16.異変
そうして、現し世へと帰ろうと踵を返した時だった。
コダマが突然、勢いよくあたりを振り仰いだ。ほとんど恐慌を来したような顔色をしていた。何か恐ろしいものの気配を感じ、それを探そうとしているようだった。突然のことに、ハヤテは驚いた。
「何だよ。どうしたって――」
ハヤテはコダマに倣ってあたりを見渡して、言いかけていた言葉を途切れさせた。口をあんぐりと開けたまま、目を見開いた。
この異界に水面から生える無数の巨岩の柱、その一つが何の前触れもなく崩れ落ちていくところだった。
それも、倒れたとか、砕けたとか、そういう尋常の壊れ方ではなかった。まるで砂で作った山が流れる水に解かされるように、頑丈この上なく見えた巌が形を失ったのだった。大岩が小石となり、砂となり、そして最後には、砂は白く泡立つ水へと変じた。その巨大な水の塊が水面に落ちると、白い飛沫が高く高く吹き上がった。
ハヤテは砕け散る波を茫然と見つめた。それまで巨岩であった大きな水の塊は、塔のように大きな滝のように流れ落ち、市壁のように高い水飛沫を上げていた。だがその割には、三人に向けて波が押し寄せるような兆しは見えなかった。本当ならすぐにでも、泡立ち轟く大波に襲われてもよさそうなものなのに、透明な壁で隔てられているかのように、足元の水には一切、波はおろか微かな揺れすらも感じられなかった。いや、それどころか音すらもなかった。
あまりに現実感のない光景に、ハヤテは恐れを感じることもなく、ただ言葉なく立ち尽くしていた。あたりはあまりに静かで、ほとんど夢の中の光景のようだった。他の二人も、同じように崩れていく岩の柱を見つめていた。しかしフチがまず気を取り直すと、片手でコダマの肩を掴んで揺すり、ハヤテに険しい顔を向けた。
「離れるぞ。」
フチはコダマの背を押し出した。三人は歩き出した。水が沁みるように、恐れが足下からゆっくりと這い上がってきた。何か恐ろしいことが起きているのだということが、ハヤテにも感じられた。
腰ほどまでの水があるところを走るのは、大変だった。ことに小柄なコダマには困難だった。フチとハヤテは秘術師の背中を押し、肩を引っ張り、なんとか走らせた。
遠くに並んだ岩の柱が、一つまた一つと、ゆっくりと崩れていく。それを尻目に、三人は急いだ。いまだ、どんな仕組みかは分からないが、崩壊は三人の下にまでは届いていなかった。水はまったく静かで、三人が立てる波の他には揺れもなく、何事も起こっていないようだ。だがいったいいつになったら破滅が近づいてくるか、分かったものではない。この異界では、何が起こってもおかしくはなかった。
「方向は合っているか?」
急ぎながら、フチがコダマに訊ねた。コダマは何度も頷いた。
「あっちだ。向こうから、引っ張ってくる。命の綱を感じる。」
喘ぐように言いながら、手を伸ばして示す。元素の結晶を求めて、三人は長いこと歩いていた。岩の柱に阻まれて、あの出入り口を持った大岩は見えなかった。だが秘術師があちらなのだと言えば、あちらにあるのだろう。どこもかしこも似たような景色で、ハヤテには方向の感覚があまりなかった。
いくつかの巨岩の柱を迂回して、三人は帰路を急いだ。多くの柱が崩壊しているが、それには目もくれなかった。不思議と、波の影響はおろか、音すらもが三人の下には届いていなかった。遠くを見れば巨大な水の塊が落下し、飛沫を吹き上げ、大波を作っていた。轟音が響いてもおかしくはないのに、ハヤテの耳に入るのは自分たちが水を掻き分けて走る音だけだった。
やがて三人の前に、あの大岩が見えてきた。それは城塞のような巨岩の群れの間にあって小さく見えたが、それでも小さな丘ほどの大きさはあった。それが見えると、ハヤテはようやくいくらか落ち着きを取り戻した。
だがそうして気を緩めた時、ハヤテは前のめりに倒れた。踏み出した足を支える地面がなかったのだ。それまでずっと同じように平坦な地面が広がっていたから、まさか穴などあるとは思わなかった。
水に落ちようという刹那、道連れにしないように、とっさにコダマの肩に置いた手を離した。そして次の瞬間には頭から水に落ちた。
ごぼごぼと水音が鳴り、その合間に、コダマの悲鳴が聞こえた。何とか水を掻いて顔を上げようとすると、大きな波が被さってきた。水が口と鼻に入って痛かった。
いったい何が起きているか、まったく分からなかった。次から次へと、まるで狙い定めたかのように波が覆い被さってきた。足はどこにも着かなかった。両手を伸ばし、振り、何とか手がかりを探すが、どこにも地面らしいものはなく、手はただ水を掻くだけだった。ありえようはずもない出来事に、ハヤテは混乱していた。
さっきまで、確かに地面があったのだ。たとえ穴や崖に落ちたのだとしても、すぐに背後には地面があってしかるべきなのに、水にしか触れなかった。それに、さっきまで水はずっと穏やかだった。こんなふうに波に襲われるというのは、まったく理解できない。
ハヤテはもがきながら、なんとか水上に顔を出そうとした。だがまるで若者を弄ぶように、水は逆巻き、波が叩きつけられた。渦が足に絡まるようにして、下へ下へと引っ張っていた。耳には恐ろしい水の音しか聞こえなかった。息ができず、恐慌に襲われながら、空気を求めてひたすらもがいた。
その時、ふいに荒ぶる水の流れが治まった。ハヤテは両手で水を掻いた。下の方から、ハヤテが泳ぐのを助けるように、緩い水流が昇ってきていた。やがて顔が水から出ると、咳き込んで水を吐き出し、息を思い切り吸い込んだ。目鼻が熱くて痛かった。
「こっちだ。」
フチの声が、すぐそばでした。ハヤテは顔を上げた。フチとコダマはすぐそばにいた。コダマは立ったまま目を瞑って、腕をゆらゆらと動かしている。フチは水辺に屈んで、ハヤテに腕を伸ばしていた。
ハヤテはフチの腕を掴むと、もう一方の手で水を掻いて泳ぎ、何とか地面の上に体を乗せた。それからフチに助けてもらい、深い水から慌ただしく起き上がる。そして後ろを振り返って、言葉を失った。水は穏やかに澄み、ハヤテが落ちた穴などどこにも見えなかった。
「よかった。」
コダマの声に、ハヤテは振り返った。秘術師は苦痛に顔を歪めながら、口元には笑みを浮かべていた。荒く息をしながら、繰り返す。
「よかった、間に合って。」
「おれは――あれは、なんで――」
取り乱すハヤテを、コダマが制した。
「後でにしよう。早く、ここから出ないと。」
そう言って、秘術師は出入り口のある大岩へ向けて、ふらふらと歩き出した。ハヤテもそれに続く。フチはその隣から一言声をかけた。
「コダマが術を使って助けてくれた。」
それだけ言って、フチはコダマの肩を支えた。ハヤテは恐る恐る背後を振り返り、自分が落ちた穴がやはり見えないのを確認した。それから、コダマを追って急いだ。
大岩は目前に迫っていた。ハヤテはちらと振り返った。周囲の崩壊は段々と加速している。巨岩の柱の多くが水となって崩れ、大きな波がいくつも見えた。その破滅的な光景に背を向けると、三人は大岩の口に踏み込んだ。
三人は道を急いだ。洞窟の形は明らかに変わっていた。通路はひどく折れ曲がり、まるで岩壁がのたうち回ったかのようだった。地面の形も変わり、波のようにいくつも小さな坂や突起があった。それらに足を取られないように気をつけながら、ひたすら進んだ。
通路を進む内に、水位が上がってきた。腰ほどまであった水が、いまはみぞおちのところまである。三人は恐怖に喘いだ。このまま水が増えていけば、通路を出る頃には溺れてしまっているだろう。
「だめだ、間に合わない!」
コダマが叫んで、足を止めた。フチは厳しい顔で振り返る。
「急ぐんだ。このままでは――」
「このままじゃ溺れ死ぬ。また術を使わなきゃならない。」
コダマは鋭い目をフチに向けた。
「話している時間はない。待ってくれよ、すぐに終わる。」
そう言って、秘術師は両手を水に入れて、荒々しく掻き回した。
「退け、退け、退け――!」
コダマはいかりの込もった声で、繰り返し唱えた。ハヤテはフチを見やった。黒鱗族の青年は焦れた顔をしながらも、コダマを待っていた。おそらくそうするしかないのだろう。ハヤテは秘術師が術を使うのを、焦燥しながら待った。
水はだんだんと増えてきた。先程までみぞおちのところだったのが、もう胸の辺りにまで至っていた。
幾度もどなった後で、ふいに、コダマは口を閉ざした。それからすっくと立ち上がると、まるで別人のように朗々とした声で唱えた。
「隠り世から流れる水よ、源へと帰れ。我らの前に水は退き、行く手を遮るすべては除かれ、現し世への道は現れる――」
コダマは両手を繰り返し繰り返し、左右に振った。それは、まるで見えない何かを掻き分け、押しのけようとするような仕草だった。
あ、とハヤテは声を上げ、そして目を見開いた。秘術師の動きに呼応するように、三人の胸まで迫っていた水が、その水位を下げていった。
いや、とハヤテは思い直した。水位を下げているわけではなかった。水が左右の壁へと吸い寄せられているのだった。通路に満ちようとしていた水が割れ、壁から天井へと伝って昇っていった。やがてゆらゆら揺らめく水が、壁と天井とに張り付いた。まるで水でできた隧道のような有様だった。下に残った水は、もう踝ほどまでの深さしかなかった。
「すごいな、こいつは――」
ハヤテが言いかけたところで、隣でばしゃんと大きな水音が鳴った。天井に留められた水を見ていたハヤテは、すぐに振り返った。コダマが、ぐったりと倒れたところだった。
「コダマ!」
フチは叫ぶと、コダマのそばに屈んだ。ハヤテもそばに寄って膝をつく。秘術師は目を瞑り、眠ったように静かだった。
「まさか――」
ハヤテは言葉を続けることもできず、フチを見上げる。黒鱗族の戦士は静かにコダマの口に手を当てると、首を横に振った。
「息はある。気を失っているだけだろう。さあ、早くここを出よう。」
二人はコダマを支えて立ち上がると、急ぎ足で歩き出した。