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境への旅  作者: 火吹き石
14/21

14.洞穴

 裂け目に入ると、水の匂いが濃厚に感じられた。異界の霧は深く、白い。足を進めると、裂け目は背後に遠のいていった。


 裂け目はぎざぎざと尖っていたが、中に入ってみると、壁面や床は意外と滑らかだった。まるで長いこと水で洗われたようだ。あたりには異界の霧が漂い、視界は霞んでいる。だが暗くはなく、足元ははっきりと見えた。もちろん、光源らしいものはない。空気そのものが光っているとでも言うしかなかった。


 一人で精一杯だった幅が徐々に広がり、二人並べるほどの幅となり、やがては三人、四人と並べるだけの広さとなった。高さもそれに伴って高くなり、コダマを肩車してやっても天井には届きそうになかった。もちろん、あの裂け目の向こうに、こんな広い洞窟がありえるはずもない。ここはすでに異界なのだ。


 ハヤテは物珍しく、あたりをきょろきょろと窺っていた。フチは警戒心も露わに、手にした槍を強く握り、周囲に鋭い視線を投げかけている。コダマはといえば、黙ったまま物思いに沈んでいた。


 やがて、壁面や床に小さな石が生えているのが見えた。指の幅ほどの太さと長さの(ぎょく)で、雲のような白から、夜のように暗い青、緑陰の泉の色から、青空を映す澄んだ湖の色まで、様々な色合いがあった。


 ハヤテはそれらの一つを、腰を屈めてじっと覗き込むと――得体の知れぬ異界の宝石に触れるほどの蛮勇はなかった――コダマに声をかけた。


「これ、売れるかな。」


 コダマはちらと視線を向けた。


「そいつが元素の結晶だ。だけど、取ったらだめだぞ。」


「なんで?」


 ハヤテは首を傾げた。


「そういう小さいのは屑石だからな。不純で、質がよくない。もっと奥のものがいい。」


 ふうん、とハヤテは言って、体を起こした。コダマは、そもそも、とハヤテを睨みつけた。


「そもそも、結晶を集めるのが目的だったんだぞ。お前、売れるかなって、お前が取って売っちゃだめだろ。そいつはおれが持って帰るんだ。」


「ああ、そうだっけ。忘れてた。長かったからなあ。」


 ハヤテが言うと、コダマは少しばかりあきれた顔をした。だが、ハヤテからすれば仕方のないことだった。思い返してみると、旅に出てもう二十日ほども経っている。それに旅の目的が、ハヤテには分からぬまじないに関することでもあり、なおさらよく覚えられないのだった。


 そしてふと、もうじきコダマやフチと離れるのだということを思い出した。もう旅の目的を果たそうとしているのだ。仕事が終われば黒鱗族の下を去り、その後はコダマとともにその故郷の町へと帰るだけだった。放浪の身のこと、ハヤテは離別に慣れてはいたが、しばらく旅をしているからか、それとも可愛らしく感じているからか、コダマとは何か離れがたいものを感じていた。


 だがまあ、それは後で考えればいいことだった。いまは、この不思議な土地を楽しむことだ。そう思って、ハヤテは考えを切り替えた。


 奥へ進むにつれて、岩に生えた結晶はだんだんと大きさを増していった。白い霧はいつの間にか薄れ、ほとんど見えなくなっていた。物語で言えば、三人は人界(じんかい)を後ろに残し、異界へと踏み込んだということになる。振り返ると、長い洞穴の向こうに白い霧ばかりが見えた。


 そして、突然のことだった。ハヤテの踏み出した足が水に沈んで、ばちゃっと大きな音を立てた。ハヤテは驚いて、声を上げかけた。後ろを見ていたとはいえ、さっきまで歩いていて、水などどこにも見当たらなかった。


 慌てて足下を見て、そして、ハヤテは言葉を失った。洞窟の地面は一面、水浸しだった。水深は(くるぶし)まで浸かるほどだった。前方に視線を走らせると、隧道(ずいどう)が曲がって見えなくなる奥のところまで、その水が続いていた。振り返ると、いったい誰のどんな仕業なのか、白い霧のところまで、地面は見える限り水に浸っていた。


 どこからか突然水が湧き出したとでもいうのだろうか。それにしたって、気づいて然るべきだった。


 この出来事に、三人ともまったく言葉を失っていた。ようやく気をいくらか落ち着けると、ハヤテは苦笑した。


「びしょびしょだなあ。気づかなかったや。」


 そう言ったが、顔に浮かべた笑いは、自分でも分かるくらいぎこちなかった。


 フチは眉を顰めていたし、コダマは茫然としていた。ハヤテは、この事の意味を考えた。気づかぬうちに水に足を踏み入れた、などということが起こるのだ。例えばこれから、気づいたら深い水の中で溺れていた、などということが起こらないという保障はあるだろうか。


「ここ、大丈夫なんだろうな。」


 ハヤテはコダマに訊ねた。コダマは首を振った。


「大丈夫なわけがあるか。ここは境界だ。あの世への入口、異界なんだ。何が起こっても不思議じゃない。」


 強い調子で言ってから、コダマはまた首を振った。


「だけど、先輩たちが境界で死んだなんて話は聞かない。そういう意味なら、大丈夫だ。そのはずだ。」


 コダマはそう言ったが、その声は何やら自信なさげだった。


 なんにせよ、進むしかなかった。


 水を踏み散らし、ぱしゃ、ぱしゃ、と音を立てて、一行は進んだ。ハヤテの気づいている限り、道は下っているわけではなかった。だがどうしてか水位は上がり、足首から脛、脛から膝と、だんだんと深く水に沈み込んでいった。いったいどうしたことかと三人が振り返ると、何度か緩やかに曲がったことしかないというのに、すぐ背後で道が大きく捻じ曲がり、壁しか見えなかった。見ていない内に、洞窟が形を変えたのだとしか思えない。


「こいつは、ひどいな。」


 ハヤテは乾いた笑いを零した。本当に帰れるのか、いまさらながらに心配になってきた。


 コダマは憂鬱そうに壁を見つめていたが、ぽつりと言った。


「帰りたけりゃ、帰ってもいいぞ。」


 ハヤテはフチと見交わした。黒鱗族の青年は、顔をしかめながらも首を振った。ハヤテはくすくすと気楽を装って笑った。


「いまさら一人で戻るよりかは、秘術師の旦那と帰ったほうがいいと思うなあ。」


 もう、この場にいる者が帰るのは、三人一緒でなくてはならなかった。そうでなければ、三人で迷うかだ。


 一行は短衣の裾をたくし上げると、腰帯に噛ませた。そうして服が不必要に濡れぬようにすると、また歩きはじめた。


 しばらく歩いて、やがて前方で通路が途切れた。その向こうには、広々と開けた場所があるようだった。天井を窺うことができず、向こうの壁も白く霞んで見えないほどだった。きっと巨大な広間があるのだろうと思われた。


 しかし出口へと近づくにつれて、ハヤテは口に笑みが浮かぶのを止められなくなった。あまりにあきれて、笑いしか出てこない。


 一向に天井も、向こうの壁も、見えなかった。ただ白い霧が壁のように漂っていた。それは異界に入る時に見えた幻の霧ではなく、本物の水でできた霧のようで、確かに湿り気を感じさせた。洞窟の中にしては、異常な光景と言う他なかった。


 やがて通路を抜けて広間と思しき場所に出ると、ハヤテはあたりを見回し、上を仰いで、はあ、と自分でも情けなくなるような声を上げた。


「こいつは、また――」


 言いかけたが、その言葉は続かなかった。言うべき言葉がまったく見つからない。フチは小さく呻き、コダマは頭を抱えていた。


 ハヤテは足元を見つめた。水が腰まで迫ってきていた。せっかくたくし上げた短衣の裾は、水で濡れてしまっていた。だがそんなことは、もうどうでもいいことだった。


 視線を上げていけば、一面に、果てしなく広がる水面が見えた。壁はまったく見えなかった。あまりに広大に過ぎ、ほとんど野外のようだったが、確かに洞窟を通ってきたのだった。不自然なことこの上なかった。


 水面からは巨岩がまばらに突き出て、柱のように林立していた。岩肌には細い滝がいくつも流れ、あたりに涼し気な音を立て、水飛沫を散らしていた。視線を更に上げ、どこから水が流れているのかと、その岩を目でなぞっていくと、どこまでもどこまでも高く、果てが見えない。その巨岩は目で見えるだけでも、ハヤテがこれまでに見たどんな館よりも、市壁よりも、塔よりも高かった。


 天井があるのかは定かではなかったが、かといって見ているものが空だとも思えなかった。岩の先は青白く霞んだ光の中に消えていた。その光は、まるで風に吹かれた壁掛けや帳のように、ゆらゆらと揺らいでいた。


 フチもまた上方を茫然と睨んでいたが、慌ただしく後ろを振り仰いだ。ハヤテもそれに倣って、いま出てきたばかりの通路の上を見る。一行が出てきた穴は、族長の館ほどの大きさの、こんもりとした岩山に開いていた。これまで歩いてきた距離と岩山の奥行きとは、明らかに釣り合っていなかった。


 コダマが、大きく溜め息をついた。頭を抱え、熱に浮かされた病人のように呻く。


「おれ、もう、帰りたいなあ。」


 コダマの声は、いかにも自信なさげで、情けなかった。弱った様子を見てどうにも可愛そうになり、ハヤテはその肩を軽く叩いて笑いかけた。


「ま、それは仕事を済ませてからだろ。」


 言って、ハヤテは視線を上げた。コダマもそれを追う。林立する巨岩の肌には、まばらに大きな宝石が生えていた。遠目に見て、五指を束ねたほどの長さ太さだろうか。色とりどりで美しく、まるで巨木に茸が生えているような風情だった。


 コダマはしばらく声もなくその宝石を見つめた。それから、腰まで浸かった水を掻き分けるように、よろよろと歩きはじめた。ハヤテとフチも続く。岩壁から流れる滝が立ち上げる真っ白な飛沫を浴びるのも構わず、巨岩の肌に生えた結晶のそばに寄り、コダマはじっくりと観察した。


「これ、どうやって取るんだ?」


 ハヤテはそう言うと、コダマの隣に立って石を見た。それは深い水のような暗い青を示していた。手を伸ばして、しかし触れる前に手を止めて、秘術師を見やった。若い主人は腰の短刀を引き抜いて見せる。


「こいつで。元素の結晶はそんなに固くない。これで削り取れると思う。」


 言って、刃を青い玉の根本に押し当てると、刀の背に片手を乗せ、ぐっと力を込めた。鉄の刃が食い込んで、宝石が削れ、細かな粉が生じた。だがそれほど深くは削れず、簡単には取れそうにない。力を振り絞って刃を押し込むがびくともしない。


 見ていて危なげな手付きだった。そのうち自分を切ってしまうだろうな、とハヤテは思った。そう思いながら、あえて声はかけず、背負っていた荷袋を前にやり、中をごそごそと掻き回した。求めていたものが手に触れると、それを取り出す。それは(たがね)と金槌で、コダマの師に持たされた道具だった。いつ使うとは聞いていなかったが、たぶんここで使うのだろう。


 しばらく、コダマは短刀で苦闘していた。こいつはちょっと愚かだな、とハヤテは思う。コダマは明らかに工具のことを忘れていて、懸命に小さな刃物で石を取ろうとしている。かなり滑稽で、微笑ましい光景だった。異界に来てからの異常な事態の連続に疲れていた心に、和やかさを与えてくれる。


 フチは訝しげにハヤテの手元とコダマとを見比べていたが、こちらもあえて口を開こうとはしなかった。


 やがてコダマは短刀を鞘に戻し、腰に手を置いた。どうしたものかと言わんばかりの顔で振り向いて、ハヤテの手にある道具に目を向け、見開いた。ハヤテはにやっと笑った。


「これ、荷物に入ってたんだけど。」


 そう言うと、コダマは一瞬驚き、それから恥ずかしそうに視線を逸し、その次にはむすっとおこって道具をハヤテの手から引ったくった。ころころ変わる顔色が、見ていて楽しい。


「気づいてたんなら、言ってくれたらいいだろ!」


 コダマはどなった。それから鏨を石の根本に当てて、鎚で頭を打った。かつん、かつんと音が鳴るたびに、晶石の表面が削れて水にぱらぱらと落ちていく。何度も繰り返すと、やがて結晶は根本から折れて岩肌を離れ、コダマの見る前で水に落ち、ぽちゃんと音を立てた。


 言葉を失って小さな波紋を見つめるコダマは、笑えるほど滑稽だったが、同時にハヤテは半ばあきれた。


「そりゃ、そうなるだろうよ。」


 下で別の者が受け取らなければ、岩壁から剥がされた宝石が落ちるのは当然のことだった。


 コダマは膨れっ面で睨んできた。少しも怖くなく、むしろ可愛らしい。ハヤテが笑うと、秘術師は手にした道具を突き出して持たせ、それから水の中を両手で探る。水は透明と言ってよいほど澄んでいたが、巨岩から流れ落ちる滝のせいで、絶えず波紋が広がっていてものが見えにくい。しばらく苦戦していたが、ようやく結晶を拾い上げると、それをハヤテに持たせた。


 それから、三人は巨岩の間を歩き回っては結晶を集めていった。コダマが削り、ハヤテが手で受け取る。最初の二つか三つをコダマが割ると、それからハヤテに代わることにした。かつん、かつんと響く音が楽しく、単にやりたくなったからだった。


 いくつか集めたが、コダマは満足しなかった。ここで集めるこの宝石が、これからコダマら秘術師が向こう数年の間使う材料になる。軽く一抱えほどは欲しいということだった。これには、なかなか時間がかかりそうだった。岩の間にはなかなか距離があり、それぞれの岩には少数の結晶しか生えていない。三人は水を掻き分けるようにして長いこと歩かなければならなかった。

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