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境への旅  作者: 火吹き石
17/21

17.現し世

 コダマを支えながら歩くのは難儀だった。だが重すぎる仕事だというわけではない。ことに秘術師が道を作ってくれたから楽だった。コダマが退けた水は、術者が気を失った後も、ずっと壁面に張り付いて静かにしていた。


 やがて通路が狭くなり、あたりに白い霧が漂ってくる頃には、水は無くなっていた。地面も壁もつるつると磨かれ、乾いている。向こうには出口が見えた。


 ハヤテは一度だけ後ろを振り返った。水はどこにも見えず、ただ暗い洞穴が見えただけだった。


 両側から壁が迫った狭い道を歩くのはなかなか骨が折れた。通路が狭くなると、ハヤテとフチはコダマを支えていたから、横歩きをしなければならなかった。出口は、入ってきた時と同じでぎざぎざと尖っていた。三人は歯のような石に引っかかれながら、幾条もの細い滝を浴びつつ、何とか現し世へと帰ってきた。


 洞穴を出て滝壺の縁に至っても、ハヤテたちは足を止めなかった。まだ周りには白い霧が見えていた。この霧があるうちは、まだ異界にいるのだという気がして、恐ろしかった。


 一度だけ肩越しに振り返ると、あの裂け目はなくなっていた。まるでぴったりと埋めてしまったように、どんな形跡も残ってはいなかった。


 もう宵闇が迫っていた。この朝に異界へと足を踏み入れたのだから、まる一日も経ったことになる。しかし、それほど長い時間を向こうで過ごしたはずはなかった。せいぜいが昼過ぎまでだろう。まるで途中で眠ってしまったような心地だった。だが異界で異常な事態に見舞われたばかりであるから、この程度の異変はもはやあまり気にならなかった。


 二人はコダマを引きずるようにして、昨夜寝た林までやってきた。そして草を積んで作ったままになっていた寝床にコダマを横たわらせた。ここまでは異界の霧も届いてはいなかった。ようやくこの世に戻ってきたという気がした。


 しかし、まだ心配は去らなかった。二人はコダマのそばで膝をつくと、ハヤテは頬や額を触り、フチは腕を取った。コダマはまだ生きている。息にも脈にも異常は感じられなかった。だが、それがいつまで続くのかは分からなかった。


「どうする。」


 ハヤテは言った。フチは顔をしかめる。


「早く里に連れて行ったほうがいいだろうな。呪師のことは呪師に任せるべきだ。だが――」


 フチは言葉を切った。山道は険しく、ところによっては手でよじ登らねばならない。二人で気を失ったコダマを連れて行くというのは、ほとんど不可能に近い。


「とりあえず、明日の朝まで様子を見なけりゃな。」


 ハヤテは言った。宵闇は深く、時とともにいや増し深くなっていく。いまから出かけることは、どのみちできなかった。


 フチは頷いた。


「明日の朝まで様子を見よう。それでも目覚めなければ、私だけでも里に戻り、呪術師の助けを求めよう。」


「その間に、コダマが起きたらどうする?」


「なんにせよ私はまたここに来る。起きたなら、待っていてくれたらいい。」


 二人は話しながら、服を乾かすために枝にかけた。コダマの服も脱がした。濡れた服を着たままでにして、体を冷やしてはならなかった。そうでなくとも秘術師は疲れ切っているのだ。これ以上負担を増やしては、命に関わるかも知れない。


 それから、簡単な食事を取った。堅焼きパンも干し果物も、水を吸っていやに柔らかかった。せめて火を起こして粥にでもしたかったが、火口箱もじっとりと濡れ、暗くなっては薪を集めることもできなかった。仕方なく、二人は濡れたパンを絞っていくらか食べた。


 冷たく貧しい食事を終えると、二人はコダマを間に挟んで横になり、身を寄せ合った。夏であるから、凍えるほどの寒さではない。それでも髪が濡れ、裸ともなれば、寒かった。途中で起きて手近な草を掻き集めては、それを体に被せた。


 夜はゆっくりと更けていった。ハヤテはほとんど眠ることができず、うとうととしては、寒さに目を覚ますという有様だった。空が青くなってくると、ろくに眠れなかったことを恨むよりも、ようやく起きられるということを喜んだ。


 二人は起きると、コダマの様子を見た。秘術師はまだ眠っていた。死んではいないし、目で見て分かる限りでは弱っているようにも見えなかった。しかし声をかけても目覚めはしなかった。


 あたりはまだ暗く、遠出できるような状況ではなかった。二人はいくらか落ちた枝を集め、細かく裂いて火口とし、火を起こした。三人の服を火のそばに置いて乾かすとともに、小鍋にパンと干し果物を入れて煮て、粥として食べた。やはりうまいとはとても言えない代物だったが、疲れた体に暖かい食べ物はありがたかった。


 食べながら、二人はずっとコダマの様子を窺っていた。まだ眠っていたが、たまに呻いたり、寝言を零したりする。そのたびに近くに寄って呼びかけるのだが、目覚めなかった。


 ハヤテは、小さな秘術師が起きてはくれないかと思った。このままだと、フチが一人で里に戻らねばならなくなる。その間、ハヤテはコダマとともに残される。里まで行って帰るだけで、何日もかかるだろう。呪師の助けを求めるために、さらに時が必要となることは想像に難くない。眠ったコダマと助けを待つというのが苦しいというのもあるが、それだけの時間を過ごすことを見越して食料を持ってきたわけではなかったから、飢えが心配だった。ことにコダマの体力がどれほど持つか、心許なかった。


 やがて食事を終えた。鍋の底には、もしも起きた時にコダマに食わせるためにと、いくらか粥を残していた。二人はいくらか乾いた服を身につけ、コダマの体にもかけてやった。コダマはまだ眠ったままだった。


 ハヤテとフチは、コダマのことをしばらく見ていた。やがて、フチは立ち上がった。助けを呼ぶなら早いほうがよかった。


 ハヤテはフチが履物を着け、短衣を被り、帯を締めるのを横目で見ながら、コダマのことを見下ろしていた。その顔は、単に眠っているようにやすらかだった。その頬を優しく撫でる。


「起きろよ、ちび。フチが出かけちまうぞ。」


 コダマが呻いた。ハヤテはまた頬を撫でてやり、軽く指先で突いた。すると、今度は身じろぎをした。驚きつつ、鼻先を指で押してやると、秘術師は薄目を開けた。


 一瞬、ハヤテは息を止めた。それから、フチを振り返って叫んだ。


「起きたぞ! フチ、こいつ、目を開けたぞ!」


 フチは帯を結ぶ手を止めた。ハヤテはコダマに向き直り、その頬を両手で包んだ。


「起きろよ、ちび。寝過ぎだ。おれたちはもうとっくに起きてるんだぞ。」


 コダマは寝ぼけたような薄目で、どこを見るとはなしに中空を見つめていた。フチがそばで膝をつき、コダマの顔を覗き込んだ。


「コダマ、私たちのことが分かるかい。」


 すると、コダマの目つきが変わった。瞳が揺れ、あたりを見回し、それからフチとハヤテのことを見つめる。コダマはしばし黙ったままだったが、やがて、ん、と声を出した。それははっきりしなかったが、肯定の合図だった。目を覚ましたのだ、と分かった。ハヤテはフチと目を見交わした。詰めていた緊張が、一気に緩んだ。


「まったくもう、心配させやがって。」


 ハヤテは言いながら、コダマの頬を突いた。秘術師は少しくすぐったそうにする。


 フチがコダマの手に触れた。


「何か必要なものはあるか。」


 フチはそう言うなり、答えも聞かずに立ち上がって、荷物から瓶を取ってきた。


「飲めるか。喉が渇いているだろう。」


 瓶の口を唇に当てると、少しだけ傾けた。コダマはこくこくと水を飲むと、溜め息をついた。フチはまた唇に当てたが、コダマは口を閉ざして断った。


 ハヤテはコダマを見つめた。小さな秘術師は、ひどく弱って見えた。体をほとんど動かさず、ただ目だけを動かして、二人を見ていた。そのうち口を開いたが、声は出なかった。ハヤテとフチが耳を口に近づけ、ようやく聞き取れた。


「どれ――だけ――」


 か細い声は、そう訊ねていた。時を訊ねているのだろうと検討をつけて、ハヤテは首を振った。


「そんなにでもない。向こうから出てきて、まだ半日だな。出た時には夜で、いまがその次の朝だから。」


 ハヤテが言うと、コダマはしばし目を瞑った。それから目を開くと、小さな声で言った。


「ひも――」


「紐?」


 ハヤテは言われたことをそのまま繰り返した。何を言っているのかと、フチを顔を見合わせる。


「ひも――じゅつ――。」


 コダマは弱々しい声で繰り返した。ハヤテは、あっと声を上げた。


「あの紐だな。お前が向こうに行く前に結んだやつだ。あれをどうすればいい。解いたらいいのか。」


 うん、と小さな返事が帰ってきた。ハヤテはすぐに立ち上がると、水辺に向かった。どこに結んだかと木々を見渡して、白い紐を見つけた。ハヤテはそれを解くと、コダマの下に持っていった。コダマはハヤテに笑みを見せた。心なしか、元気になったように見えた。怪訝に思いつつ、紐をコダマに見せた。


「これ、どうしたらいい。」


「そのままでいい。置いといて。お腹、空いた。」


 コダマは答えた。フチとハヤテは少し横目で見合った。どうしてだか、コダマはそれなりに元気を取り戻したようだった。


「もしかして、この紐を解いたからか?」


 ハヤテが訊ねると、コダマは頷いた。


「そうだ。そいつに魂の一部が縛られていたからな。その上、術を立て続けに使ったから。」


 それだったら、境界を出た時に、解いておけばよかったとハヤテは思った。だが、もちろんコダマに訊かずにそんな勝手ができるわけではないので、仕方ないことではあった。


 コダマがぶるっと身を震わせた。


「寒い。」


 そう言うコダマを、ハヤテは怪訝に思った。まだ朝方で空気は冷たいが、夏のこと、寒いというほどではない。寝床に横たわり、服を身に被せていたから、むしろ暖かいはずのかっこうだった。そう思いつつも、ハヤテはコダマの手を取って温めてやった。


 フチが立ち上がって、小鍋に残しておいたパン粥を持ってきた。コダマはそれを受け取ろうと上体を起こして、ふと自分の裸の体を見下ろした。ハヤテは笑った。


「服がびちょびちょだったから、脱がして乾かしたんだ。着せてやろうか。」


 ハヤテは訊ねた。コダマは答えずに、自分で短衣を着た。少し元気を取り戻したとはいえ、やはり疲れているようで、その手付きはゆっくりとしていた。とりあえず服を被ると、腰帯は締めないまま椀を受け取った。それからその中身を見て、フチを見上げた。黒鱗族の青年は苦笑した。


「パンもぜんぶ水浸しだったからな。そのままよりは粥にしたほうが食べられると思って。味には期待しないで欲しい。」


 コダマは納得したように、一口粥を食べた。ハヤテはにやっと笑った。


「まずいだろ、それ。ほとんど泥みたいだろ。」


 ハヤテが言うとコダマは苦笑して、肯定も否定もしなかった。


 それからもう一口食べて、コダマはまた体をぶるっと震わせた。ハヤテは外套を着せてやると、身を寄せて肩を抱いた。フチもそばに座って、コダマの様子を見守った。

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