5.帰還
しばらくの間、ハヤテは横たわったまま、静かに休んでいた。たまに顔を上げては、コダマがじっと同じ体勢で水面を覗き込んでいるのを確認し、また横になる。いったいいつになったら帰ってくるのだろうかと思いながら、うとうととしていた。
そのうち、ハヤテははっとして目を覚ました。眠ってしまっていたらしい。慌てて身を起こすと、コダマはまだ同じように水面を覗いていた。ハヤテは空を見上げた。まだ明るい。だが心なしか、あたりが薄暗くなっているような気がした。太陽の位置は、木々の枝に遮られて見えなかった。
音を立てぬように立ち上がると少し歩き、太陽を探した。ほどなくして見つけると、それが西に傾いているのが分かった。コダマは、どうやらかなり長いことあの世に留まっているらしい。
日が落ちる前に帰ってくるのだろうか、とハヤテは訝った。もしかしたら次の瞬間にでも気を取り戻すのかもしれないが、果たして次の夜明けまで向こうに行ったままなのかもしれない。とかくコダマが、いずれ帰ってくるのだと言ったから、それだけが確からしいことだった。
しばし考えて、野宿の準備を少ししたほうがよかろうと思われた。日が暮れるまではまだまだ時間があるが、コダマがいつまで帰ってくるかは分からない。帰ってきても、もう移動するには遅いということも十分にありえる。すぐにでもコダマが戻ってくるのでなければ、帰るのがいつになるにせよ、野宿の用意はしておいてよいだろう。
ハヤテは少し歩いて、コダマのいる水辺から少し離れた林に、大きな木の根元を見つけた。よい具合に根が張り出して、浅い窪みになっている。振り返ると、コダマのいるところにも視線が通った。そこに寝床をしつらえようと決めた。
若者は荷物を下ろすと、肩から吊るした山刀であたりの下生えをいくらか刈った。そしてそれを木の根元の窪みに積んで満たした。そこに外套でも広げれば、悪くはない寝床になるだろう。幸いにも夏だから、凍える心配はまずない。
作業を終えても、コダマはまだ起きなかった。きっと帰ってきた時に疲れているだろうから、手助けがいるだろう。ハヤテのほうは先に食事をしておいたほうがよさそうだった。寝床に座ると、コダマのほうを窺いながら、固いパンと果物をいくらか食べた。
食べ終わると、後はもうすることが思いつかなかった。ハヤテは座ったまま、コダマが帰ってくるのを待ち続けた。
それから、やがてあたりが夕闇に沈み、木々の梢から赤い光が差し込もうとする頃になった。コダマが身じろぎし、苦しげに喘いだ。水面から顔を離し、身を起こして胸を押さえている。
ハヤテは立ち上がると、走り寄ろうとして、足を止めた。まだ術は終わっていないのかもしれない。コダマが、邪魔をしないようにと念押ししていたことが思い出された。
すると、コダマがこちらを振り返った。その顔には苦痛とともに、微かに笑みのようなものが浮かんでいた。
「術は終わった。もう、動いていい。」
コダマはそう言うと、目を瞑り、歯を食いしばった。その表情が、ふいにある種の勇壮さを感じさせ、ハヤテは息を飲んだ。だがすぐに気を取り直すと、ハヤテはすぐそばに駆け寄り、膝をついて顔を覗き込んだ。
「大丈夫か。ずっと動かなかったから、心配したぞ。」
「大丈夫、大丈夫。」
コダマは言って、笑いらしきものを浮かべた。それは作り笑いとすら呼べない代物だった。しかしハヤテが口を開く前に、コダマは吐き出すように言った。
「人里の、ある場所が、分かった。狭間の位置も。だけど、先に、ちょっと、休まないと。」
言いながら、コダマは頭を押さえた。立ち上がろうとしたが、力が入らないのか、腰が浮かびもしなかった。秘術師は乾いた笑い声を漏らした。
ハヤテは秘術師の背に腕を回し、力を貸した。コダマはなんとか立ったが、歩く力は弱っているようだった。ハヤテは半ば引きずるにして、先に用意しておいた寝床に連れて行った。
少し驚いたような顔をしたコダマに、ハヤテは笑いかけた。
「あんたが寝ている間に、準備しといたんだ。用意がいいだろ。さあ、腹、減ってるんじゃないか。何か食ったらいい。」
ハヤテはそう言って、コダマを寝床に座らせた。荷袋からパンと、茶を入れた瓶とを取り出して、コダマに差し出す。コダマは瓶を受け取ると、その中身を飲んだ。しかしパンは受け取らなかった。
「悪い、腹が受け付けそうにない。」
コダマは呻いた。ハヤテは頷くと、荷物からりんごを取り出した。
「こいつならどうだ? 何でもいいから、腹に入れたほうがいいと思う。」
差し出すと、コダマはこれは受け取った。そして口を開いて果実に歯を立てるが、食べられないようだった。りんごを噛む力もないらしい。コダマはまた乾いた笑いを零した。
ハヤテはつとめて陽気に笑いながら、その果物を受け取った。そして腰に差した短刀で削いで、その小さな切れ端をコダマに渡した。コダマは親指ほどの大きさのりんごを口に入れると、ゆっくりと咀嚼した。これなら食べられるらしい。
それから、ハヤテは少しずつ果実を削いでは、コダマに食べさせた。半分ほども食べると、コダマは受け付けなくなった。半日も何も食べずに、まさかりんご半分で腹が満たされたわけでもないだろう。だがハヤテは無理には食べさせようとはせず、残りは自分で食べてしまった。
そうしてささやかな食事が終わると、コダマは毛布の上でごろんと横になった。日がゆっくりと暮れようとしていた。暗闇があたりに、水のようにひたひたと忍び寄っていた。
「寒い。」
コダマは呟いた。ハヤテは眉を顰めた。夜が近づいているとはいえ、夏のことだ。寒いと感じるほどの気温ではなかった。それにもかかわらず、コダマは自分の体を抱き、身を震わせていた。
いったい何事かと思いながらも、とにかく寒いと言っているのだから、ハヤテは自分の外套を脱いで秘術師の体にかけた。それからその隣で横になる。
「これで、寒くないか。」
ハヤテは囁いた。コダマが何か心細そうな顔をしているので、胸を布の上から優しく撫でてやった。こんなふうにするのは、少年時代以来のことだった。故郷を出てからこの方、こんなふうに人を看病してやったことはない。まるで年下の少年の面倒を見ているようだと、ハヤテは思った。
しばらくして、コダマは申し訳なさそうな顔をした。その目には涙が浮かんでいる。ハヤテが驚いて肘をついて起きようとすると、秘術師は首を振ってそれを押し止めた。
「心配、いらないから。ちょっとしたら、よくなるんだ。ごめんよ。」
コダマはそう囁いた。まるで泣くのを堪えているように、その声は震えていた。
心配しないわけではなかったが、ハヤテはただ胸を撫でてやった。それ以外にできることが思いつかなかった。これまでのところ、コダマが無理に我慢しているようには見えない。もしも必要なことがあれば、きっと自分から言ってくれるだろう。
時間はゆっくりと過ぎ、あたりは暗闇に沈んでいった。木々の枝に遮られ、星の明かりもほとんど届かなかった。近くで川が流れているからか、冷たい空気が漂いはじめた。夏だから、凍えるほどではない。だが夜具もなく壁もなく、ハヤテは少し寒気を感じた。
すると、コダマがこちらを向き、誘うように外套の端を持ち上げた。
「ありがとう。」
ハヤテは囁くと、外套の中に潜り込んだ。もちろんそんなに大きな布ではないから、コダマの体に腕を回し、しっかりと身を寄せ合わねばならなかった。もっとも、夜気に冷えた体には、そうやって身を寄せたほうが具合はよかった。
コダマはまた上を向いた。ハヤテは秘術師の胸に手を置くと、服の上から優しく撫でた。何度も何度も、元気が出るようにと思いながら、撫で続けた。
ときおり、コダマは体を震わせたり、小さくしゃくり上げたり、あるいは鼻を啜ったりした。だがしばらくすると、そうしたこともなくなり、ただやすらかな寝息を立てはじめた。
ハヤテの瞼にも、やがて眠気が降りてきた。うとうととして手が休みがちになる。それからもしばらくコダマのことを撫でていたが、やがて手が止まると、すうっと眠りに落ちていった。