時代劇ショートショート【密偵】
シリーズの都合上、タイトルに「ショートショート」と書いていますが、ショートショートにしては長い話になっています。
時代劇ショートショート「もの忘れ」の続編のようなものですので、先に「もの忘れ」の方を読んでいただけると、わかり易いかもしれません。
若年寄の沼田は、若党一人だけを連れて吉原へ向かっていた。もちろん、忍びだ。
日はまだ高く、人出は少ないが、沼田は用心のために頭巾を被り直した。吉原大門をくぐり、真っ直ぐ伸びる大路を脇目も振らずに引手茶屋の松屋へ向う。
松屋の店先の隅には、逆さになった風呂桶が置かれていた。
「半吉」
沼田が声を掛けると、風呂桶に開けられた穴から、半吉が顔を出した。
「頭巾を被っちゃいるが、その声は沼田様だ。そうだろう」
沼田は黙ってうなづき、顔をしかめた。
「臭うぞ」
「三日もこの中に閉じ込められているんだ、仕方がねえ」
半吉は引手茶屋への代金が払えず、桶伏にされていた。
半吉がこんな目に遭っているのは、元はと言えば、半吉が新之助と名乗る侍を知り合いの眠々斎と間違えたからだった。半吉は、大金を所持している新之助に記憶が無いのを知って、奢らせるように謀り、吉原で豪遊した。新之助が清算したが、金が足りず、新之助は沼田に金を持ってこさせた。経緯を聞いた沼田は、新之助が半吉に一両貸してあるのを知り、「その分は半吉が自分で払え」と言って帰って行ってしまった。半吉は一両が払えず、払うまで桶に閉じ込められることになったのだ。
「沼田様、お願えだ、代金を払ってくんねえか。いい加減ここから出てえ」
「払ってやらんでもない。ただし、ワシの言うこと聞くならな」
「何でも聞くからよ、早く出してくれ」
「その言葉、忘れぬではないぞ」
沼田はそう言い残し、店の中へ入っていった。
沼田が一人で松屋の奥にある座敷で待っていると、体を洗って身綺麗にした半吉が主人の宙右衛門に伴われて入ってきた。宙右衛門は沼田の身分を知っているので、余計なことに係わるのは御免と思ったのか、直ぐに去って行った。
「沼田様、ありがとうごぜえやした」
半吉は深々と頭を下げた。
沼田は顔を上げた半吉を厳しい目で見つめ、問いただす。
「お前は、新之助殿を眠々斎と間違え、新之助殿に『まだ生きていたのか』と言ったそうだな。なぜ、眠々斎が死んでいると思った?」
「それは……」
言いよどむ半吉に、沼田は強い口調で迫る。
「正直に申せ、嘘は通用せぬぞ」
半吉は観念したようだ。
「沼田様と風間とかいう侍の話を聞いちまったんで」
「盗み聞きしたのか。けしからんやつじゃ。聞いたことを包み隠さず話せ」
半吉は、眠々斎を旗本の隠し子だと騙し、影武者に仕立て上げた上で、黒幕を突き止めるために、あえて眠々斎を殺させるという計画を聞いたと話した。
沼田は唸った。そこまで知られているとは思いもしなかったのだ。
「お前は、眠々斎が誰の身代わりになったのか知っているのか?」
「ハッキリとはわかりやせんが、多分、新之助さんでしょう。あんなに似てるんだ、新之助さんに違えねえ。新之助さんはどこかの殿様の若様なんでしょう? 新之助さんが公方様の代わりに参拝することになり、命が危ないってんで、新之助さんの代わりとして眠々斎に白羽の矢を立てたと、アッシは睨んでやす。違えやすか?」
半吉は、新之助と名乗った武士が将軍とは気付いてないようだ。将軍が町中をウロウロしているなど、思いもしないだろうから、無理もない。
沼田は安心するとともに駄目を押す。
「その通りじゃ。お前は見かけによらず、頭が切れるようじゃのう。新之助殿はワシの宗家筋に当たる家のご子息なのじゃ。当主に泣きつかれてな、身代わりを探しておったという訳じゃ」
半吉は沼田に騙されているとも気付かず、得意満面になった。
「お前はこの話を誰かに話したか?」
「いいえ、誰にも話しておりやせん」
「お前は、口が堅いか?」
「へい、アッシは町でまぐりの半吉と呼ばれておりやす」
「まぐりというより、カラスのようじゃがな。まあ良い、信用しよう。腹を割って話すが、他言無用じゃ、よいな」
「へい」
半吉は姿勢をただす。
「春日明神参拝の行列が鳥居の前に着いた時、数頭の野良犬が現れ、吠え始めた。 護衛の者は、暗殺者が放ったものと判断し、手筈通り逃げた。野良犬は一刻ほど籠を取り囲み、吠え続けた後、いなくなったそうじゃ。結局、暗殺者は現れなかったのじゃ。暗殺計画はただの噂じゃったようじゃ」
「眠々斎は生きているんでやすか?」
「生きておる。じゃが、問題が起きた。眠々斎が影武者にされたことに気付いたんじゃ。 危ない目に遭うのはもう嫌だと言い出してな、もうワシの言うことは聞かんと言うのじゃ」
「そういうことなら、本当のことを話して、追い出したらいいんじゃねんですか」
「それでもいいんじゃが、眠々斎にやって貰いたいことができたのじゃ。そのためには、ワシの言う通りに働いてもらわなければならん。眠々斎を従わせるには、どうしたら良いか考えていた時に、思い浮かんだのがお前じゃ。お前は眠々斎と懇意にしているじゃろう。眠々斎を説得して欲しいんじゃが、できるか?」
「簡単に言やあ、眠々斎を丸め込むには、どうしたらいいかってことでやしょう。そんなこと造作もねえ」
「できるのか?」
「できやすが、沼田様にも協力してもらわなけりゃならねえ」
「それは、やぶさかでない」
沼田は身を乗り出して半吉の考えた策略を聞き、自分の役割を確認した。上手くできるのか不安だったが、乗るしかない。
「よし、その方法でやろう」
「それじゃあ、軍資金として一両出してくんねえ。金が掛かるからよ」
沼田は渋々一両を半吉に渡した。半吉にまんまと一両をせしめられたのだった。
夕暮れ時、眠々斎は、どこの店に入ろうかと思案しながら町中を歩いていた。懐には、沼田から「気晴らしに酒でも飲んでこい」と言われて貰った金が入っている。
「眠々斎!」
眠々斎が振り返ると、半吉が立っていた。
「すっかり侍らしくなったじゃねえか。見違えたぜ。馬子にも衣装ってやつだな」
「半吉やないか」
眠々斎は、一言発して歩き出した。
「久しぶりに会ったっていうのによ、冷てえじゃねえか。懐が温けえんで、侍になった祝に奢ってやろうと思ったのによ」
眠々斎は、飲みに行くと知られたら、たかられると思い、やり過ごそうとしたのだが、逆に奢ってもらえるとは思ってもいなかった。眠々斎は態度を変えた。
「嬉しいこと言ってくれるやないか。ほな、行こうか」
「わかっちゃいると思うけどよ、大したものは奢れねえぜ」
半吉はそう釘を刺すと、近くの安酒場の暖簾をくぐった。
二人は座敷に上がり、膳を挟んで向かい合って座った。半吉は眠々斎の猪口に酒を注ぐ。
眠々斎が猪口から視線を上げると、半吉のおでこにたん瘤があるのに気付いた。
「半吉、そのたん瘤はどうしたんや」
「これか、これは吉原で芸者を揚げてどんちゃん騒ぎをした時によ、酔って頭をぶつけちまったのよ」
「嘘言いないな。あんさんが、ほないな金持ってるわけあらへんやろう」
「それがよ、旗本の若様とひょんなことから仲良くなっちまって、花魁遊びをしてえって言うんで、吉原で芸者を上げて騒いだ後、花魁と遊んだって訳よ。若様の奢りだったんだが、遊び過ぎちまって、金が足りなくなった。それで、若様が手紙を書いて金を持って来させたんだが、聞いて驚くなよ、来たのがお前を連れてった沼田っていう旗本だった」
「甲州屋に来はった沼田様のことかいな」
「そうよ、その沼田って人よ。沼田って人は太っ腹でよ、引手茶屋の代金全額を払ってくれた。結局、沼田って旗本に奢ってもらった形になっちまった。足を向けて寝られねえぜ」
眠々斎は半吉の話が信じられなかった。
「しかし、花魁ってのは遠目で見ても綺麗だが、間近で見ると格別だな。この世の者とは思えねえ。例えるなら、イタチみてえな獣の小便だな」
「何やそれ」
「貂の尿だから、天女ってことよ」
眠々斎はくだらないと思うと同時に、半吉の浮かれ具合を見て、花魁遊びをしたのは本当のようだと感じた。
「眠々斎、お前が羨ましいぜ」
「何でや」
「沼田って旗本の厄介になってるんだろう。だったら、花魁遊びなんかいつものことだろうよ。花魁とはもう馴染みになったか?」
「……」
眠々斎は花魁遊びをしたことが無かった。半吉を悔し気に見つめ、一気にお猪口の酒をあおった。
「まさか、花魁に会ったことも無えのか?」
「ほないなことあらへん。次に行けば三回目や」
眠々斎は、馬鹿にされるのが悔しくて、本当のことは言えなかった。
「おっ、いよいよ床入か。アッシなんか、顔を見るのが精一杯なのによ。羨ましったらありゃしねえ。床入したら、その話を聞かせてくれや」
眠々斎は「ああ」と気のない返事をして立ち上がった。これ以上、半吉の話を聞く気にはなれなかったのだ。
「厠か?」
「もう、行かなならへん」
「まだ、一杯しか飲んでねえじゃねえか」
眠々斎は、半吉が引き留めるのも聞かず、「ご馳走になった」と言って、店から出て行った。
半吉はその後ろ姿を見ながらニヤリと笑った。
眠々斎は直ぐに屋敷に戻り、沼田に詰め寄った。
「半吉に花魁の揚げ代を奢ったちゅうのは、本当でっか?」
「藪から棒に何じゃ」
「魚屋の半吉から、沼田様に吉原で遊んだ代金を払ってもろうたと聞いたんやけど」
「そのことか。確かに払ってやった」
「何であないな奴に!」
「半吉という男に奢った訳ではない。甥から吉原で遊んだ代金が足りなくなったと連絡が来てな、ワシが全額払ってやったのじゃ。半吉とかいう男は甥の連れじゃったから、結果的にそうなっただけじゃ」
「そうやとしても、沼田様と縁のあらへん半吉がええ思いをして、わては危ない目に遭うだけやなんて……納得できへん」
「だったら、どうしろうというのじゃ」
眠々斎は躊躇したが、思い切って言う。
「……わても花魁と遊びたい」
「そんなことか。容易いことじゃ」
沼田の反応は、予想外にあっさりしていた。清水の舞台から飛び降りるような気持ちで言った眠々斎は、肩透かしを食らった気分になったが、直ぐに花魁のことで頭がいっぱいになった。
「吉原にはいつ行きまひょか?」
沼田は姿勢を正した。
「そんなことより、お前に言わなければならぬことがあるのじゃ」
沼田の様子に、眠々斎は浮かれ気分が飛び、急に不安になった。
「お前がある旗本の隠し子だと言ったが、それは嘘であった。許せ」
「えっ」
眠々斎は、思いがけない告白を耳にして、驚きの声を上げるしかできなかった。そんな眠々斎に、沼田は淡々と語り聞かせる。
「ワシの宗家筋に当たる家の御曹司が、将軍の名代として春日明神に参詣することになってな、名誉なことと喜んでいたが、困ったことが起きた。取り潰された藩の残党が、将軍家に一矢報いるために春日明神参詣を襲撃するとの噂が持ち上がったのじゃ。宗家筋は慌ててな、ワシに身代わりを探してくれと泣きついてきおった。そんなワシの前に現れたのが、御曹司にそっくりなお前じゃ。ワシはお前を影武者にするために、隠し子だと嘘を吐いたのじゃ」
「ひっ、酷いやおまへんか」
「だから、こうして詫びておる」
沼田は軽く頭を下げ、続けた。
「ここからが大事な話なんじゃが、お前には当家から出て行って欲しい。これは詫び料じゃ」
沼田は眠々斎に一両を差し出す。
「一両で追い出すつもりでっか?」
「当家と無関係の者を置いておく理由はないじゃろ」
眠々斎は拳で畳を叩いた。騙されて、利用されるだけ利用されて捨てられ、「はい、そうでっか」とはとても言えなかった。でも、相手は幕閣だ。ごねたところで、どうなるものでもないのはわかっていた。
「仕方おまへん。せやけど、最後に花魁と遊ばせて欲しいんやけど」
「当家と関係なくなった者にそんなことをしてやる理由は無い」
眠々斎はガックリと肩を落とした。
「そんなに吉原へ行きたいのか?」
沼田に問われ、眠々斎は「行きたい」とつぶやいた。
「それなら、連れて行かんでもない。ただし、ワシの手先として働いてもらうぞ」
眠々斎の表情は急に明るくなり、身を乗り出す。
「な、何をしたらいいんでっか?」
「ご禁制の品を江戸に持ち込んでいる廻船問屋がおる。その廻船問屋には、ある旗本が出入りしておってな、闇取引に関与している疑いがあるのじゃ。ワシはその旗本が黒幕と睨んでおる。だが、証拠が無い。お前が廻船問屋に入り込んで、証拠をつかんで欲しいのじゃ」
「入り込めと言われはっても、どないしたらええか……」
「廻船問屋は茶室を建てておるのじゃが、その茶室の天井一杯に絵を施すそうじゃ。お前にはその絵を描いてもらう。上方で狩野派に学んだお前には適任じゃろう。手筈はこちらで全て整える。何も心配せんでいい」
眠々斎は心配いらないと言われても、不安にならざる得なかった。証拠をつかむには、ただ絵を描いていれば良いということでもないだろう。しかし、吉原で遊ぶためには従うしかない。
「全て沼田様の言わはる通りにします」
眠々斎は覚悟を決めるように言った。
眠々斎が密偵役を引き受けてからしばらくして、廻船問屋の宇田屋の茶室では、眠々斎が天井に向かって筆を走らせていた。既に通い始めて五日になる。
最初に宇田屋に来た時には、バレるのではないかと心配していた眠々斎だったが、全く疑われずに入り込むことができた。この五日間、眠々斎はさり気なく店の中を探ったが、密輸をしているようには見えなかった。しかし、用心棒らしき浪人が三人も住み込んでいるので、只の廻船問屋ではないのはわかった。特に「八滝の先生」と呼ばれている浪人は、ただならぬ雰囲気を醸し出していたので、何か悪事を働いているのは間違いないと思わざる得なかった。
昼飯時になって、眠々斎が茶室から出ると、店の主人の松右衛門が立っていた。三人の浪人が眠々斎を取り囲む。
「な、何でっか?」
眠々斎が怯えた声で訊くと、二人の浪人が無言で眠々斎の両腕を取り押さえ、松右衛門が眠々斎の前に進み出た。
「お前、公儀の犬なんだってな」
凄みのある口調で訊かれた眠々斎は、首を振る。
「しらばっくれたって無駄だぜ。密告があったんだ」
浪人の八滝が刀を抜く。
「先生待て、始末するのは二階堂様に指示を仰いでからだ。夜まで土蔵に入れておけ」
松右衛門に命じられた二人の浪人は、眠々斎の腕を持ったまま歩き出した。眠々斎は引き摺られるように土蔵へ連れて行かれ、中に放り込まれた。床に転がった眠々斎が立ち上がると、八滝が「忘れ物だぜ」と言って、眠々斎の道具箱を投げ入れ、扉を閉めた。
眠々斎は扉を叩いたが、ビクともしない。鍵を掛けられたようだ。見上げると、窓が開けられているが、格子が嵌っていて出られそうにない。
「誰だ、密告したのは!」
眠々斎は大声で叫び、床を激しく叩いた。
ひとしきり嘆いた眠々斎は、大の字に寝転がって考えた。
(確か夜までと言うとったな。それまでに逃げな、あの世行きか……どないしたらええんやろ)
横を向くと、道具箱が目に入った。
(一か八か、やってみるしかあらへん)
眠々斎は、道具箱から筆を取り出して壁に絵を描き始めた。
夜になり、土蔵の扉が開けられた。龕灯の光が床を照らす。
「いねえ、どこに隠れやがった。出てこい」
浪人の声が土蔵の中に響く。
「どうした」
もう一人の浪人が入って来た時、龕灯が壁を照らした。おどろおどろしい幽霊が浮かび上がり、ヒューという音が土蔵内に反響した。
「う、うわぁー」
「眠々斎が化けて出やがった」
二人は転がるように土蔵から出て行った。
口笛を吹いていた眠々斎が、荷物の陰から顔を出す。
「上手ういった。それにしても、描いた本人でも恐ろしいや」
眠々斎は、壁に描いた眠々斎そっくりの幽霊を一瞥すると、開け放たれた扉から外に出た。誰もいない。一目散に裏口の木戸へ向かって走り出す。
眠々斎は誰にも見つからず木戸にたどり着いた。木戸に掛けられている心張棒を外した時、いきなり襟首をつかまれ、後ろに引き倒された。
「逃がしはしねえ」
八滝はそう言うと、眠々斎を羽交い締めにし、そのまま歩き出した。眠々斎はなす術なく引き摺られる。
屋敷の庭に着くと、八滝は羽交い締めにしていた手を放し、眠々斎の尻を蹴った。前のめりに転んだ眠々斎が上目遣いで見ると、縁側に松右衛門と身なりの良い壮年の武士が立っていた。
「密偵というのは此奴か?」
「へい、絵師と偽って潜り込んでおりやした」
松右衛門は下僕のような態度で答えた。
「どれ、冥土へ送る前にどんな奴か見てやろう」
「二階堂様に眠々斎の顔を見せてやれ」
松右衛門に命じられた八滝は、四つん這いになっている眠々斎の髪をつかみ、顔を二階堂の方へ向けた。
眠々斎は縁側から見下ろしている武士を睨みつける。
(こいつが、沼田様の言うとった黒幕の旗本か)
「顔を見たけりゃ、よう見るがええ。これが日の本一の色男の顔や」
眠々斎は破れかぶれになり、自分の顔を自慢するような啖呵を切った。
二階堂は眠々斎の顔をまじまじと見ると、突如震えだし、ヘナヘナと座り込んだ。
松右衛門が慌てて声を掛ける。
「二階堂様、いかがなさいました」
「上様じゃ」
「上様?」
「手を放せ、早く手を離すのだ」
二階堂に命令され、八滝は訳もわからず、つかんでいた手を離した。眠々斎は立ち上がる。
(何が何かわからんが、逃げ出すのは今しかあらへん)
眠々斎は戸惑っている八滝に体当たりして倒すと、走り出した。後ろの方から、「追え、切り殺せ」との松右衛門の叫び声がする。
必死で逃げる眠々斎の前に、二人の浪人が立ちはだかった。眠々斎は慌てて踵を返したが、つまずいて転んでしまった。
一人の浪人が「もう、逃げられねえぜ。覚悟しな」と言い、上段に構えた刀を振り下ろした。
(もうあかん!)
眠々斎は目をつむった。
ドサッという音がして、眠々斎は恐る恐るまぶたを開ける。切り掛かってきた浪人が倒れていた。視線を動かすと、中段に刀を構えた侍がもう一人の浪人に対峙していた。
「風間殿! なんでここに?」
「沼田様から直々に命を受け、この店を見張っていたのだ」
風間が眠々斎に気を取られた一瞬をつき、浪人は風間に斬り掛かった。風間は真っ向から振り下ろしてくる相手の刀を避けるでもなく、同じように刀を振り下ろした。
キーン。
刀と刀が交わった瞬間、浪人の刀の軌道が逸れ、風間の切先が浪人をとらえた。血が噴き出し、浪人はそのまま崩れ落ちた。
「なかなか使うな。その太刀筋は小野派一刀流だな」
声の主は眠々斎を追って来た八滝だった。
「いかにも」
「冥土へ送る前に名を聞いておこう」
「小十人組頭、風間正勝! お主は?」
「作州浪人、八滝兵庫助氏龍!」
名乗りあった二人は、互いに正眼に構え、間合いを計りながらじわじわと移動する。
「エイッ!」
八滝が気合と共に刀を振り出すと、風間が八滝の刀に合わせるように刀を振り下げる。待っていたとばかりに、八滝が後ろに跳んだ。風間の切先は空を斬った。その瞬間、黒岩の刀が振り上げられる。風間は刀を落とし、腕から血を流してうずくまった。
「風間殿がやられてしもうた」
眠々斎は慌てて斬り倒された浪人の刀を拾い上げ、切先を八滝に向けた。
「来んな、来んな、こっちに来んな!」
「そんなへっぴり腰じゃ、大根も斬れねえよ」
八滝がゆっくりと眠々斎の方に歩み寄る。
「来んなと言うてるやろう」
眠々斎は震え声で言ったが、八滝は構わずに近づいて来る。
「ウワーッ」
叫び声を上げた眠々斎は、無茶苦茶に刀を振り回しながら突進した。八滝は間合いをとって、ヒョイヒョイとかわす。いくら斬りつけても、切先がとどかない。
刀を振り慣れていない眠々斎は、息が上がってきた。それでも懸命に振り続けたが、足がもつれた拍子に、刀がすっぽ抜けた。思わず、両腕で頭を庇う。
(あかん!)
眠々斎は心の中で叫んだが、何も起こらない。閉じていたまぶたを少し開ける。八滝が大の字になって倒れていた。胸には、眠々斎が振り回していた刀が突き刺さっている。
「眠々斎、その技をいつ覚えたのだ?」
腕を押さえて膝を突いている風間が、驚いた表情で訊いた。
眠々斎は剣術を習ったことはない。ただ、無我夢中で振り回した刀が手から離れ、偶然突き刺さったに過ぎなかった。
「いつって、今日、初や」
「きょうはつ……京八流か! これが京八流なのか。眠々斎、お主は上方の出であったな。なるほど、そこで身につけたのだな。幻の剣術をこの目で見られるとは思わなかったぞ」
風間は興奮し、一人で納得していた。
眠々斎は訳がわからなかったが、風間が尊敬の眼差しで見てくるので、思わず「わてが本気になれば、こないなもんや」と言ってしまった。もっと自慢したい眠々斎であったが、そうもいかない。
「風間殿、話は後や。早う逃げな」
眠々斎が風間を立ち上がらせると、「御用、御用」との声があちこちから聞こえ、御用提灯を持った捕り手が次々に敷地の中になだれ込んできた。
廻船問屋の宇田屋で捕り物があった日から十日程経った夜、沼田、眠々斎、風間の三人は吉原にある引手茶屋の松屋にいた。
座敷に座る三人。お茶をすすり、一息ついた沼田が喋り出した。
「宇田屋の事件が落着したのは、お主ら二人の活躍があったからじゃ。今日は大いに楽しんでくれ。それと眠々斎、これで約束は果たしたぞ」
「沼田様、約束は花魁に会わせてもらうことやった筈。宴会だけで終わらせられたんでは、約束がちゃいます」
眠々斎は必死な形相で訴えた。
「わかっておる。花魁を呼ぶから心配するな」
眠々斎は、打って変わってこれ以上ないという笑顔を見せ、体全体を弾ませた。沼田はそんな眠々斎を呆れ顔で見ながら、風間に訊く。
「斬られた腕の傷はどうじゃ?」
「幸い浅手でした。まだ痛みますが、もう大丈夫です」
「それは良かったのう。ところで、眠々斎がお主を斬った浪人を倒したというのは本当か?」
「本当です。眠々斎は京八流の使い手だそうです」
「人は見掛けによらんもんじゃな。眠々斎、京八流剣術というのを見せてみよ」
「えっ、見せるんでっか? 見世物やないやさかい……」
困惑した様子で答えた眠々斎に、風間が追い打ちをかける。
「若年寄様の命令だ、やれ。それに某も見たい」
ここまで言われてやらなければ、嘘がばれるかもしれない。仕方なく、眠々斎は刀を持った格好をして、手足を適当に動かした。
「タコ踊りのようじゃのう」
沼田が眠々斎の動きを不思議そうに見ていると、襖が開き、主人の宙右衛門が挨拶をして入って来た。
宙右衛門は、踊りを止めた眠々斎の横を通り過ぎる時、「新之助様、今日はまたご機嫌のご様子でようございました」と言った。眠々斎は一瞬怪訝な表情をしたが、特に気にしなかったようだ。
「沼田様、お越しいただき、ありがとうございます。今日はいかようなお遊びをお望みでしょうか?」
沼田の前に座り、深々と軽く頭を下げた宙右衛門が訊いた。
「花魁を呼んでや。とびっきりの」
沼田の代わりに、眠々斎が答えた。
宙右衛門は沼田に訊く。
「よろしいので」
「あの者の望み通りにしてくれ」
沼田の了承を得た宙右衛門は、眠々斎から要望を訊き、出て行った。眠々斎も、「厠に行く」と言って宙右衛門の後を追うように座敷を出た。
風間は、眠々斎の姿が消えたのを確認してから、沼田に話し掛ける。
「春日明神の一件で、眠々斎はへそを曲げたと聞いていましたが、眠々斎がよく密偵を引き受けましたね」
「甲州屋にいた魚屋を覚えているか?」
「確か、半吉とかいう男だったかと」
「ひょんなことで、その半吉と顔見知りになったのじゃ。眠々斎のことで半吉に相談したところ、いい知恵を出しおっての、その通りにしたら上手く行ったのじゃ」
「それでは、某に『眠々斎が幕府の密偵だと宇田屋に密告しろ』とお命じになったのも半吉の考えだったのですか?」
「それは、ワシの考えじゃ。二階堂が眠々斎の顔を見たら、上様と勘違いして消しにかかると思うてな、そこを押さえれば言い逃れできないだろうと考えたのじゃ。思うた通り、二階堂は眠々斎を上様と思い込み、観念して全てを白状しおった」
「さすがは知恵者の沼田様。恐れ入りました」
「ワッハッハ」
沼田が笑っているところへ、眠々斎が芸者衆を引き連れて戻って来た。
「ご機嫌のようでおまへんか。芸者衆もやって来たことやさかい、パーッとやりまひょ」
眠々斎の言葉と共に宴会が始まった。
宴がたけなわになった時、花魁の一団がやって来た。花魁は沼田の前に座り、手をついて「妓楼・竜田川から参りました太夫の千波夜でありんす」と挨拶すると、続けて「主さんがあちきのお客人でありんすか?」と訊いた。
「そうだ」
沼田は躊躇いなく答えた。
眠々斎が慌てる。
「沼田様、それはないやおまへんか。花魁の相手はわてや」
風間が眠々斎の頭に拳骨を見舞った。
「立場をわきまえよ。沼田様にお譲りいたすのが筋であろう。お主は別の遊女にしたらよかろう」
「風間、よく言った。これが武家の習わしじゃ」
眠々斎は食い下がる。
「そんなアホな。女郎を目上の者に譲るのが武家の習わしなんでっか?」
「そうじゃ。もし、承知せぬなら、今日のところはこれで帰るとするが、いかがいたす」
沼田にキッパリと言われ、眠々斎は渋々承知するしかなかった。
眠々斎らの三人は、花魁と共に引手茶屋を出て、妓楼に向かった。妓楼に到着すると、眠々斎は花魁とは別の遊女の部屋に案内された。
「沼田様にも困ったもんや。花魁の相手はあての筈やったのに。花魁に会うた途端、ころりと態度を変えるんやさかい」
眠々斎はブツブツ言いながら襖を開けた。
着飾った遊女が三つ指をついて待っていた。唐紅色の着物が、行灯の光を反射して遊女の頬をほんのりと赤く染めている。
「格子の加三代でありんす」
お辞儀をした加三代が顔を上げた。
(色っぽい。千波夜太夫に負けてへん……ええ女やないか)
眠々斎はフラフラと歩み寄り、跪いて加三代の手を握る。
「止めておくんなまし。あちきは格子でありんす。初手は顔見せだけでありんす」
「鉄砲女郎とは、ちゃうのはわかってるんやけど……、な、な、ええやろう」
「離しておくんなまし」
加三代に拒否されても、眠々斎は手を離さない。加三代はその手を振りほどき、立ち上がりながら勢いよく反転した。
眠々斎の目の前で赤い着物の裾が舞い、白い脚が現れる。
ゴツン。
加三代が振り返ると、眠々斎が仰向けになって倒れていた。反転した時に、上げた脚の踵が当たったらしい。眠々斎は後ろ廻し蹴りを顔で受けてしまったのだ。
加三代は眠々斎の顔を覗き込んだ。
「おでこにたん瘤を作って伸びちまってるよ。近頃は、こんな客が増えて嫌になるね」
加三代はそのまま部屋から出て行った。
<終わり>
若党は武家に仕える奉公人です。武家奉公人には若党、中間、小者などがありましたが、若党は武士の身分でした。
龕灯は携行用灯火具で、懐中電灯のような物です。底の付いた筒の中に二つの輪があり、その輪にロウソクを立てて使用しました。輪が動くようになっているため、傾けてもロウソクが常に垂直に立つようになっていました。
一方向だけを照らすため、持つ者の姿は見えないようになっていました。強盗提灯とも言います。
小野派一刀流は、伊藤一刀斎景久が編み出した一刀流の流れをくむ剣術の流派です。
一刀斎は弟子の神子上典膳(小野次郎右衛門忠明)に一刀流を継承させ、忠明は将軍家剣術指南役として召し抱えられるほどになりました。忠明後、一刀流は分派し、忠明の三男の忠常が継承した系統のことを一般に小野派一刀流と言います。
京八流は、剣術の源流とされる流派の一つです。始祖は鬼一法眼ですが、実在の人物かはわかりません。鬼一法眼が鞍馬の八人の僧に武術を教えたとの言い伝えから、京八流と呼ばれています。
鬼一法眼には、若き源義経に武術を教えたとの伝説もあります。
他には、京の一条堀川に住んでいた陰陽師の鬼一法眼が所持していた中国伝来の兵法書「六韜」を、義経が盗んだという話もあります。六韜は文、武、龍、虎、豹、犬の六巻からなり、義経が盗んだのは「虎の巻」でした。義経は虎の巻を利用したから活躍できたそうです。伝承ですので、異なる話もあります。
解説書を虎の巻と言いますが、語源は六韜なんだそうです。ただ、それが義経と関係あるかはわかりません。