眠っている君はかわいい。何がかわいいって、攻撃をしてこないところが最高にかわいい
眠っている君はかわいい。
大きな銀杏の樹の下にある古惚けたベンチに腰を掛けて、君は眠っている。
ベンチの周りに降り積もった黄金色の落ち葉、そのうちの何枚かが、大学構内のインターロッキングの上を、カサカサという音を鳴らして舞っている。
いわし雲こげる夕暮れ。角の丸まった風。やわらかな虫の音が、植栽のいたるところから染み出ている。
君のタータンチェック柄のマフラーに、銀杏の葉っぱが一枚引っ掛かっている。
「あのさ、君さ、いつまでそうやって眠っているつもりなの」
昨日、この時間この場所で、僕は君に『好きです。付き合って下さい』なんて、何のひねりも無い言葉で告白をした。
君は、しばらくの間これでもかと僕の顔をジロジロと眺めた後、「一晩じっくり考えさせて」なんて、実に素っ気ない返事をした。
「あのさ、僕はさ、約束通り昨日の返事を聞きたいのだけどさ」
君は、静かな吐息を立てて眠っている。
「おいよお、起きろよ。ほら、起きろってば。ねえ、君、僕と付き合ってくれるの? どっちなの?」
何か夢でも見ているのかな。口を僅かに開いてムニャムニャと寝言を言っている。やべえ。かわいい。かわい過ぎる寝顔だ。普段からかわいい君だけど、眠っている君は、一段とかわいい。
僕は君の寝顔にすっかり見惚れつつ、何の気なしにマフラーに引っ掛かった銀杏の葉っぱを指で摘まんで取ろうとした。
「あんぐっ!」
その時、突然瞼を開いた君は、しつけのなっていない小型犬みたいに、いきなり僕の指に噛みつこうとした。真っ青になって反射的に手を引っ込める。
「わああ。びっくりしたなあ、もう」
きゃきゃきゃ。君が、寝ぼけまなこを擦って無邪気に笑っている。
「きゃきゃきゃ。こんな私でよろしければ、です」
な、な、な、なんて娘だ。驚かせやがって。とんだ悪ふざけだ。腰を抜かした僕に向かって、君は出し抜けに宣言をした。
「私とお付き合いして下さい、です」
この日、この瞬間、秋の深まる大学のキャンパスの片隅に、僕と君の、愛が生まれ落ちた。
怒涛の茶目っ気に翻弄されてしまい、やばい、このままでは君の魅力に骨抜きにされてしまう、なんてちょっぴり不安になりながら、生まれたてのこの愛の育てかたを、僕は、考えあぐねいていた。
――――
眠っている君はかわいい。
蚊取り線香の煙が一本立ち昇る寝室で、君は眠っている。
五階建てのマンションの最上階、開けっ放しの窓から吹き込む真夏の夜風に、観葉植物の深緑の葉が重たく揺れる。
熱帯夜。青白い月明り。時代遅れの暴走族の、品のないミュージックホーンが、この街の闇の果てから漏れている。
汗ばむ君のおでこに、栗毛色の髪の毛が、数本へばりついている。
夜中にふと目が覚めると、僕の枕の横で、君は連日の残業にくたびれ果て、爆睡をしていた。
僕たちは、大学を卒業し、数年の同棲を経て、結婚をした。僕は冴えないサラリーマン。君はどこにでもいる普通のOL。僕たち夫婦に子供はいない。神様が授けてくださらなかった。
何は無くとも、眠っている君は、本当にかわいい。
起きている時、どれだけガミガミ言われようとも。どれだけからかわれようとも。どれだけコケにされようとも。この寝顔ひとつで、全てを許せてしまう。
いやはや、眠っている君は、最高にかわいい。
何がかわいいって、何もしゃべらないのがかわいい。起きている時の君は、僕の顔を見ればうるさいことばかり言いやがるので、ほとほと参ってしまうよ。
爆睡をしている君は、マジで、ちょーかわいい。
何がかわいいって、攻撃をしてこないところが最高にかわいい。月明りの下で、頬杖をついて、いつまでも至近距離で寝顔を見ていられる。
変わらないね。出会った頃のままだよ。相変わらず若くて、相変わらず綺麗で、そして相変わらずよく眠る。
君の寝顔を見ていたら、その色艶のよい柔らかな栗色の髪を撫でてみたくなり、そっと手を伸ばす。
でも今夜も寸前のところでやっぱり手がすくむ。突然「あんぐっ!」と噛みつかれそうで怖いのだ。
藪蚊も飛ばない茹だるような夏の宵、青白い月光に晒されながら、すくめたこの手の戻しどころを、僕は、考えあぐねいていた。
――――
いつまで起きているの。体に障るよ。今夜はもう眠りなよ。
底冷えする薄暗い病室のベッドに横たわり、君は僕の顔をジロジロと眺めている。
まだ冬の始まりだというのに、窓の外を見下ろすと、クリスマスを待てないせっかちな家々が、眩い電飾を身にまとってチカチカと輝いている。
冬ざれた丘の上。苔むしたコンクリート造の病院。静寂が僕たちの背後から、病室のドアをノックする。
君の痩せこけた頬の上で、さっきあくびをした時に、すーっと流れた涙の跡が、蛍光灯に反射をしている。
笑っちゃうよね。ドクターは、君のことを、不治の病だなんて言うんだ。まったく冗談にもほどがあるよね。余命幾ばくも無いだなんて。
微かに唇を震わせて、君が僕に話しかける。
「いつから?」
「ん? いつからって、何が?」
「あなたが、私のことを好きになってくれたのはいつから?」
「えーと、君とは、中学も高校も一緒だったけれど、君をはじめて意識したのは、大学の入学式の時だったかな。あれれ、この娘ったら、こんなに綺麗な娘だったかな。何だか急に綺麗になったな。なんてね。あはは。懐かしいね」
「ちなみに、私は、中学一年の時からよ」
「……え。どういうこと」
「丸坊主のあなたが、野球部の部室の前で金属バットを素振りしている頃から、私はあなたのことが好きだった。私は陰からずっとあなたのことを見ていたの。お馬鹿さん、気が付かなかったでしょう?」
「……お、驚いたな。なんだかゴメン」
「あの日、あなたが私に告白をしてくれたあの時。私は、嬉しくて、嬉しくて、おしっこをちびりそうになった。いや、正直言って少しだけちびったよ。
そんなに嬉しいのならば、あなたの前で素直に喜べばよいのにね。でも、あの時の私は若くて、思わず深く考え込んでしまったの。
これは新手の悪戯ではないか。あなたが仕組んだドッキリではないか。植栽の陰で、誰かがビデオカメラを回して、私のことを面白がって撮影しているのではないか。
ねえ、あなた。もしもです。もしも私を騙し続けることに今も成功をしているならば。いっそこのまま、私が死ぬまでネタばらしはしないで欲しい。お願いです。『ドッキリ! 大成功!』のプラカードは、棺桶の中の私に見せてちょうだい」
馬鹿なことを言うものじゃないよ。ほら、お薬が効いてきたのかな。段々うつらうつらとしてきたね。今夜はもう、おやすみなさい。
「眠るのが怖いの。眠ったら、もう二度と目が覚めないような気がするの。私とあなたの、この幸せな時間が、止まってしまう気がするの」
おやおや、君は、おかしなことを言うね。僕は今日まで、時間の止まった世界で、君と無邪気に遊び回って来たつもりだよ。
これからだってそうだよ。僕たちの時計の針は、君が僕の指に不意に噛みつこうとしたあの日から、ずっと止まったままなんだ。
何も恐れることはないさ。そもそも僕たちは、時間の止まった世界の住人なのだからね。
僕の言葉に耳を傾け、微笑をたたえてコクリと頷く。君は、やがて小さないびきを立てて、深く安らかな眠りについた。
眠っている君はかわいい。
君の寝顔を見ていたら、涙で濡れたその頬に、そっとキスをしたくなり、静かに唇を寄せる。
でも今夜も寸前のところでやっぱり怖気ずく。唇に「あんぐっ!」と襲い掛かってきそうで怖いのだ。
木枯らしが耳のキーンとなる寒気を運ぶ冬の宵、部屋の隅で佇む消火器のフォルムをボンヤリと見やりながら、このやるせない気持ちの置きどころを、僕は、考えあぐねいていた。
――――
眠っている君はかわいい。
半開きの窓から生暖かい風がそよぐ病室のベッドで、君は眠っている。
実用性を喪失した医療機器が、音も無く、振動もなく、温度もなく、僕たちを取り囲んでいる。
うらうらとした春の昼下がり。苔むしたコンクリート造の病院。晴れているのに、どこか霞が掛かった不透明な天空が、新しい季節の始まりを告げている。
冷たくなった君の頬に、窓から吹き込んだ桜の花びらが一枚、空中で一回転をしたのち、はらはらと舞い降りた。
「あのさ、君さ、いつまでそうやって眠っているつもりなの」
何は無くとも、眠っている君は、本当にかわいい。
起きている時、どれだけガミガミ言われようとも。どれだけからかわれようとも。どれだけコケにされようとも。この寝顔ひとつで、全てを許せてしまう。
いやはや、眠っている妻は、最高にかわいい。
何がかわいいって、何もしゃべらないのがかわいい。起きている時の君は、僕の顔を見ればうるさいことばかり言いやがるので、ほとほと参ってしまうよ。
爆睡をしている君は、マジで、ちょーかわいい。
何がかわいいって、攻撃をしてこないところが最高にかわいい。春めく病室で、頬杖をついて、いつまでも至近距離で寝顔を見ていられる。
ねえ、君、教えてくれないか。
君は、死んだように、眠っているの?
それとも、眠ったように、死んでいるの?
僕は、君の柔らかな栗色の髪を撫でる。頬にそっとキスをして、引っ付いた桜の花びらを指で摘まむ。それから、あの日の言葉を、もう一度君に投げかけてみる。
「おいよお、起きろよ。ほら、起きろってば。ねえ、君、僕と付き合ってくれるの? どっちなの?」
突然君が「あんぐっ!」と指に噛みついてくれることを願いながら、怒涛の茶目っ気で僕を翻弄する君のいないこの世界で、それでもなお生き続けることの意味を、僕は、考えあぐねいていた。
おいよお、起きろよ。
ほら、起きろってば。