目
星の目が瞬いていた。無数の目が瞬きをしている。夜の林のざわめきのように、睫毛が揺れる。眼球を走る薄い一本の充血した血管。それが震えて千切れ、夕闇に赤を零した。
彼女は、部屋の中にいるのだろうか。室外機が回り始めた壁の傍で、男が倒れ込んだまま歌っている。アルコールの臭いが立ち込める。室外機の羽が絡めとって、飲食店の臭気と混ぜ合わせ、今日も空気は汚れている。うつ伏せで、唸るように男が歌う。それに応えて地面も空気も優しくしてやっている。平等に優しくしてやっているのは、嫌味だ。俺達にも、今日まで真面目に呼吸をしてきた奴らにとっても、趣味の悪い皮肉だ。
昨日の深夜ラジオで聴いた昭和歌謡。愛していると男が歌う。愛しているなら、そこで倒れ込んでいる暇もないはずだろう。
空の星達が完全に開き始めていた。送電線に人混みの音がぶつかっては解ける。電波が揺れているから、塞ぐものが欲しい。
耳にイヤホンをねじ込む。あ、今日はこうやって歌うのか。昨日よりずっと優しく歌うのか。彼女の歌が電波を遮断した。
男が飛び出してくる!
身構えた曲がり角から、風船を持った子供達が駆けてきた。俺を見て驚いて風船から手を離してしまった。緑色の風船は浮かんで浮かんで黒くなって、空に馴染んでいく。彼らの後ろでナイフを持った男は、首から血を流しながら薄暮れに溶けて行った。
泣きそうな子供に、今日ぐらい優しくしてやりたかった。ポケットから取り出したいくつかの小銭を渡そうとした。子供達は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。変態。変態に見えたのだろう。薄汚れたシャツや、皮脂の溜まった鼻の感覚は、俺の全部のように主張している。蛾になるまでの道を踏み外した自分に、方法は残されていない。
メゾンなんとか、かんとか。503。四本分の大動脈のすぐ側。昼間の空への復讐のように、夜雲の腹を照らす街灯の葬列。足を止めたその目の前に、縦に長く空に吸い込まれていく歪な建造物があるが、結局は俺の水晶体が歪んでいるだけなのだ。歪んだ光が、虹彩を焦がしひしゃげさせてしまっただけなのだ。
今まで何度も見上げてきたあの窓の光が、俺の眼球全ての神経を捻じ曲げ、焦点を他に合わせることを許さなくした。正確には許せなくした。全部自分で決めた。ここを見つけ出したのも全て自分だ。
無闇に清潔で眩しいエントランス。人が来るのを待つ。部屋番号を押そうか思案した。画面には荒いドットで「welcome」の赤い文字。誰に向けたのかは分からないが、俺になのだろうか。
歓迎から繋がる言葉は照明だった。地下の照明、フィラメントが悲鳴を上げる程の輝きの中、眩しいのはあの子が自ら発光しているからだった。光が彼女を歓迎していた。
間接照明で緩く伸びた人影が足元にあると気がついた。飛び退ると、人影はカードをかざしてオートロックを開いた。
自動ドアが閉じきる前に、影の後ろについてドアを通った。新しい建築物特有の酸っぱい匂いがする。この匂いは嫌いだ。子供の頃引っ越した新築の家と同じ匂い。あの真新しく白い壁紙を泥で汚したのは、楽になりたかっただけだった。自分に近づけたかった。自分から遠いものは全て暴力的だから。
エレベーターに乗り、一度悩んだ後五階を押した。臓器が押される感覚。
五階のランプが光る。無機質な金属製のドアが口を開いた。
ボロボロになった靴は、硬く白い床を濡らすように滑っていく。
彼女の部屋の前まで来て、呼吸の仕方を忘れた。
廊下中の音を拾い集める。誰かが笑う声、音楽の低音部、水道管が汚水を飲み込み吐き出していく拍動。どこかに彼女を見つけたい。
そうしていると、粘性の強い血液の流れる音が聞こえてきた。瞬きをする度にバチリバチリと頭に電気が走る。廊下の先に広く飾られた窓ガラスから、また星が俺を睨みつけている。今日になってもお前は最後までその調子だ。睨み返すと、空に浮かぶ目の瞳孔が全て開いていることに気がついた。
睨んですらいなかったのか。もう諦めていたのか。いつから諦めていたのか。気がつくのが遅すぎた。
後悔を踏み潰しながらエレベーターに戻り最上階のボタンを押す。最上階で降り非常階段へ出て、更に上に登る。
画一的なマンションの屋上と、雑居ビルと、そこから生えたネオン看板が、奇妙な地平線を形成している。地平線の最奥は潰され、夜の喉に流し込まれて消えていく。窓はこちらにはない。街の手招きを無視して、屋上に足をかけた。
死んだ目の中で、口は一つだけだった。いつも歯垢に塗れた歯と、人工的なまでに赤い舌をさらけ出して俺を嘲笑しているのに、今日は微笑んでいた。
冬を越せずに死んだ祖母の死に顔。あれにも同じ微笑みがいた。閉じられた目とゴムのような弾力だけを残した灰色の皮膚。それら静的な物の中で唯一動的に見えた微笑みは、何よりも死を映していた。
柵を乗り越えて縁に立つ。各階の窓の灯りが地面まで伸びている。地獄に続いていく階段のようだが、俺は今から救われる。
きっと彼女の部屋はこの真下にある。起きているだろうか。どんな夕飯を食べたのだろう。風呂に入った後に、体を冷やしていないといいが。
足は何の抵抗も無く屋上から離れた。体は頭を下にして9.8km/s^2で加速していく。全ての光が線に収束していく。
503号室。全細胞が沸騰して瞬間を停止させた。
窓の向こう、部屋の明かりの中、彼女の顔が見えた。肩にかかる柔らかい黒髪も、細く伸びる脚から白い爪先まで、全てが網膜を焼き切った。
その焼き切れる一瞬前に、目が合った。目の奥の奥まで見えた。
笑うはずだった。事実幸福だった。それなのに口は強く結ばれ、涙が風に吹き飛んでいった。
あの子に俺は見えただろうか。きっと見えただろう。恐怖したに違いない。それでいい。俺を見たのならそれでいい。
俺の満足した肉体は、地面に激突して、ただの肉塊となった。
そこにはただ一つとも残滓は無かった。