10 : Day -43 : Ōji
「お金、払ったじゃないですか」
路地裏から聞こえてきたそんな声に、ふつうの高校生は近づいてはいけないことになっている。
直後、柔らかいものを殴りつけるような音と、短い悲鳴と、ひとが倒れる音。
これだけの条件がそろえば、現場を見るまでもなく警察を呼びに走ってもいいくらいだ。
しかしチューヤは、その選択肢を即座に排除した。
──境界化。
このさきは、魔境だ。警察の介入は不可能になる。
「もう、おしまいだよ。おまえは捨てられたのさ。とっととエサになれ」
取り立て屋らしいヤクザの男の上半身が、悪魔の皮を破って、目のまえの女を咀嚼しようとしている。
それを助けるべく、悪魔使いチューヤが割り込んでお助け──。
するような陳腐なシナリオは、ただちに却下された。
「そんなの、ひどいじゃ、ないです、かぁあぁあ!」
獲物とばかり思っていた女の皮膚に、青い毛並みが波打ったかと思うと、左右に壁を蹴って往復したその中間、悪魔の死体がごろりと転がった。
──こいつも、悪魔憑きか。
悪魔名/種族/ランク/時代/地域/系統/支配駅
クダギツネ/妖怪/F/中世/日本/甲子夜話/王子駅前
中途半端に彼らの視界に身をさらしてしまっていたチューヤは、以後の行動を躊躇した。
境界が揺らいでいる。
このまま現世にもどるかどうかは、目のまえの悪魔が決めるということだろうか。
「ガルルル……」
ふと、背後からうなり声。
チューヤがふりかえるまでもなく、勝負は決しているようだった。
目のまえの女が、びくりとふるえあがり、その表情から殺気が消えた。
背後の唸り声は、おそらくケルベロスだろう。
昔から、キツネの天敵とされたのは、イヌだ。
『日本霊異記』には、死んだ人間がイヌに転生して、みずからに取り憑いて死に至らしめたキツネを噛み殺す、という話がある。
江戸時代、山の神である「お犬様」はキツネ落としに効験があるとされた。
女は憑き物が落ちたように、人間らしい所作でおびえ、引き下がった。
一種の解離性、多重人格を疑うほどの豹変だった。
同時に周囲の景色に色がよみがえり、光がもどった。
そのエプロンをかけた女は、近所の飲食店の従業員。
チューヤは、父親から聞いたとおり喫茶店『フォックス』を目指し、その店から出てきた店員らしい女と、借金取りらしいヤクザのやり取りの顛末を、まずは見届けようとした結果が、これだった。
「もどった、のか」
目のまえでは女が、悲しげな表情で、チューヤを見つめている。
まるで自分こそが被害者、とでもいうかのように。
いや、じっさいそうなのかもしれないが、まったく油断できない、とチューヤは思った。
お礼です、とチューヤたちは喫茶店に招かれ、コーヒーをサービスしてもらった。
猫舌のチューヤは、あわててアイスにしてもらう。ホットコーヒーなど、飲むのに何時間かかるかわからない。
その横で、追加注文したケーキの代金は、もちろん俺に払わせるつもりだろうな、とサアヤを見つめながら甲斐性なしの高校生男子は思った。
客は少ない。
カウンターに並んで座るチューヤたちのまえには、マスターではなくウェイトレスであるさっきの女が、洗い物をしながら立っている。
「借金を肩代わりさせられて、ほんとうに、ひどいんです」
あくまでも自分は被害者。聞いてもいないのに、女は自分がいかに弱く、理不尽に、ひどい目に遭わされてきたかを、とつとつとして語った。
もちろん、先刻の戦闘力を目の当たりにしているチューヤとしては、半分くらいの話として聞いている。
彼女は悪魔憑きというより、悪魔使いに近い。
クダギツネをみずからの配下として、的確に使役しているからだ。
しかし同時に、心を病んでいるという事実も、疑いはないように思われる。
──狐憑きを脳病ととらえる考え方は、昔からあった。
憑き物というのは「脳と神経の交感、常道を失する」がゆえであり、「脳病薬の覇王」たる「健脳丸」でたちまち快癒である、という薬は大成功を収めたらしい。
昔から、この手の商売はどこまでもイタチごっこだ。キツネだけに。
しかし脳と精神を結びつける蘭学が民間に浸透するわけはなく、近代の大規模な啓蒙を待っても、いぜんとして残っている。
しばらく、ちゅーちゅーとアイスコーヒーを啜っていたチューヤは、おもむろに口を開いた。
「……葛西にあるデメトリクスというベンチャー企業に、もぐりこみましたね?」
チューヤの言葉に、一瞬、空気が固まった。
サアヤは、もうちょっとオブラートに包めよ、という視線を向け、目のまえでまさに「あなたが犯人です」と名指しされた女は、とりあえず意味が解らない、という表情を取り繕った。
「すいませんが、なんのことか」
「キツネが化けるって、ホントなんですね」
チューヤはポケットから、ケータイを取り出しながら言った。
先刻、ケートから送られたばかりの画像ファイルを開く。
メッセージはとくにない。これだけで理解できるだろう、ということだろうし、事実、おおむね了解できた。
それは監視カメラの映像からコピーしたらしい、「変化」する女の顛末を写した数枚の写真。
最初の写真には、あきらかに目のまえに立つ女。
つぎの写真で、彼女の服の隙間から現れたクダギツネが、身体にまとわりつきはじめ、つぎの写真で彼女の体を覆い尽くしたキツネが、別の人間の姿に変化していく。
そのまま何枚かスワイプしたところで、女の表情と態度は、困惑から決意へ、はっきりと固まった。
「そんな作り物の映像を、だれが信じますか?」
「いえ、だれかに信じてもらう必要はないんです。信じる必要のあるひとだけ、信じてくれれば」
「どういうこと?」
「……彼はルシファーですよ? こんな真似をされて、許しておくと思いますか?」
ぎくり、と彼女の肩が揺れた。
どうやら彼女は、自分がだれの姿を借りて犯罪を犯したのか、その自覚がないようだった。
「ルシファーって……だってそれは、ただの人間……」
「どう説明されたかは知りませんが、東京には、人間の皮をかぶった悪魔が、どれだけいると思います? 俺なんかが説明するまでもないと思いま」
そこまで言った段階で、女はカウンターに突っ伏し、泣き出した。
「だから、あたしはいやだと言ったんです。だけど彼が、あのひとが、あたしに無理やりやらせたんです。あたしはほんとに、いやだったのに、だけどこの仕事をすれば、まとまったお金が手にはいって、ふたりで新しい仕事をはじめられるからって」
めんどくさい感じの女だな、とチューヤはあらためてため息を漏らす。
同時に部屋の空気が変わりはじめていることにも鋭敏に勘づき、準備を整える。
まだ境界化はしていないが、かぎりなくそれに近い空気。
女の視線が動いたつぎの瞬間、空気が凍りついた。
チューヤの背後に、ぴたりと佇むなにか──そう感じられた一瞬に、空気を貫くベルの音。
ジリリリリ……。
古式ゆかしい固定電話のベルに、ハッとして音のほうをふりかえる。
マスターが電話をとって、何事かを話してから、店内をぐるりと見まわし、チューヤたちに目を止めた。
「あんたに電話だ」
最初はウェイトレスの女に言っていると思ったが、すぐにそれが自分を指していることに気づいて、チューヤは強い違和感をおぼえた。
なにか、いやな「計略」のにおいを感じるが、みずからここまで踏み込んでおいて、いまさら逃げ出すことなどできない。
「もしもし」
「きみの背中は見えている。ふりかえらないで聞いてくれ」
電話の向こうの声からは、抑えた抑揚の若い男、と感じられた。
チューヤは内心の冷や汗を押し隠すように、相手をなぞるような無感情な声を装った。
「わかった。あんたは……」
「質問するのは、おれだ。まず、きみの背後はだれだ?」
俺の背後はあんたに狙われてます、と言いかけてチューヤはしばし考えた。
女たちの視線を感じる。目のまえの女は、なにやら好機をうかがう女狐のよう。隣のアホ毛は、アンテナの先が気持ち、外の方向を指している。
「ただの高校生なんで、バックはいないかな」
「ふざけるな。バックもなしに、そんな写真が入手できるわけがないだろう」
「写真なんて、ネットに転がってるでしょ。この写真は、高校の友だちの喧嘩の理由になってるから、互いの誤解を解くために真相を探ってるだけ」
しゃべりながら、注意深く店内のようすに視線を走らせる。
ちょろちょろと、小さなクダギツネらしきものの妖気が這いまわっているのを感じる。
写真や喧嘩の件については、正直、ここまでの証拠が出ている以上、リョージとケートの確執は容易に溶けるだろう。
というよりも、ふたりはもうこんな昔のこと、さっぱり忘れている可能性すらある。いや、写真を送ってきた以上、忘れてはいないだろうが、すでにつぎの段階へ進んでいるはずだ、というチューヤの予想はあながちまちがっていない。
「東と西を噛み合わせるのは北の策だ。その北の動きを探りたいということは、いずれかの勢力か、あるいは……」
「あるいは南ですかね」
東、西、北と出てきたので、なんとなく南という単語を口走ったが、これは失敗だったかもしれない。
相手の声がとたん、厳しさを増したからだ。
「南蛮勢力かよ、てめえ」
南蛮人、という言葉がトレンドワードになったことは、ひさしくないはずだが……と思いながらチューヤはあわてて言い訳する。
「いや、だから関係ないって言ってるでしょ、どこの勢力にも。南蛮ってなんなんスか」
「南蛮人が広めるのは一神教だよ、決まってんだろ。あのクソどもが……」
怒気もあらわにそこまで言って、電話の向こうの相手はふと、言葉を止めた。
数秒の沈黙に耐えられなくなったチューヤから、
「あの……」
と、しゃべりかけるのにかぶせるように、相手の男は言った。
「そうか、おまえ石神井の悪魔使いか」
相手が持っている情報網がどのようなものかわからなかったが、甘く見ていい相手ではないことは理解できた。
チューヤの内心に、一層の危機感が募っていく──。




