1.神子の願いは拒否できない
とある世界。
5つの国に囲まれた広大な森がある。
そこはどの国も所有権を主張しないという不可侵条約が結ばれていた。
そのため誰でも自由に往来することを認められているし、国からの庇護を求めないのであれば個人で居住することも認められている。
だが往来することはあっても住む者はいない。
理由は簡単。魔物が至るところを跋扈しており、とても人が住めるような場所ではないからだ。
森の中央部には不気味な雰囲気を漂わせる洞窟があり、その入り口には厳重な結界が施されている。
この結界は、洞窟内から外界に人間では手に負えない凶悪な魔物が出てこないようにするためのもので、5つの国の者達が比較的平穏に暮らせるのは結界のお陰であった。
ただ、結界は全てを防げるものではなく弱い魔物であればすり抜けられる。
弱いと言っても普通の人間には命の危険があるほどには脅威で、それらを討伐する専門の職があり、森との境界線で国を防衛している。
そんな結界だが、年々効果が弱まるため定期的に張り直す必要がある。
張り直しをしなければいずれ結界は消え、魔物が溢れだしてしまうのだ。
だが、この世界には一つ問題があった。
結界を張る作業は異世界より遣わされた神子と呼ばれる者にしかできないため、結界の寿命時期がくれば神子を召喚しなくてはならないのだ。
それは大変な作業であり、恐ろしいほどの労力が必要になる。
それを一国で賄うのは流石にきつく、5つの国が持ち回りで神子を召喚することにした。魔物が溢れてしまうと一蓮托生なのだから誰も文句は無かったし、神子を召喚することはどの国にとっても栄誉であり召喚できるだけの力を持っているという他国への牽制にもなる。そのため国挙げての一大イベントになっていた。
召喚された神子が結界を張る力を行使することは一度しかできない。
結界の寿命は召喚された神子の力によるようで、10年ほどで弱まることもあれば100年ほど保てる場合もある。
ここ100年間は結界維持の期間が短く、20年ほどで新たな神子を迎えていた。
そして、今回も17年ぶりに結界の弱まりが見えてきたため、神子を召喚したのがコルダルという国だった。
「神子、サエよ。この度の召喚に応じ、結界を張り直してくれたこと誠に感謝する」
「お役に立てて嬉しいです」
謁見の間でコルダルの王、ピハドの謝辞にニコニコと屈託の無い笑顔で応じたのは数日前に召喚された日本人の冴。
彼女は丁度仕事を終え帰路についていたところ突然まばゆい光に囲まれ、そして気がつくと何もない真っ白な場所に立っていた。
目が潰れたのかと思い辺りを確認するように手で探っていると頭の中にエコーがかかった声が聞こえてきた。
その声の主はとある世界の神だと名乗った。
そして、冴が異世界を救う神子に選ばれたこと。
異世界に行ったら元の世界には戻れないこと。
行く世界がどんな所か、自分がどのような立場でその世界で生きるのか、などなど。事細かく丁寧に説明を受けたのだ。
神ととことん話し合い、あれやこれや条件を引き出し妥協したりと色々悩んだ末に冴は神子になることを了承した。
冴が一番心を引かれたのは、召喚した国が神子の希望を一つだけ必ず叶えてくれるという報酬。
ただし、異世界の現状で叶う希望のみとなる。理を曲げるようなことや、実現が不可能な希望は却下される。
自分が今いる世界では絶対に叶えられないことが、異世界に行くことで必ず叶う。
それは冴にとってとても魅力的だった。
まだ歳は21だが、両親は事故で他界しており他に家族もいない。
友人に恵まれていたため別に孤独ではないし、仕事にもありつけ慎ましやかに生活できている今の世界だったが特に未練もない。
それよりも叶えたいものが冴にはあった。
「さて、我が国は神子であるそなたの願いを一つ必ず叶えてやらねばならぬ」
「はい」
「これは、神子として異世界まで来てくれたそなたへの対価であり、我々が負わねばならぬ神との契約でもある」
この世界に召喚された翌日にはサクッと仕事を終わらせた冴。これから自分の願いが叶えられることにワクワクしていた。
そんな冴とは対照的な固い顔で、王の言葉に固唾を飲み成り行きを見守る王妃や王子達、そして宰相など国の重鎮達。
彼らは神子がどんな希望を口にするのか気が気ではない。
神子の願いは神子が結界を張り直した後でなければ聞けなかったため、まだ誰も知らないのだ。
願わくば比較的容易に叶えられるものであって欲しいのだが。
冴以外の者達の緊張はピークに達していた。
「さあ、神子よ。願いを申せ」
そうピハドに促された冴は目を輝かせて満面の笑みで告げるのだった。
「無理だ!」
思わずピハドは叫んでしまった。
それは実現不可能ということではなく、単純に拒否したいという意味で発せられた言葉だ。
その隣で驚きのあまり気を失った王妃、怒りを堪えるようにわなわなと震える王子、頭を抱える宰相。
事を見守っていた者達の態度は様々だが、冴の願いを歓迎していないことは確かだ。
冴は動じることなく王を見据えた。
「無理なはずありません。そもそも最初から無理な願いであれば神が拒否しているので、この場に私は召喚されてません」
「ぐぬぅ」
苦虫を噛んだような表情で一段高いところから睨まれるが冴は怯まない。
冴は正当な主張をしただけだ。
なぜ睨まれるのか意味が分からないという風に首を傾げる。
「願いを変えることは⋅⋅⋅⋅⋅⋅」
「王は神との契約を破るのですか?」
「⋅⋅⋅⋅⋅⋅」
それを出されると何も言えない。
そう、これは神が絡んでいるのだ。それを反故にするなどできるはずがない。
反故にしてどんな神罰が下るのかと思うと背筋が凍る。
「私がいた世界では絶対に叶えられないことでした。でもこの世界では叶えられますよね。何が何でも叶えてもらいます」
神子の希望は拒否できない。
たとえ、召喚した国にとって不利益になるとしても。
それは国の事情に過ぎず、神にも神子にも関係ないからだ。
「もう一度言います」
冴のその言葉に王はたじろぐ。
嫌だと言うように耳を塞ぐ王に冴は苦笑いするが、はっきりと告げた。
「もふもふ様と結婚させてください」
『冴よ、もふもふ様とは何だ?』
『私は犬派なのでそちら系でお願いします』
『犬派⋅⋅⋅⋅⋅⋅?』
『ワンコ系であればいいので狼でも構いませんよ。それが無理なら妥協して猫でも⋅⋅⋅⋅⋅⋅あぁ考えただけで堪りません。もふもふの耳を!尻尾を!堪能しながら生きていけるなんて』
『⋅⋅⋅⋅⋅⋅冴が言うもふもふ様とはよもや獣人ではあるまいな?』
『流石陛下!そうです。獣人様です!大丈夫です。私は逆ハーレムなんて求めませんよ。一人でいいですから!一人を一生涯愛します』
冴との謁見を終えたピハドは自室へ戻ると先程のやり取りを思い出し、宰相と共に頭を抱えていた。
この由々しき事態をどう収めたらいいのだろう。
これまで召喚された神子達は、召喚した国に留まってもらうことが普通だった。
まずは王族と結婚させるのが一番手っ取り早い。
召喚には膨大な労力と金をかけているため出ていかれるのは困る。
それに神から遣わされた者を易々と他国へ行かせるなどプライドが許さないし、神子を王家に迎え入れるというのはどの国でも国民受けが非常に良い。
結界を張ることは一度しかできないが、神子はそれ以外にも類い稀な能力を隠し持っていることが多い。
そんな貴重な人間を囲いたいというのは当たり前だろう。
行動の自由を奪うつもりはないが足枷を付けたいというのが本音である。
今回の神子が男なら王女と、女なら王子と婚姻させることは召喚前から既に決められていた。
年齢が合わなければ公爵家からと言うように、婚姻にあたっては神子の気持ちを挟む余地がなかったのだが。
それの思惑が一気に崩れたのが先の謁見だった。
「獣と結婚など、穢らわしい!」
「全くです」
吐き捨てるような言葉には明らかな嫌悪感が含まれていた。
忌々しいとばかりに机を叩く王は、ギリギリと歯ぎしりする。
獣人が統治している国とは1つ国を挟んでいるため直接国境は接していない。
一応交易はあるが積極的な外交はされておらず、むしろピハドが王になってからは仲が悪いとも言えた。
国境が接していたなら戦争もあり得ただろう。
「しかし、神子の願いは叶えなくてはなりません。獣人の国へ行かせるのは無理でも、あちらから何人か此方へ連れてきてはどうでしょう」
「そんなことをして、隙をついて神子と共に逃げたらどうするのだ」
獣人をこの国に招きたいとなれば、獣人国に頭を下げて願わなければならない。
例え神子の願いを叶えるためとはいえ、ピハドには耐えられなかった。
ましてや、自国の者との婚姻を神子に拒否されたとなれば笑い者だ。
他の国へも直ぐに広まるだろう。
「何か無いか。この状況を変えられる者はいないのか」
「⋅⋅⋅⋅⋅⋅それならば、思い当たる者が1人おります。獣の国に頼るよりはマシという程度ですが」
躊躇いがちな宰相の言葉に王も思い出したらしい。
ふっと侮蔑的な笑みを浮かべると二人でこれからの計画を練り始めた。
王達を驚愕させた日から5日。
それが早いのか遅いのかは分からないが、冴の願いは叶えられた。
冴がこの世界に来てから住んでいるのは神子のために用意されていた屋敷。
ワンルームに住んでいた冴から見れば大豪邸だ。部屋が無駄に10以上あり、その1つ1つが無駄に広い。
神子である冴がこの世界で生きていくために、国から贈られたものである。
所有権は当然ながら冴に渡された。
城から少し離れた所に建てられたそれは、城ほどのものではないにしても一人で管理するのは大変なためその人材までも用意してくれた。
それらへの給金は国が持つので冴の懐が痛むことはない。
願いの件で多少ゴタゴタはしたが、この至れり尽くせりには感謝している。
そのうちの一人、執事として仕えることになったイグナスが冴に準備が整ったことを伝えにくると、冴は意気揚々と自室を出た。
「初めまして、サエ様。私はアルデール。現国王の、弟です」
控えめな笑顔⋅⋅⋅⋅⋅⋅と、思いたい。
優しいというより頼りなさげな声は、きっと突然異世界から来た人間と見合いをすることになった不安からだろう。
執事に案内されて向かった客間。
初めて目にした彼の頭には、黒い毛に覆われたピンと立つ耳。体に隠れて全容は見えないが黒くふさふさと長い尻尾が見え隠れしていた。
紛れもなく冴が求めた獣人、元の世界にはいないもふもふ様なのだが。
「初めまして⋅⋅⋅⋅⋅⋅あのー、前髪邪魔じゃありません?」
開口一番の言葉として相応しくないが聞かずにいられなかった。
ウェーブのかかった黒い髪。とても綺麗なのだが、もっさりと顔の上部を覆っており目元が分からない。
一応顔合わせの席なのに、顔の半分が隠れている。
口元は僅かに弧を描いていたので笑顔で挨拶してくれたのだろうと思うのだが。
「っ!!すみません、不快ですよね。しかし髪を上げると貴女にもっと不快な想いをさせてしまうので」
「傷でもあるんですか?」
別に冴は不快な気持ちにはなっていない。
むしろここまで自分好みの人が一発で現れることを期待していなかった。
背が高くすらりと伸びた手足。しなやかそうな体躯。
優しそうな、穏やかな口調で発せられる曇りのない声は聞いていて心地がよい。
傷があるのもそれはそれでカッコいいし問題は何もない。
この時点で最早冴は恋に落ちてしまっている。
「傷はありませんが、その、私の目が周囲の者に不快を与えるのです」
「目付きが悪い位ならたいしたことではないですよ」
「そうではなくて⋅⋅⋅⋅⋅⋅っ!」
冴は言うなりアルデールの目の前まで近づくと頭1つ以上高い彼を見上げる。
少し怯えたように見えたが髪のカーテン越しに冴の様子を伺っているようだった。
多分大丈夫だろう。そう思い冴は何の躊躇もなくその髪を手で掬い上げた。
「ふぁーーー!!」
「っサエ様!?」
冴のリアクションに驚いたアルデールは一瞬にして距離をとった。
はらりと落ちた前髪がまたその目を隠す。
やはり不快にさせてしまった。
そう思ったアルデールが謝ろうと口を開きかけたときだった。
「なんって綺麗なの!!凄いっ。綺麗!綺麗!」
「え⋅⋅⋅⋅⋅⋅」
「綺麗!どうしよう。綺麗しか言えない!私の語彙力どこ行った!?ぎゃーーっ!!さすが異世界っ」
そこには元々大きな目を更に大きく見開き頬を上気させ、歓喜に絶叫する女性がいた。