2072年のエピローグ
2072年(80歳)
「松戸さん?」
名前を呼ばれて私は我に帰った。
「どうされました?」
私は読み終えた日記を閉じて渡してやった。
私なんぞよりずっと若いであろう彼は、初めは難しい顔をしながら目を通していたが、そのうち大事そうにビニール袋にしまうと、「貴重な資料が見つかった」と役場の上司に電話をかけていた。
机の引き出しの二重底の下にひっそりと残されてた日記は2062年で終わっている。
そりゃそうだ、書いてた本人がもういないのだから。
最後の方はほとんど殴り書きに近く、なんと書いてあるのかわからなかった。
自分の作ったテストで自分自身の「欠陥」が見つかったときどんな気持ちだったのか…想像もしたくない。
いくら知り合いとはいえ、他人の遺品を片付けることになるとは思わなかった。
「親友だったんですよね。同じ研究チームにいたとか」
とは言ってももう何十年も昔のことだ。それにあいつとは…城金とは私が退職して以来、結局死ぬまで会うことはなかった。
奴が死んで10年、私は今だに死に切れぬまま生きながらえている。
妻も息子ももういないこの世に未練などないはずなのだが、順調に年老いていき、立派に健康な老人になってしまっていた。
あの子が産まれてきてくれたこと、そして死なせてしまったこと。
生きたくても生きられない者もいれば、死にたくても死にきれない者もいる。
どんな検査結果であれ、あの子が生きる価値がなかったとは思えない。
だけど結局私は息子を守りきれなかった。仕事も肩書きも全て捨てて、何年もかけてようやく私たちのもとにおりたってくれた、たった一人の我が子を、私は守りきれなかったのだ。
城金たちが作り上げた「適性テスト」は、政権交代により、以前のように半強制的なものではなくなったものの、今も任意で受けられる。彼の後輩たちによる技術の進歩は著しく、高い精度で正確に、静かに、人々の「選別」を続けている。細胞組織の欠陥を見抜き、その後の人生を判断するこのテストは、必要な人には必要なのだ。人それぞれの考えだから、私はもうどうとも思わないが。
同級生だったマリエが贈ってくれた花束を思い出す。
あの子が生まれた時も亡くなった時も、他の友人の誰より早く駆けつけてくれた。
てっきり主人に言われて持ってきたのかと思っていたが、どうやら違ったようだ。
まあ、あいつはそんなことするガラじゃない。
そうだ、あいつは、確かに。
だけど、親友だった。
今はもう私一人になってしまった。
本当に一人になってしまった。
あの日記は資料館にでも展示されるんだろうか。
城金は関係者の一人として、後世に語り継がれたりするんだろうか。
それで一体なんになるというのだろうか。
適性テストは明日も行われる。
私の欠陥はいつ見つかるんだろうか。
完
「そこにある針と糸」 あとがき
優生思想の問題は近年においてもテレビニュースなどで取り上げられることがあります。
そしてそのテーマに向き合ったとき、自分はいつも
「自分自身は真っ先に殺害の対象になりうるのではないか」
と考えてしまいます。
極端に言えば「優秀な人種を残し、足手まといになる者は排除する」というのが優生思想の考えですが、自分が「優秀」であるとはとても思えないし、「非生産的」という面においては十分にその条件を満たしてしまっていると思うからです。
またこれらの運動において大きな一翼を担っていたのが一部の医師や学者たちです。
当時の情勢から逆らえなかったからとはいえ、いわゆる頭の良い、優れた人たちが残忍な行為(虐殺や人体実験など)を行なっていたというのは、もちろん恐ろしいと思うのですが、ここで一つの疑問を抱きました。
「もし自らの研究や調査によって、自分の家族や友人、あるいは自分自身が優生ではないと判断されたとき、医師たちはどうするのか」
この疑問をかなり極端に表現したのが今作になります。
この話に英雄なんていたか?と思った方もいらっしゃるかもしれません。
敵を殴って倒すだけが英雄ではなく、人の命を救う医師もまた、現代における英雄といえるのではないでしょうか。
自らの生み出したテストで自分自身の「欠陥」が発見される医師。
主観ではなく、はっきりと数字で示される優劣。
迫りくる死の恐怖。
人は一人一人違います。
人間の優劣があることはある意味仕方のないことだとも思っています。
優生思想問題の答えは簡単には見つかりそうにありません。
しかし今の自分が一つ言えるのは
「その人の人生の価値や可能性、生きる権利を決めるのは、絶対に他者ではない」ということです。命の価値も権利も人間ごときが決められるものではないと思います。
針と糸はすぐそこにあります。
混沌深まるこの先の未来に、身勝手な選別が起きないよう、今後も考え続けていきたいです。
2020年 亜鶴間時間暁