいなら、あなたなら朝飯前でしょうね」


「そうでもない。それなりに完成させるのに、20分かかった」


 ケートは自分の書いた文字列を眺めながら、チェックを進めている。

 ──ちなみに98年当時、正解者はおらず、わずかに部分点をもらった者がいたのみであったという。予備校の講師が時間をかけても解けなかったのだから、それも当然だ。

 時間内に解ける受験生がいるとはとうてい思えず、試験問題として、これを良問とするか、鬼畜とするかは議論となった。


「ケートでもむずかしい問題なんて、出すほうがおかしいよな」


「入試で1問に20分かかるって、もう満点とか無理だよね」


「いや、問1は10秒でできる。問3のこの問題だけ、飛び抜けてむずかしい。オイラーとガロアのニオイがして、好きな問題だ」


「ガロアは知ってる。ケートに似てるよな」


 したり顔でうなずくチューヤ。

 もちろんチューヤが知っているのは、ガロアの業績ではなく肖像画だけだが。

 有名な言葉「ぼくには時間がない」を残して、20歳で死んだ天才数学者、エヴァリスト・ガロアの人生は、とてもドラマチックである。


「試験には時間がない、ですか」


「うまいこと言うね」


 ヒナノの素養ある発言には、ケートもにやりと笑う。


「こーいう数学できるひとって、頭んなか、どーなってるんだろうね」


 サアヤをはじめ、数学にアレルギーのある日本人は多い。

 ケートは左手で解答欄の下に線を引き、ひとまず証明を終えた。


「だが、より厳密に書こうとすると、この紙の余白では足りない」


「フェルマー(の最終定理)ですね」


 訳知り顔でうなずくヒナノ。

 数学界には、多くの伝説的なエピソードが残されている。天才とは、それだけで魅力的な存在なのだ。

 そこでふと、リョージが根本的な問いを投げる。


「ケートさ、天才なのに、なんでこんなところにいるんだ?」


「よく言われる。だが、それはキミたちにしても同じだ」


 ケートが()()()()()()()を、()()()()に引き寄せた。

 天才とはいちばん縁遠いサアヤが、てれてれと頭を掻きながら、


「いやー、私たちはただの普通科だし」


「ここに集まっている()()だよ」


 ケートの視線の意味を察するのに、時間差がある。

 チューヤは頭をひねりつつ、


「そりゃあ……鍋?」


「そういう意味じゃない。いや、それもかな。……ともかく、おかしいんだよ、いろいろ。あまりにも、偶然が重なりすぎている」


 ケートはいらだったようにペンで机をたたく。

 期せずして、6人が同時に、ぐるり一同を見まわす。

 ここに、この6人が集まったのは、偶然ではない……?


「名前とか?」


「あーね。トンナンシャーペー、ハクハツチュン、みたいな?」


「麻雀か!」


「っていうネタは、入学当初に何度もやって飽きたよ」


 いつもの漫才を、さっさと切り上げるチューヤ。

 東郷、南小路、西原、北内、発田、中谷。

 たしかに頭文字を並べると、おもしろいことになってはいるが。


「ただの偶然、という結論になったではありませんか」


 ヒナノが呆れたように言うと、意外な角度から切り返すケート。


「白もいないことだし、か? その〝白〟の謎を、解いてやろうと思ってな。ボクは、この世に謎があるのが気に入らないタチなんだ。今宵、そいつを解き明かしてやる。白い世界に彩りを添えようと画策した、真犯人を挙げてやんよ。見てな、中谷警部」


「だれが警部だ」


 憮然として応じるチューヤにも、一抹の期待、そして不安。

 見た目は子ども、頭脳は大人のケートが、一室に登場人物を集め、謎解きをするシーンが、あまりにも想像しやすくて苦笑すら漏れた。

 ──犯人は、おまえだ!


「またなにか企んでるのか」


「人聞きのわるいことを言うな。とにかく終わったら校長室に行くぞ」


「企んでるね、これは……」


白泉しろいずみ校長、ですか」


 急激に「理解」がやってきて、唇を引き締めるヒナノ。

 ──数日まえに「過去」を解いた。

 では「現在」なぜ、自分たちはここにいるのか。

 偶然が必然になる瞬間が、近づいている。



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