想像の人物
誰なのか分からない。しかし鏡に映る全くの別人が日々、私の横に座り大学の講義を受けている。周りの皆もそれを不思議には思っていない。
夕食の際もごく自然にこの女は私の隣で食事をとっている。夫も母もこれについて何も言わない。普段のままだ。夫にいたってはまだ想像の逸脱を心配している。しかしもはや想像ではなく、この人物は現実にすでにここにいる。
母と弟はここ最近、アパートの立退きの件について話してばかりいたが、その会話にこの男が当然のように口を挟み意見を述べる。
私の想像に反応した鏡はトイレの前にある。それひとつだ。そこに映った別人もこの人物ひとりきりだ。しかし私の世界は完全に分界を始めたようだった。
「お前は誰だ」
「お前だよ」
常に笑ってそう答えるだけで、それ以上は何も言わない。そのうちこの人物が、つまりは私が「不審者」であり、かつ「覚醒者」であると疑われるかも知れない。そうなれば社会の混乱の原因にされてしまう。それ以上に以前よりもさらに私自身が分からなくなってしまう。辻褄だ。必要なのはこの人物と私のあいだの辻褄だ。私の辻褄だ。
この人物はときに姿が見えなくなる。はじめはほんのしばらくの間であったが、次第に丸一日いなくなるようにもなった。全く私ではない私が、私の知らないところで何をしているのか。
そのころ家の近所で、また不審者を目撃したという情報が出まわり騒ぎになっていた。
「真美。最近こっちの方まで不審者が徘徊してるって話しは聞いてる。気をつけてよ」
何気なく母が言う。
「この辺なの。アパートの方じゃなくて」
そう答える私の横でソファーに腰掛け、鏡の想像の女が頷いている。
「どんな人なの」
「どんな人って。見た目は何もおかしくはないんだけど、想像の産物らしいことは確かだって警察が言ってるのよ。大変でしょう。想像に辻褄が合うと思う? 何するか分からないと想像しちゃうわよ」
母は、私の死で塞いでいた気持ちを、この不審者騒ぎで忘れてしまったように元気を取り戻していた。ネットやテレビなどに拡散され、自由に動き回る私よりはるかに危険なものであることは確かだ。実際ここにいて、現実に生活しているのだ。それをだれも不審に思っていない。
(つづく)




