3.小さな講義
遠くに砦が見えてきた。コダマが足を止め、ハヤテもそれに従った。
その砦は小山の上に鎮座し、山裾には町が広がっていた。傾いた太陽に照らされて、町の屋根が赤みを帯びた金に輝いている。氏族領との境にある、最後の町だった。これより奥地には、町民の住む土地はなかった。
秘術師から旅の目的地を教わってから、二日が経っていた。そのあいだ、ハヤテはコダマについて歩き、日毎に町で宿を取った。今夜も同じようにできるだろう。だが明日の晩からは、そうもいかない。氏族の人々は、宿を営んだりはしないからだ。
ふたたび道を歩きはじめたコダマに、ハヤテは後ろから声をかけた。
「ここで町は終わりだろ。あんた、氏族領には行ったことがあるのか。」
肩越しに振り返って、コダマは首を横に振った。
「いや、ないな。というかこんなに遠くまで来たことがない。お前はどうだ。」
「おれもないなあ、氏族領は。町のあいだをぶらぶらしていただけだからなあ。」
ハヤテは答えた。いくつか町を渡り歩いてきたが、辺境氏族の下に行ったことはなかった。行商やら何やらから、氏族の暮らしと風習については伝え聞いているものの、詳しくはない。
町民とて、基本的にはいずれかの氏族に属している。町では、幼少期を児童院で過ごした子どもたちは、町の工房や商店で働きはじめる。そしてある程度の年月を過ごしてから、親方の氏族名を与えられるのだ。その点、ハヤテは親方の下を去り、放浪の身になっているからどの氏族にも属していないのだが、コダマは青毛族という氏族名を持っていた。きっと師匠がその名を持っていたからだろう。
しかし氏族に属するとは言っても、町ではそれに重要な意味はない。季節の折々に同じ氏族名の町民が集まって、その氏族に伝わる古い祭神に対する儀式を執り行う程度だった。同じ一族に属しているからと言って、互いに何か強い義務が生じるわけではない。町ではそれよりも、同居の家族や、仕事をする工房や店や、そして同業組合の方がもっと重要だった。
他方、辺境の氏族領では、氏族はもっと大きな意味を持つ。伝え聞くところでは、氏族領における氏族は、その一員にとってのすべてだった。みなで同じ神と先祖を祀り、同じようにして暮らす。ハヤテには、それがどのような感じであるか、よく分からなかった。おそらくは大きな家族のようなものなのだろうと想像するが、そもそもハヤテには家族がなく、家と呼べるものもなかったから、どちらにせよ分からなかった。
なんにせよ、ことがハヤテとコダマにとって大きな困難になりうる理由は、辺境氏族のその家族的な性格だった。
ちょうど町民が自分たちの部屋や家を持っているような形で、辺境の氏族は全員で広い土地を支配している。そして個人の持ち物にせよ、市域にせよ、境界のはっきりとした町とは違って、氏族領は曖昧なところがある。土地のどこからどこまでが氏族のものだとは、はっきりとは言い難いらしい。
これの意味するところは、コダマが氏族領に入り、そこで仕事をすることが、土地の氏族にとっては盗みや侵略と受け取られるということだった。ちょうど、町において個人の家に侵入するのと同じという理屈だった。自分の家に他人がいたら、家主はこれを追い出すことができる。それを辺境氏族は、広い土地についておこないうる。
だから、まずは族長を訪れ、仕事の許可を得なければならなかった。
コダマは腕組みしながら歩いていた。地面を見つめたまま、何やら考え込みながら、ハヤテに向けて言う。
「氏族領に入るときには、誰か土地の人を連れて行けと、先輩に言われている。町で辺境氏族のやつを探そう。たぶん見つかると思う。」
そう言った切り、コダマは考え込むばかり、何も話さなくなった。
それから二人は歩いた。町の囲壁が近づき、日はだんだんと傾いていった。あたりは赤く色づいていった。
やがて門を前にすると、二人は足を止め、囲壁を見上げた。立派な石造りの壁だった。町はどこでもたいてい壁に囲まれているものだが、辺境の町はとくに丈夫な壁を持つらしい。万が一の戦に備えてのことであり、氏族領に隣り合う都市と町々が共同で出資したものだった。砦に駐屯する戦士の数も多く、壁の上には歩哨も立っている。なんだか物々しい雰囲気だった。
ハヤテが壁を見上げていると、コダマは背負っていた小さな荷袋を開けて、旅券を取り出した。正式な町民の特権の一つだろう。この町の町民ではなくとも、出身市を含んだ都市同盟の領域内であるから、町の発行する書状さえ出せばすんなりと交通できる。
コダマが門の守衛に旅券を出すと、相手はそれを確認し、通してくれる。しかしハヤテはもちろん旅券など持ってはいなかった。いつもだったら名前と年齢、生業からはじまり、どこを居住地にしているのか、これまでの遍歴はどうかと長々と訊ねられるところだった。しかしこの時はコダマの雇われということで、わりあいすんなりと通してくれた。
そうして町に入ると、二人はまず宿を探した。この旅のあいだお馴染みの、やすい雑居寝の宿だった。夕飯時だから、店内には人が多い。とくに帯剣した者が目立った。この町が辺境にあり、戦士の多く常駐する砦があるからだろう。
二人は食堂の隅で夕食を取ると、明日の動きについて話し合った。
「とにかく氏族の人と繋がりたい。できれば蛇の氏族だ。そちらに井戸があると、あの先生が言ったから。」
言いながら、コダマは紙片を机に置く。そこには行くべき町の名が書き連ねられていた。二人が旅のあいだに訪れた町だった。それから町名の欄の横に、蛇の氏族に会うようにと、指示が書き込まれていた。
ハヤテは紙片に目を落として、首を傾げた。
「どうして蛇の氏族だって分かるんだ。」
「蛇を見たんだってよ。」
コダマはこともなげに答える。やけに自信ありげで、ハヤテには逆に疑わしい感じがした。問うような目を向けると、秘術師は言葉を継いだ。
「あの先生が、境界の場所を探す時に蛇を見たんだ。何か霊的なものを探す時には、呪師はあの世に下りる。そんであたりを見回り、なんと言うか、気配を探る。今度のことで言えば、境界の位置、あの世とこの世の裂け目が、どこらへんにあるか、その気配を探る。泉から水が流れて、川になるだろう。川をたどれば、泉に至る。そんなふうに、気配を探って境界を探す。」
コダマは茶に指を漬け、以前に描いた二重の円をまた描いた。内側が顕界、外側が幽界、そして両界を隔てる線の所々に境界が開くという。
「そうして探るあいだに、探るつもりもなかったことも、一緒に知ることができる。あの人は、どうも蛇のすがたを見たらしい。だからたぶん、蛇を崇める氏族が住んでいる土地に、境界があるはずだ。人の崇拝が、蛇を呼び寄せるんだろう。」
ふうん、とハヤテは声を出した。呪師にしか見えない世界があり、只人の見る世界がある、というのは、昔話やおとぎ話の類でも伝わる、普通の考えだった。だがその二つの世界の間に、何か別の世界があるというのは、あまり聞くことのない考えだった。
「よく分からないな。隠り世って、霧の土地のことだろ。境界ってのはなんなんだ。」
ハヤテは訊ねた。霧の土地というのは、伝説やおとぎ話によく出る不思議な土地だった。精霊が住まい、死者が眠り、悪鬼がそこから人に魔手を伸ばす領域だった。そこは普段の世界とは隔絶していて、ただときおり不運か幸運な人が迷い込んでしまうのだった。そしてこの霧の土地というものを隠り世だとかあの世だとかと呼ぶのだと、ハヤテは思っていた。
だが、コダマは首を振った。
「いや、いわゆる霧の土地というのは、境界だろうな。目で見えて、体を持ったまま入れるんだから。隠り世というのは、呪師にしか見えないところだ。誰にでも見えて触れる現し世があって、呪師にしか見えない隠り世があって、その間にあるのが霧の土地やら狭間やらと呼ばれるところなんだ。まあ、呪術師でもなけりゃ、あんまり分かんないかもしれないけど。」
コダマは言って、頭を掻いた。ハヤテはまた訊ねた。
「霧の土地は、町の中ではできないだろ。お話じゃあ、いつも森の中とか、山の中で迷い込むもんな。それってなんでなんだ?」
「さあ、どうしてだろう。」
コダマは首をかしげた。
「人が集まってるからかな。人が多いのを精霊はきらうはずだし。でも、ううん、よく分からないなあ。師匠に訊いてみたら分かるかもな。」
ふうん、とハヤテはまた呟く。コダマは自分の描いた図を消した。それから蛇の図を指差す。
「とにかく、これからすることは、蛇の氏族に会いに行くことだ。それから、領土で仕事をする許可をもらう。その後で仕事に取り掛かる。」
コダマがそう言うと、ハヤテは、いまがいい機会だろうと思った。
「仕事って、いったい何をするんだ?」
コダマは仕事の内容については説明してこなかった。ただハヤテは、人足と用心棒としてついていくだけだから、必要がないということなのだろう。だが主人が何をするのか、気にならないわけではなかった。
コダマはしばし首を傾げ、眉を顰めた。
「どう言ったらいいかな。元素の結晶を集めに行くんだけど、そう言っても分かんないよな。」
「分かんないなあ。」
ううんと唸って、コダマは腰に下げられている小さな巾着の一つを取った。その口を開き、中身を手に取って示す。ハヤテは身を乗り出し、その手元を覗き見た。
「宝石?」
コダマの手には、暗い緑や茶色の石があった。砂粒から麦の粒ほどの大きさで、表面は荒く削り出されたようだった。宝石を細かく砕いたらこんなふうになるのではと思わせるような見た目だった。
「こいつが元素の結晶。これを、おれたち秘術師は術に使う。消耗品なんだ。だから時々集めにいかなければならない。――お前、こういうの見たことないか?」
「ないなあ。ひどい怪我なんてしたことないし。」
多くの市民にとって、秘術師は治療や修繕の技を使う者たちだった。それよりは少ないが、農地を肥やす術を使う者もいる。中にはもっと密やかで怪しげな連中もいたが、秘術師はたいてい職人の仲間と見なされていた。
しかし秘術師の技は、普通の職人の手技とは異なっている。傷を治療させれば立ちどころに治るし、物を直させれば継ぎ目もなくきれいに直してしまう。だが秘術師の技には高い金がかかる。だから、秘術師の世話になるのは、重い怪我や病をした時のように限られた場合だけだった。
ああ、とハヤテは合点がいった。
「それで秘術は高く付くんだな。その宝石を使うから。」
「それもあるな。それに、術を使ったら疲労がひどいから、その分できる仕事の数が限られるというのもあるけど。」
「あんたらはその石を使って術を施す。その対価を得る。石が切れたら集めに行く。当然の道理だな。」
そう言ってから、首をかしげる。
「それ、何に使うんだ? ていうかそれ、いったい何なんだ?」
ううん、とコダマはまた唸った。石を巾着に戻し、首をひねり、それから口を開く。
「こいつは、元素の結晶だ。それで元素ってのは、顕界、現し世の材料みたいなもんだ。」
ふうん、と首を捻る。いったい何のことかよく分からない。説明が難しいらしく、コダマもまた首をかしげた。
「元素は幽界、隠り世にある。境界、つまり二つの世界の裂け目を通って元素がこの世に流れてくる。この流れのおかげで、この世は生きているんだ。」
言ってから、意を得たりと、ぱっと顔を明るくした。
「そうだな、食べ物だと思ったらいい。この世はあの世から流れてくる元素を食って生きている。水が流れてくるのは、この元素の流れのおかげだ。境界が開いてなけりゃ、この世は干からびちまう。」
ハヤテは首を捻ったままだった。この世が生き物だというのは、あまり想像しやすいとはいえないことだった。だがコダマは続けた。
「それから太陽も境界だ。光の元素が裂け目を通って、この世に光を届けるわけだ。うんと背が高けりゃ、中を覗けるんだろうな。焼け死ぬだろうけど。星だってそうだし、月もそうだ。まあ、月は闇の元素だけど。」
「月が闇? なんで? 光ってるじゃないか。」
ハヤテが訊ね返すと、コダマははたと口を閉ざし、首を捻った。
「何でだろう。考えたことがなかった。月の呪力を使ったことがないしな。」
ううん、としばし唸ってから、コダマは肩をすくめた。
「分からない。まあ、知りたかったらおれの師匠に訊いてみたらいいよ。今度、帰った時にさ。」
了解、とハヤテは返して、話を進めた。
「二つの世がある。一つがあの世で一つがこの世。この二つの間には繋がっているところがある。そこから、元素ってのが流れ込んでくる。それで、秘術師が使うその宝石が、元素の結晶。これでいいか?」
コダマはにこにこと頷いた。話が通じてうれしいらしい。その日あった面白い出来事を報告する、無邪気な少年のようだった。
「それで、元素の結晶をどう使うんだ?」
「そいつは簡単な理屈だ。元素はこの世の材料だ。もちろん肉体だってこの世の物質だ。だから元素を操作したら、肉体を修復することも可能だ。」
はあ、とハヤテは声を出した。さっぱり分からない。
「たとえば、粘土の人形があるだろう。そいつの腕が折れる。もちろんくっつければいいんだけど、腕が無くなっちまったとしよう。すると追加の粘土がなけりゃ直せないだろ。その追加の粘土に当たるのが、元素の結晶だ。」
コダマは手を動かして人形の輪郭を示し、おもむろにその腕を引きちぎった。それから別のところから何かを掬い上げて、腕のあったところにぺたぺたと塗りつける。
この説明はなんとなく分からないでもなかった。だが疑問は尽きない。
「粘土の人形なら粘土でいいだろうけど、人も同じに考えていいのか?」
「いいんだ。物質って点では人形も人も変わらない。」
コダマはなんでもないように言う。しかしなかなか気味の悪い考えだった。生きた人と泥人形が、そんなに似ているのだろうか。やはり秘術師の考えはよく分からない、とハヤテは思った。
そろそろ話を切り上げようかと思ったが、最後にまだ特に腑に落ちないところが残っていた。
「それで結局、元素ってのはいったい何なんだ。粘土は元素じゃないだろ。」
「粘土は元素じゃない。物質だ。」
「そいつはどういう……待てよ、じゃあ元素は物じゃないのか。」
「元素は物質じゃない。元素は元素、物質は物質。」
ハヤテは目を細め、眉を寄せた。全く理解できない。
「じゃあ、さっきの話は? 泥人形を泥で直すって言っただろ。」
「言った。」
「直すのに使うのも泥で、人形も泥なら、どっちも泥じゃないか。けど直すのに使う泥は元素の比喩で、泥人形は人の体の比喩だろ。違うものを同じもので説明したらだめだろ。」
「ううん、どういうこと?」
コダマは首を捻った。ハヤテはコダマがさっきしたように、人形の輪郭を手で作った。
「こいつが泥人形だろ。」
そしてその人形の隣に、大雑把に丸を作って見せる。
「で、こっちが泥だ。――それで、泥人形は泥でできているだろ。じゃあ、どっちも物質じゃないか。けど元素は物質じゃないんだろ、いったい何なのかよく分からないけど。だけどあんたは、物質である泥人形を人の体の比喩にして、物質である泥を元素の比喩にしちまってる。ちょっとこんがらがってるだろ。」
あー、とみょうに間延びした声をコダマは上げた。
「確かになあ。すごいなあ、お前、よく分かったな。確かに、人や泥を、元素と同じもので示したらだめだよなあ。」
感心した様子のコダマに、ハヤテは、はあ、と言った。コダマは軽く頷きながら続ける。
「じゃあ比喩を変えなきゃな。人形は泥でできている。で、元素ってのは泥じゃなくて、泥の材料だ。つまりは、泥の泥だな。」
「泥の泥。」
「そう。ほれ、ここに。」
と言って、さっきハヤテが示した人形と泥玉のさらに隣に、また別の玉を作ってみせた。
「この一番端のが元素。こいつは物質じゃない。――で、元素ってのは、泥の材料なんだ。だから、泥の泥なんだな。泥の泥を泥にして、その泥で泥人形を直すわけだ。」
はあ、とハヤテは声を出した。泥の泥とは、初めて聞く言葉だった。全く意味不明だった。
コダマはハヤテの困惑を見て取って、困ったように笑った。
「うーん、分からないよなあ。元素はなあ、感じてもらわなきゃ分かんないからなあ。」
どうやらこのあたりが、常人に理解できるぎりぎりのところらしい。ハヤテはそう結論づけ、話を切り上げることにした。話の礼を言って終わらせると、コダマを客室に連れて行った。
その夜も、二人は共寝した。寝ている間は、コダマは初心な若者に戻り、ハヤテと手を握り合ってもじもじとしていた。だがハヤテは秘術師の不思議な話のことを考えていた。いつも可愛らしいと思っていたコダマが、呪術について話すとなると、まるで別人のように感じられた。それが不気味でもあり、それでいて何か気を惹かれるものがあった。
やがてコダマが眠ってしまってからも、しばらく起きて考えに耽っていた。